涼宮ハルヒの落語

月館望男

第一席 『紺屋ハルヒ』

 せんべい布団の上で何度目になるかわからんくらいの寝返りを打って、俺は大きく溜め息を吐いた。

 やれやれ、寝込んでもう三日目か。お医者様でも草津の湯でも……なんて歌があったが、まさか自分がなるとはねえ。


「ようキョン。入るぜ」


 否応の断りも無しに入ってきたのは谷口だ。こんなヤツでも一応は俺の雇い主なんだよな。まぁ寺子屋通いの頃からの付き合いなんで、二人きりの時は気にしないでもいいんだがさ。


「どうよ具合は? もう三日も寝込んでっけど、ちゃんと食ってんのか?」


 まぁ一応はな。

 俺は布団から身体を起こして応えた。


「それにしても頑丈さだけが取り柄だと思ってたのになあ。流行病でもねえっていうし、一体どうしたんだよ?」


 ぐ……まぁただの過労だよ。疲れがたまってただけさ。

 本当のことなんか言えるわけがない。なにしろこいつは幼馴染みの上に雇用主、徹底的に馬鹿にされるだけだからな。


「やれやれ。まぁなんだ。小芝居打つのもガラじゃないからなあ。ズバリ! お前恋煩いだろ!」


――失態だ。


 こんなヤツに見抜かれるとは。俺は無言で視線を逸らして肯定とも否定とも取らせない態度を返した。無駄な抵抗だがね。


「しっかし朴念仁のお前がねえ。相手は誰だよ? 甘味処の看板娘のおみくちゃんか? それとも呉服屋鶴屋堂のお鶴ちゃんか? 貸本屋のお有希ちゃんやら、剣道場の一人娘のお涼ちゃんなんてのもアリか。ん?」


 谷口が列挙する名前に、俺の病の相手はいなかった。まぁどの娘も顔見知り程度の高嶺の花なんだが、俺の……その想い人ってのは、それよりも遙かに高みにあるからな。

 コイツになんぞ知られたら、それこそ爆笑されるのがオチってもんだ。


「なんだ、どの娘も違うのか。んー……? お前の様子がおかしくなったのは三日前だからなぁ……あ? ははぁ……」


 谷口はアゴの下に当てていた手で二・三度頬を撫でると、ニヤリとイヤな笑みを浮かべた。

 まさか……。


「お前あれか。この前、吉原に行ったときの花魁道中でやられちまったってわけか?!」


 最悪だ。耳まで赤くなってきてやがる。これじゃどれだけ否定しても無駄だ。


「お前なー街の娘なら、そりゃいくらでも目はあるかもしれねーけどよ。花魁は無理だろうよ。それにあの時道中打ってたのは、よりによって寿々美屋の春陽太夫じゃねえか!」


 春陽太夫。そうさ、寝ても覚めても俺の頭の中にちらつくのは、その太夫の顔なんだ。吉原でも大店中の大店である寿々美屋の太夫。

 俺みたいな染め物職人如きが相手に出来るわけもない高嶺の花だ。

 思い返せば五日前のことだ。谷口に連れられて吉原を冷やかしに行った俺は、人だかりに紛れて谷口とはぐれちまったんだ。

 往来の激しい吉原だが、人だかりが出来るなんてのは火事か喧嘩か、もう一つに決まってる。で、俺は人垣の向こうに、そのもう一つ、つまり花魁道中を見たってわけだ。

 なにしろ今をときめく太夫だからな、俺にゃ縁がないと特に興味も持たずに谷口を捜そうとしたんだが、ちらと覗いた行列――禿を先導にしたその後ろに――。


 えらい美人がいた――。


 外八の字でゆっくりゆっくりと歩く花魁の傍らで、禿が口上を唱う。


『 おいらんとこの姉さんは 歌に三味線 舞にお茶 東の中で随の一

   ただの大尽 興はなし 人外神人仙人や 聞かば寄り越せ 寿々美屋へ 』


――それが寿々美屋の春陽太夫だったってわけだ。


 以来俺は何をしていても頭に浮かぶのは太夫のことばかり。しまいにゃこうして寝込んじまったってわけだ。我ながらなんとも情けないね。


「あいつはダメだ、やめとけ。なにしろどんなお大尽だって振っちまうんだからな。器量はいいし、太夫の品格もある。学もあるし歌も楽も舞も碁も特級品だが、なにしろ我が儘さも天下一品だからな」


 知ってるさ。大門の外でだって男衆の間じゃ有名だからな。そんな噂話を聞くだけで、俺には手の届かない高嶺の花だってことを改めて知るばかりだ。

 だからこうして布団引っ被って寝込んでたんだよ。放っといてくれ。


「なに言ってんだか。お前は腕の良い職人なんだから、ちゃっちゃと現場に出てもらわなきゃ困るんだ。まぁ叶わねー相手だ。諦めて現実を見ろって。別に太夫でなくてもいいだろ。まぁ気晴らしってやつだ。吉原に冷やかしに行こうぜ!」


 明るく励ましてくれているようだが、吉原なんぞに連れて行かれたら、余計に辛くなるっつーの。どっかのお茶屋に道中打たれてるところに出会してみろ。しまいにゃ大川に飛び込むぞ。


「やれやれ、岡惚れもいいところだな」


 うっさい。その内諦めもつくから、もう少し寝かせといてくれ。


「困ったヤツだなあ。まぁあの我が儘ぶりじゃ、年季明け前に誰かに身受けされるなんてこともないだろうけどな」


 考えたくもねーよ、そんなこと。


「なにしろどれだけのお大尽でも振り飛ばしてるんだ。太夫の特権だな。会うだけでも十両はかかるってのに五分で振られちゃ世話ねえぜ。なにしろ天人、仙人、人外でもなきゃ興味が無いとか言ってるらしいからな」


 そう言うと谷口はにが虫を噛み潰したような顔をした。まさかお前……。


「ち、ちげーよ! とにかく! さっさと店に戻ってこいよ! 染め物の注文がたまっちまう前にな!」


 慌てたように部屋を出て行く谷口。……まぁ振られたんなら構わないけどな。


……それにしても……。


 俺は布団にごろりと横になって考える。十両、十両か。十両ねえ。

 俺がしこたま働いて得られる金が一年三両。手持ちの金なんか一両にも満たない


――最低でも四年か。


 なにしろ人気の太夫だ。そんなことやっている間に年季が明けてどっかに消えちまうか、どこぞのお大尽の囲われものになるか、大寺の後家さんにでもなっちまうかもしれないんだなぁ……やれやれだ。


