におい
「…済まない…」
厳かな、声のようなものが脳に染み入る。ハッとした少女は、気付くと例の巨大な爬虫類のウロコの感触と、ゆっくりとした鼓動とに包まれていた。強く巻き付かれているが、その感触からは殺気は感じられない。
どちらかといえば、己の産み落とした卵を、優しく抱き締めているヘビの巻き付きのような、そんな感覚だ。だがそれでも少女は以前の感覚より、遥かに強く巻き付かれていた。
「…済まない…」
彼は何度も同じ言葉を繰り返す。少女にはその意図が分からなかったが、すっかりさっきまでの恐怖感や嫌悪感は消えていた。ゆっくりと膨らんだり縮んだりする、爬虫類の冷たい肌の感触と、厳かな声が全てを掻き消していた。
(抱き締めて…くれている…?)
少女は頬を染めた。いまだ意識のはっきりしない少女の感情は不安定だ。今まで経験した事がなかったそのとろけそうな感覚は、そんな曖昧な意識の少女にとっては麻薬のように、心を強く惹き付ける強い快楽であった。
「…済まない…」
彼はまだその言葉を繰り返していた。少女は首を傾げて言った。
「どうして…謝るんですか…?」
少女は微笑んでまた言った。
「あなたは…何も…悪くないんでしょう…?」
少女自身もなぜそう言ったのか、自分が何を言っているのか、あまり理解していない様子で、少女はそう言の葉を紡いでいた。彼は少し沈黙していたが、ゆっくりと呼吸するとまた、
「済まない」
と言った。
「ふふ…」
少女はなぜそうしたいのかも理解していない様子で、巨大な彼の冷たい爬虫類の肌を抱き締めた。少女は優しく指先を這わせて、彼の固い肌をなで上げる。少女が頬を寄せる。冷たい感触が上下している。
すると、ふっとまた、少女に嗅覚が帰ってきた。その部屋には強烈な腐臭や、血肉のような吐き気を催す臭いがこもっていたが、彼の周りはまるでそういった匂いがなかった。少女は記憶を辿っていた。
父からは土や川魚や獣の匂いがした。母からは土や小麦の匂いがした。弟からは土の匂いがした。ネコは自身でも舐められないのか、首の後ろだけいつも獣臭かった。村人の男たちはいつも汗や土の匂いがした。
村人の女たちは時々、少女には分からないが、どこか子供が近付いてはいけないかのような、匂いがする事があった。だが今巻き付いている、抱きしめてくれている彼からは、そういった哺乳類ならば何かしらある、匂いの全てが一切なかった。
「…済まない…」
彼はまだその言葉を繰り返していた。少女は微笑むと、彼に頬ずりをした。なぜそうするのか、少女には理解できてすらいない。だが少女はそうしていると、麻薬のような焦がれるような感情に、何もかも忘れていられるのだった。
「陛下、ただいま参上いたしました」
豪華な石造りの巨大な建物は磨き上げられ、赤い絨毯が敷かれていた。そこの一番奥の飾り付けられた玉座の前に、数名が片膝を付いてひれ伏している。
玉座に座っている国王は、落ち着かない様子で指先をすりあわせていた。
「あ、ああ…ご苦労…」
隣に立っている王子は逆に、不敵に笑んでいた。
その玉座前の数段下に片膝を付いているのは、ワイバーンを駆っていた竜騎士と、老魔法使いと、まだ本調子ではないといった様子の勇者であった。国王は勇者をちらりと見ると、また目を伏せて指をすりあわせて言った。
「勇者よ…よくぞ生きて帰ってきた…」
その声にはどこか震えがあった。勇者は目を伏せて言った。
「任務を果たせず、申し訳ありません」
「良いのだ…」
国王の声はいまだに震えていた。隣の王子が笑って言った。
「では本題と行こうか」
国王は話を遮られた事にも特に気を向けず、ただまた黙って指先をすりあわせ続けていた。
「貴様らを召集したのが何故かは分かっているな?」
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