この世でもっとも恐ろしいもの

不二式

喪失

 村に帰るための森の道なき道を、少女は走っていた。木々が鬱蒼と生い茂っているせいか、日差しさえあまり差し込まない森だ。木の根や落ち葉や、腐葉土といったものが、ぐっしょりと濡れている。そういったものが、足をまるで掴んでいるかのように、少女が走ることを許してくれない。


 走って生まれた熱や二酸化炭素を排出しようと、少女が懸命に肩を上下させながら、吐息を振り絞っている。しかしそのか細い音さえも、薄気味悪い鳴き声が掻き消してしまう。鳥なのか猿なのか、どんな獣なのかもわからない、薄気味悪い鳴き声だ。それでいて地面から蒸発した水蒸気が、鬱蒼と茂る木々の手によって、握り締められているかのようだ。


 辺りには薄い霧が立ち込めており、不気味さが一層際立っている。猪や鹿や熊や大型の肉食獣などの大きな動物が出た、という話も少女は聞いた事があった。春に近いとはいえ、日が差し込まぬ鬱蒼とした森の空気は、まだまだ冷気を抱え込んでいる。それもまた彼女の肌を刺した。



 やっとの事で不気味な森を抜け、日の差し込む草原を少女は走っていた。すると村の様子が何やらおかしいことに気が付いた。何やらざわついている。安っぽい材質で出来た家ばかりが、隙間だらけの敷地に雑多に立ち並ぶ、小さな農村。


 そんな場所に似つかわしくない程、立派な馬の鳴き声がする。ブルブルブルッという独特の鳴き声。馬には長距離移動を考えられた、しっかりした鞍なども付けてある。明らかに軍用に調教された馬だ。


 槍を持った兵士が何人か、規律正しい動きで歩いて何かをしている。村人達は皆オロオロとした様子で落ち着かない。


 特に立派な鎧を持っており腰にサーベルを装備した兵士が、少女の我が家の前に居た。村人達も群がっている。少女は咄嗟に手に持っていた物を後ろ手に隠す。目ざとい別の兵士が近付きその手を取って、何を隠したか見てほくそ笑む。


 その兵士は少女からそれの一部を取り上げ、ニヤつくと掲げながら大声で言った。

「隊長、コイツやっぱりそうです。数種類の薬草やキノコをカゴに持ってました」

 隊長と呼ばれた兵士が少女たちを見て言った。

「やはりそうか。例の魔法使いからレシピを買って薬を作っていたのだな」


 村人達は怒りの表情で少女を見た。少女はびくっとして二、三歩後ろに下がる。だが隊長は少女の前に出て、村人達の鋭い視線から庇うかのように、腕で遮った。隊長は嘲笑って言う。

「まあ確かに。お前達村人の怒りも分かる」


 村人達は不服そうな顔をして、何やら小声でボソボソ話している。

「この娘の親は禁忌とされていた、あの黒い男…例の魔法使いとの接触をしたわけだからな」

 村人達はうんうん頷いて、そうだそうだと声を上げてほくそ笑む。隊長の表情がスッと厳しい表情に変わる。


「だが…それでこれ程の私刑を加えるなど…許されると思っているのか…貴様らは」

 村人達の顔から、スッと血の気が引いて静かになる。


 隊長は心底忌々しいといった様子でためらいつつ、少女の我が家に視線を向ける。少女は視線の先を追うと、我が家の前の地面に目を留めた。そこには赤褐色の、おびただしい数の足跡が付いていた。


 少女は急に恐ろしい不安と焦燥感に襲われ、兵士の制止を振り切り、扉を壊されている我が家の中に入った。


 隊長は表情を変えず、少女に向き直る事もなく短く言った。

「見るな」

 その注意する声は一足遅かった。


 力ずくで破壊された扉の中の惨状を、少女は目の当たりにしたのであろう。少女はもはや断末魔にも近いほどの悲鳴を上げた。そして、その場でグラグラと揺れながら数歩後ずさった。さらに、手に持っていたカゴをも取り落として、地面に崩れ落ちた。


 ダラダラと涙と冷や汗とを垂れ流しながら、少女は這いずるように必死にその場から離れる。すると、見開いたまま痙攣している目を何もない中空に固定させた。少女は震えながら口元を手で覆って、吐き気に抵抗するように嗚咽を漏らす。


 顔は完全に蒼白といった様子だ。スカートの下部が勢いのある水音と共に、ぐっしょりと濡れた。下着のラインが下肢にべっとりと貼り付いて行く。すると赤褐色の足跡に覆われた地面に、たちまち黄色い水たまりができていく。


 隊長はその様子に眉をひそめ、顔をゆっくりと逸らして苦々しそうに言った。

「我々が来た頃は既に遅かった…」

 村人達に視線を向ける隊長。その表情は穏やかだった。だが、当の村人達はつばを呑み込んで後ろに下がった。隊長はその様子に深く溜め息をつくと、額に指を当てる。


「…あの黒い男との接触を行った、お前の母や父や弟に、村人どもは勝手に私刑を加えたのだ」

 額に指を当てたまま、隊長は少女をちらりと見た。

「…本来は裁判を行うべきところを、な」


 少女の視線は相変わらず何もない中空に浮いており、自身の肩を抱くように震えていた。蒼白となった少女の下肢の辺りからは、湯気が立ち上っていた。隊長は無言でくいっくいっと指で合図を送る。


「奴らは悪とみなしたお前の母や弟を犯し尽くし、財産を奪い尽くし」

 隊長の穏やかな視線がまた村人達に向く。村人達は気まずそうに目を逸らす。

「何もかも奪った上で皆殺しにした」


 合図を受けて女兵士が少女を手前から抱き起こし、水たまりから移動させると濡れた下肢を拭い、肩に毛布をかける。少しは震えが収まった様子の少女は、震えの止まらない中必死な様子で、か細い声を絞り出すように言った。


「そ…そんな…お父さんは…お父さんは…熱病にかかった弟を…治したい一心で…」

 村人達がまたざわざわと小声で話し出す。いかにも忌々しそうな表情で。

「何もかも売り払って…それでも薬代に足りなくて…仕方なくレシピを買って…」


 少女はまるで何も見えていないかのような様子で、相変わらず中空を見つめている。少女が先ほど取り落としたカゴから、薬草がぱさりと落ちた。隊長は村長に向き直って言った。

「こんな事は許される事ではない…それは理解しているな?」


 年老いた村長は白いヒゲをせわしなく触りながら、オドオドとした様子で言った。

「そ…そんな…わしらはただ…罪人に処罰を…」

「ほう?」


 隊長は嘲笑うように言うと、サーベルを抜いた。村長の一人娘である太っちょの首筋に、冷たい刀身を当て滑らせるようにする。太っちょな娘の甲高い悲鳴が辺りに響き、村長がひいいっと怯えた。


「な!何をするんですか?!」

「何って…罪人に処罰を与えようとしているだけ…だが?」

 隊長は嘲笑うようにそう返し、サディスティックに顎をしゃくり上げた。震える娘の首筋を刀身でなぞりあげて行く。

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