――ガラリ。


「おいキョン」


 なんだよ谷口。帰ったんじゃねーのかよ。


 再び扉を開けて顔を覗かせた雇い主に悪態を吐く。


「十両だ。いいか、お前気合い入れて三年働け。そうすりゃ九両になんだろ。幼馴染みのよしみで、残りの一両は俺が出してやる。それで十両だろ? そんときまでに春陽太夫が大門の内に居たら……お前会うだけ会ってこい。いいな?」


 谷口……。


「それとな、春陽太夫の動向はそれまで俺が見張っててやる。大丈夫だ。こう見えても紺屋の若旦那様だ。吉原じゃそこそこ顔が利くからな。だから……さっさと仕事に戻れよ?」


 三年経ったら春陽に逢える。三年。三年か。俺はさっきまで考えていた四年という時間が一年間縮まったというだけで有頂天になっていた。

 現金なもので、それまでの憂鬱が吹っ飛んだ俺は、せんべい布団から身体を跳ね起きさせて、戸口にいた若旦那に飛びかからんばかりの勢いで近づくと、何度も何度も礼を言った。



 ◇ ◆ ◇



――それからというもの、俺はそれこそみっちりと働いた。紺屋の職人仕事ってのはなかなかに重労働だ。時間のかかる染め物仕事だが、それでも丁寧にやってなんぼのもんだからな。

 藍で手を真っ青に染めながら働く俺。三年経ったら春陽に逢える、三年経ったら春陽に逢えるって心の中で呟きながらな。

……時々口に出してたようで、随分とからかわれたもんだがね。

 谷口……いや、若旦那が言うとおり、俺の腕は悪い方じゃないとは思う。本人としちゃあ、ただ丁寧にやるってだけなんだが、それが評判になるってのは悪い気はしないもんだ。

 その内仕事ぶりが大旦那にも認められ、俺はいつの間にか手代から小番頭に出世していた。そして中番頭にまで出世するというような話が出た二年目の夏頃のことだ。

 俺は仕事終わりに湯屋に寄り、近所のお社の縁日を冷やかしてみることにした。ついでに賽銭一つも放って願掛けもしようかってね。


 ところが参拝を済ませたところで、突然の夕立がやってきやがった。

 やれやれ困ったもんだ。せっかく湯で温めた身体が冷えちまう。暑い夜のお湿りにゃいいかもしれんがね。

 そんな風に独りごちながら、お社の軒下で雨宿りをしていると、娘が一人こっちに駆けてきた。雨宿りのお仲間ってわけだ。


「もー! ひっどい目にあったわー」


 誰とも無しに憤慨の声を上げる娘さん。


「まぁ仕方ねえさ。突然振るから夕立ってんだからな」


 俺も気軽に声をかける。


「そりゃそうだけどね。あら兄さん、いいもの持ってるじゃない。ちょっと貸してもらえない?」


 俺が肩からかけている手ぬぐいを指さして言う。ま、構わんけどな。湯屋の帰りなもんで、多少濡れてるがいいのかい?


「露を払うだけだからね。じゃ、借りるわよ」


 そう言うや、ひったくるように手ぬぐいを取って着物の肩口やら袖やらを拭い始める。裾から覗く白い脚が酷く目に眩しくて、視線を逸らす。


「やれやれ、ありがとね。さて、どれくらいで止んだものかしらねえ」


 軒から空を覗いてみるが、当分は無理だろう。ま、半時もすればってところかね。


「参ったわねえ。お賽銭ケチったからかしら?」


 ころころと笑う娘。よく見れば大層な美人だ。化粧をすればもっと化けるかもしれんね。


「兄さんはどうしてここへ? 夜見世の冷やかしかしら? それともお参りに?」


 ま、そんなところさ。


 俺は突然出来た雨宿りの道連れの娘さんに、わざわざ自分の恋煩いを語る気にもならず、誤魔化してみた。


 そういうそっちはどうなんだい?


「あたし? 今日はうちの娘……じゃなくって、妹たちにね。夜見世で欲しいものがあるってんで、お暇もあったからお参りついでにちょっとね」


 なるほどね。確かにこの時間に子供らを外に出しちゃいけないしな。


「そういうこと。ま、それともう一つ理由はあるんだけどね」


 へぇ? お参りの方かい?


「そ。まーでも他人様に話すようなことでもないわ。……そーね、兄さんが語ってくれたら話してあげてもいいわよ? 雨上がりまでの退屈しのぎってことでね」


 そう言ってまたころころと笑う。随分とおきゃんな娘さんだ。どこぞの茶屋の看板娘かもしれんな。ま、同じ軒下に入ったのも何かの縁だ。

 笑ってくれても構わんが、出来ればそんなに笑わんでくれよ?

 そう前置きしてから、俺は若干しどろもどろになりながらも、お参りの願い事を話してみた。って、お参りごとってのは話しちゃ願がとけちまうんじゃないかね? まぁ話しちまったもんは今更どうしようもないが。それにしたって顔が熱くなるのは困ったもんだね。


「へ、へぇ。随分と初心なんだねえ兄さん。そんな一目惚れがあるもんなのねえ」


 まぁ、これまであんまり女衆とは縁のない人生だったからな。


「あははっ。で、でもその相手の太夫さんってのも、きっと喜ぶだろうねえ。兄さんが三年みっちり働いて逢いに来てくれるってんなら、三度目の馴染みを待たずに床入れだってしちゃうかもしれないわよ?」


 こらこら、若い娘がそんな吉原の仕来りに詳しいってのはどういうこった。嫁の貰い手がなくなるぞ?


「お生憎様! これでも引く手はあまたなんだから。まぁ、お断りさせてもらってるけどねぇ。ろくな男がいないもんだからさ」


 そういうと娘は少し寂しげな顔をしてみせた。


「あたしねぇ。昔っから不思議なことに目がないのよ。器量には自信がないわけじゃないから、寄ってくる男衆はそりゃ多いけどね。ただの男には興味ないの」


 どっかで聞いたことのあるような事を言いやがる。


「芸事を一通りやってみたりもしたけどね、てーんで面白くなくってさ。今日お参りに来たのもね、不思議なことに出会えますようにってね。そんなお参りにきたってわけ」


 そして、また鈴の転がるような声で笑うと、たまの縁日だから、お稲荷さんでもそこいらにいるんじゃないかってね、なんて付け加えて、娘は向日葵みたいな笑顔を見せた。


「これで晴れ間が射してりゃ、お狐さまの嫁入り道中でも見られたかもしれんがねえ」


 そんな風に俺も返すと、二人で顔を見合わせて笑いあう。

 よほど面白かったのか、身体を折って笑う娘さん。と、姿勢を崩したものか二足ほどよろけると、石畳に尻餅をつきそうになった。慌てて手を伸ばして白い手首を握る俺。

 やれやれ間一髪だな。着物が台無しになるところだったぜ。笑うも結構だが、足下にゃ気をつけなきゃな。年頃の娘さんらしく、おしとやかに笑えばいいものを、馬鹿みたいに大笑いするからだぜ?


