第597話 おっさんたちの懊悩④

 同刻。

 アッシュは一人、街中を歩いていた。

 服装は、クライン工房の白いつなぎ。

 今日は、店は休みなのだが、このつなぎは半ば私服になっていた。


「おう。師匠」


 街を歩くと声を掛けられる。

 アッシュは「おう」と手を振った。

 すれ違ったのは青果店前の店主だった。

 師弟でも何でもないのだが、何故か『師匠』と呼んでくる。親子連れの子供も「師匠! 師匠!」と手を振って来た。アッシュも子供に手を振り返す。アティス王国の王都ラズンでは、『師匠』の呼び名が完全に定着してしまったようだ。

 アッシュとしては苦笑するしかない。


(この国に来てもう一年半ぐらいか)


 噂通りの平和の国。活気もあり、治安もよい。

 市街区の街並みはまさに平和そのものだ。

 しかし、アッシュとしては波乱万丈であり、大きく変化した一年半だった。

 特に愛する者たちに関してだ。


 まずはサーシャ。サーシャ=フラム。

 アッシュの愛弟子。初めて鎧機兵の扱い方を教えることになった健気で努力家の少女。アッシュが『師匠』と呼ばれるようになったのは彼女が切っ掛けだった。

 彼女とは様々な事件を経て信頼を深めていった。最後には彼女の心の強さをまざまざと見せつけられる形で彼女を愛することになった。

 ただ、最近の悩みとして、自分は元々弟子に甘い傾向があったのだが、サーシャが愛しすぎて、さらに指導が甘々になっていることだった。


 次にシャル。シャルロット=スコラ。

 アッシュより年上の、かつて異国の地で出会ったメイドの女性。

 彼女とはこの国で再会した。死んだと思っていたアッシュの弟と共にだ。

 あれは嬉しくもあり、驚いたものだった。

 再会後、弟たちが帰国しても彼女はこの国に残った。

 その胸の内に想いを秘めて。

 その切っ掛けはすべてアッシュの軽率な行動からだ。

 あんな想いを、長年、彼女に抱えさせてしまったことは本当に申し訳なかった。

 もう二度と彼女を一人にするつもりはない。


 そしてレナ。

 かつてクライン村が健在だった頃に出会った傭兵の少女。

 彼女ともこの国で再会した。八年も経っているのに彼女の見た目が全く変わっていないことには心底驚いたが、天真爛漫な性格も変わっていなかった。

 まあ、その実力は当時よりも跳ね上がっていたが。

 ただ、彼女はその生い立ちゆえに、自身を愛するということを知らなかった。

 だからこそ。

 どれほど彼女が深く愛されているのか。

 それを強くはっきりと伝えたつもりだが、忘れないでいてくれているだろうか。

 あの時は、必死にコクコクと頷いていたようだが。


 レナは今、『彼女』と共に遠い異国の地にいるはずだった。

 ――そう。『彼女』。サクヤと共に。


(……サクヤ)


 アッシュは双眸を細めた。


 サクヤ=コノハナ。

 アッシュの幼馴染であり、最も特別な女性。

 アッシュ=クラインという人間の始まりである少女だ。

 もう二度と自分の手は彼女には届かない。

 彼女と巡り合うことはもうない。

 ずっと、そう思っていた。

 けれど、奇跡が起きた。

 サクヤの説明には、流石にまだ半信半疑だ。

 サクヤを救ったという伝承にある魔竜の話など簡単には信じられない。

 だが、それでもいい。

 そんなものは些細なことだった。

 彼女の温もりを再び感じられるのなら。

 相手が女神だろうが、魔竜だろうが、そこには感謝しかなかった。


「…………」


 アッシュは無言のまま拳を固めた。

 サクヤは今、自身の因縁にケジメをつけるために異国にいる。

 レナと、彼女の仲間たちはその護衛だった。

 本当はアッシュが付き添いたかったのだが、サクヤの希望では仕方がない。

 自分のケジメにアッシュを巻き込みたくないらしい。

 サクヤはあれで頑固者だった。

 今は二人が無事戻ってくると信じるしかない。

 そうして、


「………オト」


 アッシュは彼女の名前を呟いた。


 オト。オトハ=タチバナ。

 アッシュの戦闘の師であり、傭兵時代の相棒である。

 そしてサクヤが初めて愛した女性なら、彼女は二人目の女性だった。

 サクヤを失い、もう二度と誰も愛することはないと思っていた。

 けれど、それでも愛したのがオトハだった。

 しかし、実のところ、自分でも分かっていたのかも知れない。

 オトハは誰よりもアッシュを理解し、いつも傍にいてくれた女性だった。

 最も苦しかった時、傍で笑っていてくれた。

 それがどれほど救いになったことか。

 だから、もし彼女が誰かのモノになるというのなら。

 自分は動かずにはいられないと。

 彼女を奪わずにはいられないと。

 心のどこかで、きっと理解していた。

 まさに彼女を初めて愛した夜がそれを如実に語っていた。

 まあ、オトハに対しては、長年に渡って無自覚に溜め込んでいた想いがあったことも否めないが、それを差し引いたとしても――。


(……あれはなぁ)


 深々と嘆息する。

 我ながら、あれは奪い尽くすとしか表現できない。


(……いや、それを言うのなら)


 アッシュはかぶりを振った。

 オトハだけではない。

 サーシャも、シャルロットも、レナも。

 そもそもサクヤもだ。

 流石に自覚せずにはいられなかった。

 自分の本性は強欲であると。

 愛する者は絶対に手離したくないらしい。


(まあ、それも今さらか)


 自分の強欲さを理解した上で、彼女たちを抱いたのだ。

 誰が相手であろうが、彼女たちを手離しはしない。

 例え、それが一度も勝てると思ったことのない相手でもだ。


(ここら辺のはずなんだが)


 通りすがった何人かに尋ねた。

 探し人は特徴的なので、すぐに情報が得られた。

 探している人物はこの先の宿にいるそうだ。

 アッシュは進み、件の宿に到着した。

 二階以上が宿泊施設。一階が食堂になっている宿だ。

 標準よりもかなり上等な宿である。あまり宿の質などには拘らない探し人にしては珍しいと思ったが、身重の妻がいるのなら当然の選択かもしれない。

 アッシュが宿に入ると、その人物はすぐに見つかった。

 やはり色々な意味で目立つ人物だ。雰囲気からして周囲と違う。

 探し人は食事中のようだった。

 二十代半ばの獣人族の女性とテーブルを囲んで談話している。


(……なるほどな)


 二人はとても親しげに見える。

 あの獣人族の女性が、オトハの話していた人物なのだろう。

 アッシュはそのテーブルに向かった。

 そして、


「……お久しぶりです」


 珍しく苦手な敬語を使った。

 その人物は少し驚いた顔で振り向いた。

 同席の女性はキョトンとしている。


「おう。久しいな。アッシュ」


 一方、その人物は片手を上げて笑った。

 アッシュも苦笑を浮かべてこう返す。


「はい。元気そうで何よりです。タチバナ団長」


 ――と。





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