瘴気
その無意識の動作をしている手首を力強くつかんで、指を開かせてナイフを取り落とさせたのは勇者だった。ナイフが落ちて川辺の石にぶつかる硬質の音が小さく響く。ようやく何が起きたのか理解した僧侶が駆け寄る。
勇者は手首を離すと、ナイフを拾って鞘に戻し懐にしまうと、少女の肩を優しく叩いて穏やかに言った。
「どうして死のうとしたんだい…?」
少女は相変わらず虚ろな目を何もない中空に向けていた。
「おそらく…その子には…自分がなぜそうしたのか、その理由も分からないと思う…」
僧侶がそう言って少女の頭をなでた。
ふん、と鼻を鳴らして忌々しそうに魔法使いが言う。
「イケニエに死なれたら困るから、手錠でもかけておきなさい」
僧侶がまたムッとした顔で魔法使いを睨む。
しかし魔法使いは相変わらず火を見つめつつ、肉や鍋を回したりして調理を続けていた。戦士が手錠を持ってきて少女の手にカチャリとかけると、戦士も少女の肩を優しくぽんぽんと叩いて言った。
「あまり思い詰めるな。気が向いたら俺たちになんでも言うんだぞ?」
少女の深淵のように深い瞳は相変わらず何も映してはいなかった。
岩塩とスパイスとをすりつぶして、魔法使いが焼きあがった肉にかけて、一人一人に渡していく。勇者がかじりついて大きい動作で肉を食いちぎって咀嚼して言う。
「うん、美味い!ジューシーで風味も格別だ!それにまるで臭みもない!」
戦士がはっはと笑って言う。
「臭みがないのはすぐシメているからだろう。あとスパイスの類があるのはデカい」
魔法使いがスパイスの入った袋を揺らしながら、肉を咀嚼しつつ嘆息して言う。
「本当はこういうの、売れば家が買えるほど貴重なのよ~?」
僧侶が頷きつつ森の果実を食べて笑んで言う。
「薬としても珍重されるそうですね、そういうのって」
少女は無言で僧侶が差し出す食物を食べて咀嚼しつつ、じっと火を見つめていた。すっかり日も暮れて辺りは真っ暗だ。狼の遠吠えがどこからか聞こえる。僧侶はその恐ろしい声にびくりと身体を硬直させていたが、少女はまるで微動だにしなかった。
戦士が荷馬車に吊るしておいた干し肉をナイフで薄く切って焼いたものを咀嚼しつつ、固くなった元々水分量の少なく砂糖の分量の多いパンを切って、串に刺して火で炙りつつ言う。
「まだまだ食料の備蓄はある。一か月は保つぞ」
勇者はまた少女の顔色をうかがっていたが、相変わらず少女の目は火を見つめていそうで、何も映していなさそうにも見えた。
勇者一行は翌朝、霧に覆われた不気味な森の中にて、突如として現れたかのような巨大な建造物に息を呑んだ。人や馬車や軍用の車両などが通るとしても腑に落ちないくらいに、あまりにも大きな扉。
窓はあるもののまるで掃除はされておらず、蜘蛛の巣が至る所にあって放置されており、もはや虫の主さえなく、朽ち果てて腐り落ちたかのような蜘蛛の巣までもが放置されている。そして不気味なほどの静かさ。
不気味な森には不気味なりに、夜の空を統べるフクロウの鳴き声だの、虫の声音だの小鳥のさえずりだの、様々な生命の音が満ちていた。だがここには音がまるでない。まるで鳥や獣の類が避けているかのような空気感。
よどんで停滞しているかのような瘴気に満ちた空間には、代わりにまともな人間なら正気で居られないかのような臭気が満ちていた。薬品類のようなキツい臭いだ。勇者が指示する前にもう既に魔法使いは扉の錠を開ける魔法を使っていた。
これから起こるのであろう激闘のために、魔法使いに魔力を無駄使いさせたくないのであろうか、戦士と勇者は力強く扉を押して、かろうじて荷馬車と人が通れるくらいに扉を開けると、戦士がまず中に入って安全を確認し、手招きをする。
各人が足を踏み入れる中、勇者はふと外から改めてその建造物を見て思う。
(利便性より造る事への不自由の方が多そうな造形だ…なぜこんな巨大なんだ…?)
それが住まうとされる根城の中には、まるで食べ終えた貝殻や魚の小骨をそこに放置したかのように、錆び付いた鎧や盾や刀剣の類と共に、人間の骨がそこかしこに転がっており、例の臭気や霧や瘴気といったものも建物内は特に濃い。
まともな人間なら住み続けている内に気が触れてしまうだろう、勇者はそう考えつつ先を急ぐ。勇者は言う。
「みんな、瘴気が濃い…はぐれるなよ」
しかし勇者は気付いていなかった。自分が話しかけているのが、何もいない虚空だという事に。
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