「余計なお世話様! でも……あ、ありがとね……」


 憎まれ口と礼とを同時に受け取りながら助け起こしたが、見れば見るからに上等な草履の鼻緒が切れちまっている。なるほど、これじゃ転ぶわけだ。


「ちょいと待ってな」


 そういうと俺は娘の足下にしゃがみ込んで、肩に掴まらせると懐から染め物の端布を取りだして鼻緒を結い直した。仕事帰りでよかったぜ。そら。

 そう言うと結い直した草履を履かせてやる。左が紅で右が藍ってのはどうにもいけないが、まぁ家に帰るまでの辛抱だ。


「……あ、ありがとう」


 見れば娘さんは顔を真っ赤にしている。どうしたんだ? 雨にうたれて熱でも出したんじゃあるまいな。


「ち、違うわよ!」


 まぁそれならいいんだがな……ん? 娘さんはじっと俺の手を見ているようだ。どうしたんだ? 俺の手がどうかしたか?


「え、あ、うん。兄さん、いい手をしてるねえって思ってさ」


 いい手? これがかい?

 俺の手は爪まで真っ青に染まっちまってる。紺屋の染め物職人なら誰でもそうなるもんだ。職人にとっちゃ勲章みたいなもんだが、あんまり見栄えのいいもんじゃあない。


「そんなことないわよ。ちゃあんと働いてる手。あたしはきらいじゃないわよ。ろくな働きもしないで真っ白けな手をしてるお大尽共より、よっぽど実があるわ」


 端布一枚分にしちゃ過分な誉め言葉だね。ありがたく受け取っとくさ。

 そう言って頭を掻きながら笑うと、今度は俺の顔を見てぼうっとしてる。

 おいおい本当に大丈夫かい? なんならお医者に診てもらった方が……。


「な、なんでもない! 大丈夫、大丈夫だから!」


 慌ててそっぽを向く娘。同じ方を見れば雨は上がり始めたようだ。

 さて、そろそろ帰るとするかね。


「そ、そうね。ねぇ……兄さん、お名前は?」


 別れ際に娘さんが問いかけてくる。

 おいおい、娘から名前を聞くなんてあんまりするもんじゃないぜ?


「いいから!」


 谷口屋っていう紺屋の小番頭さ。店の連中も旦那衆もキョンって呼んでる。間抜けな呼び名だが、親からもらった名前より通りがいいんでね。お前さんは?


「あ、あたしは……お春。お春っていうの」


 そうかい。そんじゃお春さん、気をつけて帰るんだぜ? お稲荷さん探しは明るい内にな! 縁がありゃ油揚げ用意して付き合ってやるからさ!

 そう言うと、俺はまだ小雨の降る中へと一足先に飛び出した。

 お春さんか、あの娘も大層可愛らしかったなぁ。白粉はたいて紅をさせば、そりゃあ春陽太夫にだって負けないくらいの器量だったかもしれん。

 いやまぁ太夫になるにゃ少々おきゃんが過ぎるけどな。


 境内へと続く石段を駆け下りて、ちらと振り返ると、お春さんはもういなかった。



 ◇ ◆ ◇



 それからまた一年。あの日から都合三年が経っていた。

 それだけ経てば岡惚れした花魁のことなんて忘れるだろうって? そんなわきゃねえだろう。一年前の雨宿り、たまたま出会ったお春さんに少しばかり心揺れたこともあったが、あれから一度も会えてねえしな。

 まぁそれをいったら春陽太夫だってそうなんだが……。

 それはそれ、これはこれ、だ。あの日から三年という約束を果たすべく、俺は谷口……もとい若旦那に話をしにいった。


「お? どうしたキョン。えらい顔色して。なんか良いことでもあったのか?」


 まあな。今日で年季明けだからな。ちょっと興奮もするってもんだよ。


「年季明けって別に奉公で来てるわけじゃねえんだから。自分の店でも持つのか? いくらなんでもそりゃまだ早いだろう」


 こいつ、絶対に忘れてるな……。


 そうじゃねーよ。俺の今まで溜め込んでた給金を全部出して欲しいって言ってんだよ。


「ん? 確かにこの三年のお前の給金は全部預かってるが……なにか買うのか?」


 まぁ買うっちゃ買うんだろうけど……ズバリ言うなよ。設定上仕方ないとはいえ、ちょっと色々、その、なんだ、困る。


「わけわかんねえやつだなあ。お前の溜め込んでた分は総じて九両だ。大したもんが買えるわけだが、なにを買うのか教えてくれたっていーじゃねーかよ」


 そりゃその……なんだ。はる……ごにょごにょ……をだな。


「貼る温パ○クスだあ? そんなもん九両分も買ったら店が開けるほどになっちまうぞ?」


 なんだよそれ! っつーか時代考証的にそんなものがあるわけねーだろ!


 春陽だよ! 春陽太夫!


 お前が言ったんだろうが! 三年勤めて九両溜めたら一両足して十両にしてやるって。それで座敷あげて春陽太夫を呼んでくれるって! 忘れたのかよ!


「あー! あーあーあー! そーいやそうだったな! いや、和和和忘れてたわけじゃねえんだ! いやマジだって! そっかそっか!……いやしかし……お前も心底純情なヤツだなぁ」


 余計なお世話だ。他に道楽ごとがあるわけじゃなし、こうと決めて貫き通しただけだよ。


「ま、いいや。その純情、気に入ったよ! よし、一両足して十両な。確かに出してやる! 春陽太夫は相変わらず馴染みもつけずにいるって話だ。お前なんかじゃ無理だろうが、行くだけ行ってこい!」


 俺は大きく肯くと谷口の手を取って感謝した。後にも先にもないくらいにな。


「だがなーキョン。大門の座敷ってのは、そうそう職人なんぞがあがれるところじゃねーんだ。粋であることも必要だが、お上品でなくちゃいけねえ。だからな、お前お医者の古泉先生のところに行ってよくしてもらいな」


 先生には連絡しとくからよ、なんて言って谷口は丁稚を一人呼びつけると、自分の着物を一張持ってこさせた。それも随分上等なものだ。


「せっかくの晴れの日だからな。藍の染みた着流しなんかじゃつまんねえだろ。これ貸してやるから着ていきな」


 なんか悪いものでも食ったんじゃないかという程の大盤振る舞いだ。俺は思わず谷口の額に手を当てて熱を測りたくなったが、ぐっと堪えて着物を押し抱いた。

 悪いな。恩に着るぜ。


「幼馴染みのよしみだ。いいってことよ。一丁、頑張ってきな!」


 そう背中を押されると、俺はまず湯屋にかけこんで身体中を音の出るほど洗い、にやけ面で有名な古泉先生のところへと向かった。


「話は聞いてますよ。ふふっ。随分と熱をあげたものですね」


 何を隠そう、コイツも寺子屋からの幼馴染みだ。いつでも薄ら笑いを浮かべたにやけ面なんだが、医者としちゃあ腕は悪くない。見栄えも悪くねぇもんだから、街の娘にも人気がある。吉原も馴染みの気障ったらしい野郎だ。こんな奴の世話になるとは歯がみしたくなるね。


「まぁまぁ、あなたみたいな堅物の朴念仁が一身をかけた三年越しの恋煩いじゃないですか。協力は惜しみませんよ」


 へいへい。さっさと座敷の作法とやらを教えてくれよ。


「そうですねえ。まず、あなたが紺屋の職人だということを気付かれてはいけません。とりあえず遠い大寺の次男坊あたりにしておきましょうか」


 なるほどなるほどって、俺は経なんざ読めないぞ?


「いいんですよ、次男ですからね。それで書道の達人で、寺の名を慈音、雅号は墨州といった感じでいかがでしょう? なに、座敷で一筆ねだられたら自前の硯と筆でないと無理だと断ればいいんです」


 慈音墨州(じおんすみす)……ねえ。なんだか舌を噛みそうだな。


「まぁ、お座敷じゃその名で呼ばれることもないでしょう。さて、お召し物はいいようですから、あとは言葉遣いと……その手ですね」


 言葉遣いったって、突然お前みたいにお上品に喋れってのは無理だぜ? それに手だって染みこんだ藍は落とせねえ。これでも湯屋に行ってきたんだがな。


「ふふっ。まぁまぁ、言葉遣いはそう改まりませんからね。粋な会話を楽しむというのは難しいですが、花魁に何を言われても『あいよあいよ』と応えるようにしてください」


 なんだそのナヨナヨした口調は。


「まぁまぁ、一応は努力してくださいね。それから手ですが……湯で落ちなければこういうものがあります。鶯の糞で作ったものなんですけどね……ああこれでも落ちませんか。じゃあ、こうしておいてください」


 そういうと古泉は着物のたもとに指先を隠してみせた。なんだかますますナヨナヨだなあ。お座敷じゃこんなことしてなきゃいけないのか。


「氏素性やら、お郷が知れたら、たとえ大判小判を積んでいても追い出されるのが座敷という場ですからね。太夫に逢いたいなら、我慢ですよ。いいですね?」


 諭すようにいいながら、にこりと微笑む古泉である。やれやれわかりましたよ。


「結構です。それじゃお茶屋と寿々美屋には、使いを遣って話を通しておきますので」


 古泉先生、いや、古泉。

 俺は立ち上がって支度をしようとする古泉に呼びかけた。


「はい? なんでしょうか?」


――ありがとうな。


「とんでもない。幼馴染みの恋、応援しないでどうしますか。ああ、それと……一つ面白い噂があるんですよ」


 なんだ?


「あなたが夢中になっている春陽太夫ですがね。道中での禿の口上は御存知ですか?」


 ああ、人外神人仙人やってヤツだろ。


「ええ。それに一つ加わったものがあるんですよ。一年ほど前からね」


 へえ。鬼か幽霊か狐狸の類でも加わったのか?


「おや、鋭い。加わったのは『高野のお狐』だそうですよ。全く、あの太夫は何を求めてるのかさっぱりわかりませんね。不思議な花魁ですよ」


 こうやのおきつね、ねえ。


「それでこの一年は馴染みになるどころか、座敷で問答をふっかけては追い返してるそうですから……あなたが人外やら神人・仙人か狐だったらよかったんでしょうけどねえ。困ったものです」


 ま、そりゃ無理だ。慈音墨州なんて名乗ったところで、化けの皮どころか袖を捲れば紺屋の職人だからな。逢えるだけでいいんだよ。逢えるだけで、な。


「まったく、あなたの純情ぶりには頭が下がります。さて、じゃあ大門へむかいましょうかね」



 ◇ ◆ ◇



 そんなこんなでまずはお茶屋のお座敷にあがったわけだが、まーこれが大騒ぎだ。芸者衆がやってくるわ幇間が騒ぐわでなにがなんだかわかりゃしない。灘の生一本ですなんていわれて出された酒だって味もわかりゃしない。

 溜め息ばっかり吐いていると、古泉は楽しげに芸者に酌をさせちゃ三味線やら舞やらに拍子を入れてやがる。馴染みの場慣れってのはこういうのを言うんだろうね。

 まぁそれでも酒が入りつつも、なにか問われれば『あいよあいよ』なんて誤魔化してたところで、お茶屋から寿々美屋に出した使いが帰ってきたという報せが入った。

 なんでも今夜は春陽太夫の身体が空いているという。今夜が駄目なら次の約束を入れるってのが慣わしらしいんだが、本当に運が良かったってわけだ。なにしろ人気の太夫だからな。

 お茶屋での馬鹿騒ぎが終わると、古泉は「僕はこの辺りで。それではごゆっくり」なんて谷口みたいなことを言って大門を出て行った。やれやれ、ここからは単独潜入ってことだ。

 お茶屋の使いを先導に、提灯の灯りに引かれて奥へと進む。大店の寿々美屋に着くと相手は俺がお大尽だとばっかり思ってるもんだから、大層なもてなし振りだ。わざわざ主人が外まで出迎えてくれるってのは、やり過ぎだと思うがね。

 なんだかよくわからない挨拶ごとをされるたびに『あいよあいよ』と言うだけ言ってたわけだが、ようやく花魁の部屋に通された。

 しかしまぁ驚いたね。なんだこりゃ。どこもかしこも煌びやかな錦に飾られた上に、布団がでーん、だ。しかも俺が寝てるようなせんべい布団じゃない、分厚いやつが二枚重ねだ。

 しかも、その布団まで金糸銀糸の刺繍がされたきんきらりんってのは、こりゃもうなんていうか、ここはくつろぎ別世界ってやつだね。そうはいっても、貧乏暮らしになれた俺にとっちゃ、どうにも居辛くってくつろげやしないんだけどな。


 そんな風に呆然としていると、部屋に案内してくれた新造が「どうぞおしげりなまし」なんて言ってきた。なんだって? と聞き返したかったが、とりあえず例の言葉を返しておく。


 そうすると、また同じ言葉をかけられる。えーと、おしげりなましって言われてもな……。なんのことやらさっぱりだ。


 そんな風に首を傾げていると、後ろから鈴の鳴るような声が聞こえた。


「ぬしさんこちらへ、どうぞぎょしなまし」


 え? 今度はなんつった? ぎょしなまし? ど、どうすりゃいいんだ?

 きょろきょろと見回すと、いつの間に来たものやら、花魁――春陽太夫が禿に手を引かれてそこにいた。

 灯明の薄明かりじゃ細かいところまではわからないが、間違いない。確かにあの日花魁道中で見た春陽太夫だ。


「こちらでありんす。どうぞお楽にして寝なまし」


 なんて指さされたのは、布団の上。あいよあいよと古泉に言われた通りに応えたいんだが、喉が詰まったように音が出ない。

 ふらふらと歩いて、とりあえず布団の上に座ったもんだが、禿に手を引かれて枕元にやってきた太夫に俺の視線は釘付けだった。

 やがて太夫は枕元にゆらりと座り込んだ。所作の一つ一つがたまらなく艶っぽい。灯明に照らされた花魁座りの横顔だけでも、俺はもう手を合わせて拝みたくなった。

 なにしろ三年越しの念願が叶ったわけなんだからな。感動もひとしおってもんだ。


「まずは一服のみなまし」


 そんな風にいって花魁は火を付けた煙管を寄越したが、なにしろ煙草なんざ吸ったことがない。

 それでも太夫が口づけて火を灯した煙管を断るわけもなく、俺は夢中ですぱすぱと吸って豪快にむせた。


「あらあら、ぬしさん」


 なんて、くすりくすりと笑う春陽太夫。ああ、これだけでも俺は本当に幸せだ。心からそう思った。


「今日はよう来てくんなました。お裏はいつごろに?」


 俺が噎せ返るのを終えると、太夫はそんなことを聞いてきた。「おうら」ってのはなんのことかわからなかったので思わず、きょとんとした表情をしてしまう。

 察したものか、花魁は、


「次はいつ来てくんなます?」


 と言い換えた。

 古泉から吉原への道々聞いた話では、花魁の馴染みになるには三度は通わなきゃいけない。

 一度目は逢って一服するだけ。二度目に酌をしてもらいながら話ができて、三度目でようやく床入りだ。

 一度に十両かかるなら、都合で三十両。おまけに俺は春陽太夫の望む人外でも神人でも仙人でも狐でもない。ついでにお大尽でもなんでもない。


 だから逢うだけ、逢えるだけで、それでよかったんだ。


 だけど――。


 気がつくと俺は涙を流していたらしい。自分でも驚いたが、谷口から借りた着物に染みが落ちるのを見ては、気付かざるを得なかった。


「ぬしさん……?」


 横顔だけを見せていた花魁は、ついと近寄って俺の顔を覗き込む。

 涙でぼやけてよく見えないが、ああ本当に綺麗だなぁなどと俺は泣きながら考えていた。


 どういうわけだか花魁は部屋に控えていた新造と禿に部屋から出るよう合図を送ったらしい。派手な襖が音も立てずに閉まると、二人きりの部屋で俺はぽたぽたと涙を流し続けた。


「どうなすったんですか。なにかお辛いことでもありんしたか」


 そうじゃない。そうじゃないんだ花魁。


 なんとかそう言うと、俺は爪先を隠したまま涙を拭っていた袖をはだけて、太夫の目の前に自分の指を差し出した。


 花魁、こいつを見てくれ。俺は実はお大尽なんかじゃないんだ。慈音寺の次男坊でも書道の達人の墨州なんかでもない。しがない紺屋の染め物職人でキョンって呼ばれてる小番頭だ。


 花魁、お前はさっき次はいつ来るって聞いたよな。そりゃあすぐにだって来たい。毎日だってお前の顔を見ていたい。だが俺の給金じゃここに一回来るのに三年かかるんだ。


 三年前、俺はお前さんの花魁道中を見て一目惚れしちまってな。以来、必死に働いて十両貯めて……それでようやく、今日お前に逢えたんだ。


 そりゃあ、お前にまた逢うためなら、また三年、そのまた三年と働いたって構いやしない。でもな、その間にお前がどっかのお大尽に身受けされて囲われものにでもなっちまったら……二度と逢えやしない……。そう思ったらつい、な。なんとも情けないこった。


 俺は鼻をすすり上げて、掌で涙を拭った。


 すまねえな。男が泣くなんざ見栄えのいいもんじゃない。良い夢見させてもらったと思って、これからも精々働くよ。ありがとうな花魁。

 そう言って布団から立とうとすると、春陽太夫は俺の裾をついと掴んだ。


「……ぬしさん……いえ、兄さん。今の話は本当?」


 しずしずとした廓言葉を取り去ったその声には、どこかで聞き覚えがあった。

 本当も本当さ。嘘偽りは一切ない。大体この手に染み込んだ藍は、一日や二日でつくようなもんじゃねえんだ。


「そうよねぇ……まさかでも、本当に来てくれるなんてねぇ……」


 へ?


 思わず上げかけた腰をおろして間抜けな声を上げてしまう。

 太夫は灯明台を近づけて、自分の顔と俺の顔がよく照らされるように置いた。


「ああ……やっぱり兄さんだ。あたしよ。いつかのお社で雨宿りした」


 白粉をはたいて紅をさして、綺麗に結い上げた横兵庫の髪には飾りかんざし。幾重もの錦をまとった吉原一の花魁……だが、その面影には確かに見覚えがあった。


「お春さん……か?」


 花魁、いやお春さんはその目をきらきらと輝かせて、こくりと肯いた。


 でも……そんな。


「もう、間抜け面してんじゃないわよ兄さん。これでも信じない?」


 お春さんはそういうと、懐から藍の端布を取りだした。それはあの雨宿りの時に、俺が草履に挿げてやった端布だ。間違いない。でも、お春さんが春陽太夫で、春陽太夫がお春さんで……?


「あの日からずっと、ずっと待ってたんだからね……」


 涙声でそう言うと、お春さんは俺にしなだれかかってきた。混乱する頭でどうすることもできず、俺はただお春さん、いや春陽太夫の身体を受け止める。


「初見は一服、裏で一献、三度で床入れなんてのが吉原の仕来りだけどね……あたし、一度も床入れなんてさせてないのよ」


 でも、それじゃあ商売ってもんが……。


「だって、あたしは太夫ですもの。それでも物好きな客が来てくれるの。でもその度にね、人外や神人や仙人でもなきゃ、なにか不思議なものを持ってきてって追い返すのよ。それでも不思議なことにお客さんは絶えないのよねえ」


 どっかの昔話で聞いたことがあるような話だな。竹取のなんとかっていう。


「でも、そういうお客さんが持ってくるのは反物やら紅やらばっかり。そんなものあたしはいらないのにね」


 そりゃあ残念だ。俺だって人外でも神人でも仙人でもないし、不思議なものなんて持ち合わせちゃいない。


「馬鹿ねえ。兄さん、あんたと出会ってからあたしは道中の口上を変えたのよ。聞いたことない?」


 そういえば……。

 俺は古泉の言葉を思い出していた。人外神人仙人に……確か『高野のお狐』だっけか。だがあいにく俺は狐じゃないぜ。尻尾でも生えてりゃよかったんだが。


「鈍い人ねぇ! こうやのおきつねってのは、あんたのことよ! 紺屋のキョン!」


 あーなるほど、狐がコンコンってのが訛ってキョンキョンって、ええええ?!

 驚いて口をパクパクさせているだけの俺にお春さんは続けた。


「あたしね、あのお社の軒下であんたの話を聞いて思ったの。どんなお大尽に身受けされるより、こうやって一途に思って一生懸命に働いてくれる人だったら、喩えあたしが伏せっても、きっと大事にして添い遂げてくれるって……」


 相変わらず口を開けたり閉じたりしている俺である。


「だからね……もしあんたがあたしを……その……嫌でなかったら……あたしを……あんたのおかみさんにしてくれない?」


 とんでもないことを立て続けに言われて、俺は頭の中が真っ白になってしまった。真っ白ついでに自分の頬をつねってみる。あ、こりゃ痛い。どうやら夢じゃないみたいだ。


「んもう、どうなのよ?」


 ちょっと怒ったような声で答えを催促するお春。

 そ、そんなもん決まってるだろう! お前が俺のおかみさんに? こんな紺屋の職人でいいのか?!


「紺屋の職人、いいじゃない。藍の染みた実のある手、あたしは大好きよ。それに……あたしのお稲荷さん探しだって、付き合ってくれるんでしょう?」


 いつか見た向日葵のような笑顔に、少しだけ恥じらいを加えた顔で微笑むお春さん。

 ああ、嘘はつかねえよ。油揚げ持って江戸中のお稲荷さんを回ろう。それに祝言は天気雨の日だな――。

 そう言って俺はお春さんを抱きしめた。


「でもね、一つだけ約束して頂戴」


 なんだ? なんでも言ってくれ。


「あたしね、来年の三月十五日で年季が明けるの。そしたらあんたのところに直ぐに行くから。だからね、それまでの間……」


 今まで三年も辛抱したんだ。それぐらい待つなんざ造作もないことだが……それまでの間?


「二度と吉原に来ないこと! いいわね!?」


 そういうやお春は俺の腕をきゅいっとつねった。いてててててっ!


「約束破ったら……縛り首にしちゃうんだからね……!」


 そう言うや、俺はお春にのし掛かられるように押し倒された。幸い分厚い二枚敷きの布団の上だから何事もないわけだが、何事もないというかなんというかその、なんだ。えーと。

 花魁、いやお春さんよ。初見は一服するだけじゃないのかい?


「ばかねー! ここまで据え膳出されて何言ってるの? それに言ったでしょ? あたしに逢うにしたって二度と大門をくぐっちゃダメって」


 えーと、その……。

「あ、そうそう、今日のお代もね。あたしがいいようにしとくから、ちゃあんと貯めときなさいよ! 所帯もったら独立するんだからね!」


 あ、はい。えーと、頑張ります……?


「さ、それじゃ……えーい!」


 わっ! こら! 帯を引っ張るな! なんかこう立場が違うって!


「それそれー! くるくるくるー!」


 ぅわぁあぁあぁーーっ!!



 ◇ ◆ ◇



 五通りほどの意味で夢のような一夜が明けて、大門を出た俺は黄色い太陽を見上げながら紺屋に出向いた。


「おうキョン。随分早いじゃねーか」


 ああ、まーな。遊びに行って遅れてきちゃなんだしな。あ、それと着物ありがとうな。あとで返すわ。


「おう、いいってことよ。で、どうだった? まー振られただろ。仕方ねーよ。あの春陽太夫が相手じゃな。そもそも三度通わなきゃ床入れもできねーしな」


 あーうん。なんかそうらしいな。


「落ち込むなって。女なんかよりどりみどりさ。また吉原に行こうや。奢ってやっからさ!」


 あー……それがな。もう吉原には行けないんだ俺。


「おいおい、いくら振られたからってそこまで思い詰めることはねーだろ。太夫は無理でも、他にも女郎は大勢いるんだぜ?」


 えーと、そういうわけではなくてだな。約束したんだよ。もう吉原には行かないって。


「約束ぅ? 誰とだよ?」


 お春と。


「お春って誰だい? どっかの女郎か?」


 まぁ女郎っていうか太夫だけどな。


「は?」


 春陽太夫。本名はお春なんだよ。


「なんでお前がそんな約束すんだよ?」


 えーと……来年三月十五日にお春の年季が明けたら、夫婦になるから……?


「……は? おいおい、誰か古泉呼んでこい。キョンの野郎、すっかりおかしくなっちまってやがる」


 いやいや、俺も自分でもおかしくなったんじゃないかとは思ってるけどな。これが本当なんだよ。


「まーたまた。お前そりゃ花魁の手練手管ってやつだよ。そうやって二度目三度目と通わせるってわけだよ。お前騙されたんだって」


 まぁそれでもいいさ。全ては来年三月十五日になりゃわかるんだしな。よっし、働くぞっ!!


「ま、やる気があるのはいいんだけどなぁ……大丈夫かね」


 それからというもの俺はそれまでの三年以上に精を出して働いた。

 まぁ三月十五日が待ち遠しくって気が昂ぶっちまっていたんだろう、例によって心の中だけで呟いてりゃいいものを「三月十五日」なんて口に出して言っちまうことも多々あったらしい。

 おかげで、谷口はおろか小僧や手代まで俺のことを「三月十五日の人」なんて呼ぶ始末だ。せめて前のあだ名で呼んでくれって。


 そうこうする内に月日は流れて三月十五日。相も変わらず染め仕事をしていると、谷口がすっ飛んできた。


「さ、三月十五日!」


 日付なのか俺を呼んでるのかはっきりしろ。


「きょ、キョン! 表に、表に三月十五日が!」


 表でなくても畳を裏っ返しても今日は三月十五日だよ。


「そうじゃねえって! 表に来てんだよ! 春陽太夫が!!」


 俺は谷口の言葉を最後まで聞かずに飛び出していた。

 店の前に籠を控えさせて、質素な着物を着た女性。

 白粉も紅も薄くして、横兵庫を丸髷に結い直した――どえらい美人がそこにいた。


「お、お……」


 お春、そう言おうとするが声にならない。


「約束通り来たわよ、キョン。ちょっと早かったけど髪も結い直しちゃった」


「お春!!」


 俺はようやく言葉を取り戻すと、お春を思い切り抱きしめた。


「……もう困った人ねえ。ゆっくりする間もなく最初の仕事ができちゃったじゃない」


 なんのことかと尋ねようとすると、お春は、


「着物。これからは節約していくんだからね。あんたの手の藍がついちゃったから、これ染め直して頂戴」


 と、笑い声交じりで言った。

 ああ、そういえば俺は染め物やったままで飛び出して来ちまったんだった。

 そんな手で抱きしめりゃ……と慌てて身を離そうとすると、お春は俺の背に回した腕に力を入れて、俺を引き留める。

 そしてそのまま耳元で小さく囁く。


「これからよろしくね、旦那様。それと……あたしを『あい』に染め上げるのは、夜のお仕事なんだからね?」


 そう言って身体を離したお春の顔は季節外れの向日葵みたいに鮮やかで、耳まで朱に染まっていた。



 ◇ epilogue ◇



「というわけで、その後二人は紺屋の大旦那を仲人に祝言をあげて、暖簾をわけてもらって早染めの店を出したっさ~。そんでもって別嬪の若女将目当てと旦那の腕の良さもあって、そりゃあ繁盛したんだって! めでたしめでたしにょろ~」


 そういうと鶴屋さんは『べべんべんべんつとちてしゃんしゃんすとこててんてんめがっさにょろにょろ~』と口で囃子を奏でて、深々と一礼した。


「いや、お見事でした。鶴屋さんの見識の広さは存じておりましたが、まさか落語にまで精通していらっしゃるとは」


「ホントすごいですぅ~。江戸の大昔から純愛物語はあったんですねぇ~」


「……とてもユニーク」


 三者三様に賛辞を送る団員達。

 放課後のSOS団アジトで授業で習った古典の話をしていたところ、鶴屋さんが一席落語を披露してくれたのだ。

 本職のそれを聞いたことがあるわけじゃないが、さすが文芸部の機関誌でユーモア小説を執筆してくれただけあって、実に軽妙な語り口調だった。よく文章と喋りは違うっていうが、この人は別格だな。うんうん。

 まぁ登場人物の名前までは憶えていなかったらしく、手近な名前に置き換えられたのはご愛敬っていうか仕方のないことだろう。俺まで登場させられたのには、ちょっと照れたがね。

 だが、感心すること頻りな面々の中で、一人顔を真っ赤にさせているヤツがいた。


「ちょぉっとぉ……鶴屋さん……?」


「ん? どうしたにょろハルにゃんっ?」


「な、な、なんであたしがこんな唐変木のバカキョンに岡惚れしなくちゃいけないのよっ!!」


 ビシっと効果音をつけて俺を指差すハルヒ。おいおい落語の中で名前を代用されただけじゃねーか。別にお前のことじゃないんだから落ち着けよ。


「うっさい! バカキョン!」


 やれやれ。


「あーっはっはっは! ごめんごめんにょろ~。でもさっ、花魁姿のハルにゃん、似合うと思うっけどなっ!」


「そういう問題じゃないでしょーっ!」


「うーん、横兵庫はあたしくらい髪が長くないと結えないけど、かつらもあるしねっ! 着物ならウチにめーがっさあるしさっ! そうだ! 今度みんなで花魁の格好してみないっかいっ?」


「わぁ~素敵ですねぇ~!」


「それはそれは、さぞかし華やかな光景になるでしょうねぇ」


「三つ歯の高下駄履いて、写真とか撮るのさっ! どうにょろ? キョンくんも見たいよねっ?!」


 突然ふられて焦ったが、即答してみる。ええ、きっとよく似合うと思いますよ。


「でっしょっ! ほらハルにゃん! キョンくんもこう言ってるっさ! それじゃ決まりだねっ! あ、もうこんな時間! それじゃあたしはお先にっ! ばいばいにょろ~」


 あっという間に部室から姿を消してしまった鶴屋さん。


「あ、それじゃわたしも……お先に失礼しますね~」


 そして鶴屋さんの後を追う朝比奈さん。


「それじゃあ僕もそろそろバイトの時間ですので……」


 古泉、お前も帰るのか。


「ええ。お先に失礼します」


 気配を感じて振り返ると帰り支度を終えた長門が立っていた。なんだ、お前も帰るのか?


「……」


 ミリ単位で顎を引いて首肯する。じゃ、俺も帰るかな。お前はどうするんだ?

 そう問いかけようとして、見上げると立ち上がったままのハルヒが、未だに顔を赤くしたまま口をパクパクさせている。金魚の真似が得意なやつだな。

 まぁ鶴屋さんの方が一枚上手だったってことだ。今日のところは敗戦を認めて帰ろうぜ?


「……う、うっさい! わかってるわよ!」


 なんであたしがキョンなんかと鶴屋さんったらもうとかなんとかブツブツいいながら帰り支度をするハルヒを見ていると、長門が制服の肩のあたりを摘んだ。

 ん? どうした? 帰らないのか?


「……私にも、似合うと思う?」


 珍しく疑問形だ。そうだな――俺は日本髪に結い上げて振り袖を着た長門を思い浮かべてみる。うーむ、下手すると七五三になりそうだが、江戸時代の人は身長低かったっていうしな。案外似合うと思うぜ?

 ショートカット以外の髪型やら、制服以外の服装を見られるだけでも珍しいことだし、俺は嬉しいけどな。


「……そう」


 心なしか嬉しそうに応えると、長門も部室を出て行った。

 さて、俺も帰り支度するかね。


「ちょっとキョン!」


 ん? なんだよ?


「さ、さっきの落語だけどね! あれはあくまでも名前が出ただけなんだからね! 変な勘違いするんじゃないわよ!?」


 んなもん、言われんでもわかってるって。


「あ、あんたなんかと、しょ、しょ、所帯持つなんて真っ平ごめんなんだからっ!」


 へいへいっと。

 適当に返事をしながら帰り支度を続ける俺。

 さぁ、さっさと鍵閉めて帰ろうぜ? まだなにやらブツブツ言ってるハルヒを促して部室を出る。


 ハイキングコースを下ってる間もハルヒはまだブツブツ状態だった。よっぽど気に喰わなかったのかね。

 話しかけても怒鳴りつけられるだけなので黙ったまま並んで歩いていたが、分かれ道で「それじゃーな」と声をかけて歩き去ろうとした制服の襟首を突然掴まれた。

 あっぶねーな! なにすんだよ!


「あ、あたしはあんたなんかどうでもいいんだけどね! そっ……その……よっ、吉原なんかに行ったら絶対許さないんだからね!!」


 真っ赤な顔でそれだけ言い捨てるとハルヒは走り去ってしまった。

 やれやれ。吉原遊郭はとっくの昔に無くなってるし、ここから新幹線に乗ってわざわざ東京に行くこともなければ、そもそも風俗なんかに興味もないんだがね。まぁ金もないんだが。


「来年三月十五日、か……」


 そういえば、その頃には朝比奈さんも鶴屋さんも卒業するんだよな。そしてその翌年には俺たちも――その頃には我が団の春陽太夫さんはどうなっているんだろうね?

 俺は花魁姿のハルヒを脳裏に描いて、


「安物のかんざしでも買っていってやるかね」


 そう独りごちながら自転車置き場へと向かった。




<了>

----------

【蛇足の作者註】

紺屋:こうや、染め物屋のこと。ガンマンも空海もいない。

吉原:言わずと知れた色町です。普通に遊女を買って抱くこともできましたが、振られてなにもできないこともありました。粋ですな。

寿々美屋:すずみや。なんかありそうな名前をつけてみたってなだけです。じゅじゅびやではない。じゅじゅびやの奇妙な冒険。ないなー。

大門:吉原と外を区切る門のこと。金払わないで逃げるアホを捕まえる為に屈強なガードマンもいたりしたそうな。

太夫:たゆう、だゆう。ふとおじゃないお。遊女の頂点。外見はもとより全ての芸事に秀でていなければならない。育てるのに金がかかるので数人しかいなかったそうで。

花魁:太夫のこと。禿や新造が「おいらんとこの姉さん」と言ったのがはじまりとかなんとか。強敵と書いて「とも」と読む状態の読み仮名。

外八の字:八の字を描くように足を摺らせる独特の歩き方。空手や中国拳法の鍛錬に同じのがあります。内転筋群鍛えるんだろうな。そりゃしまりもよ(禁則事項です☆)。

お大尽:おだいじん。金持ちの人。大臣でも大魔神でもない。ライディーンでもキョーダインでもない。

身受け:馴染みの客に置屋から買い取られること。お大尽の後家やら囲われものやらになるのがオチ。

お茶屋:ぶっちゃければお座敷のある飲み屋。芸者衆もいる。お大尽は座敷に遊女を呼ぶこともできた。花魁を呼ぶときは置屋から道中を打った。それが花魁道中。

幇間:たいこ、座敷を盛り上げる男衆。人を滅法おだてる「たいこもち」はこれが語源。落語や浪曲、講談に舞なんかもやったらしいです。

禿:歳が二桁に満たない(7・8歳)少女の遊女見習い。遊女の身の回りの世話をしながら、遊女の作法を学ぶ。ハゲじゃなくてカムロ。ガンダムは動かさない。

新造:しんぞう。禿より年上でデビュー前の遊女見習い。アンドロ軍団とは闘わない。フレンダーも飼っていない。つまりキャシャーンとは関係ない。

横兵庫:よこひょうご。遊女や花魁の髪の結い方。浮世絵なんかの遊女画は大半これ。左右から引田天功大脱出状態で簪をさされているのが美学。横浜倉庫街とは関係ない。

お裏:別の客に同じ布団は出さないので、二度目は一度目の布団の裏を返して使うことから二度目を「裏」と呼ぶ。三度目は三枚重ねだそうで。もはやトランポリン。Yes,アクロバティック。

花魁座り:横顔だけを見せるように座る作法。鼻を高く見せるため、煙管を咥える所作を色っぽく見せるためだったとか。

床入り:とこいり。えちするお!のこと。ゆかに入るのとはちょっと違う。ゆかかわいいよゆかだと、ちょっと近い。

丸髷:まるまげ。シンプルな女性の髪の結い方。若い既婚女性がすることが多かった。隕石をブルース・ウィリスがワンパン入れて止めるハリウッド映画とは関係ない。

三つ歯の下駄:文字通り歯が三枚ついた下駄。爪先側はなめらかな曲線になっている。滅茶苦茶重い。よって外八の字・内八の字でしか歩けなかったという説も。

和和和:WAWAWA。


【蛇足の作者の言い訳】

・花魁道中で禿が口上を唱うかどうか知りません。すみません。ごめんなさい。

・名作古典落語の『紺屋高尾』が元ネタですが、縁日雨宿りの段は存在しません。創作です。

・っていうか花魁って大門の外じゃ普段どんな生活してたんだろ。昼間から座敷あげて呼ぶ馬鹿もいたから暇なんてなかったのかな。

・初見から「ぬしさん」て呼ぶことはなかったそうです。落語でも省略されてますけどね。初見は話も出来ず、お裏から話が出来て「主さん」と呼んでくれる、という感じだったとか。

・慈音墨州。名前的に出したかっただけです。案の定出しただけで終わった。じおんすみす。ちなみに慈音寺は実在します。今ググって知ったっていう。

・身元が確かな人でないと、太夫と遊ばせるわけにはいかないので、まずは馴染みのお茶屋(この時点でハードル高)でお座敷上げてどんちゃん。その後、お茶屋から「ああ、この人なら大丈夫だ」ということで置屋に使いが行き、さらにそこで太夫の都合がよければ、晴れて太夫と遊べるというシステムだったそうです。実際は十両じゃ足りなかったかもしれんですね。落語の口上ではこの説明がちゃんと入るんですが、割愛しました。すみません。ごめんなさい。

・ハルヒがデレ過ぎます。すみません。ごめんなさい。

・キョンはデレを通り越してドゥェルゥェになってます。すみません。ごめんなさい。溶けてるぞ、キョン。

・蛇足の作者註も間違ってる可能性大です。信じないで。あたしを信じないでッ! すみません。ごめんなさい。

・名作古典落語を汚してしまい、すみません。ごめんなさい。

・もし古典落語に興味を持ってもらえたら、すごく嬉しいです。是非聞いてみて下さい。

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