第八章 蘇る災厄

第524話 蘇る災厄①

 その日の夜。

 時刻は十時過ぎほどか。

 アッシュは一人、エルナス湖の水辺にいた。

 夜のエルナス湖を眺めつつ、歩を進める。

 そして、


「……確か、この辺りだったよな」


 とある場所付近で足を止めて、アッシュは眉をひそめた。

 そこには、以前、巨大な骸があったはずだった。

 頭部だけは騎士団によって回収された、大蛇の骸。


 ――災厄と呼ばれた蛇。

 サーシャたちの手によって討たれた《業蛇ゴウダ》の骸だ。

 あれから、ほぼ一年は経っている。

 残された《業蛇》の骸は、魔獣や獣たちによって一掃されているだろうと思っていた。

 だが、それでも骨だけは残る。

 そう考えていたのだが、


「……骨さえも喰われちまったのか?」


 アッシュは、ポツリと呟いた。

 かつて《業蛇》が息絶えた場所。

 そこには今、何もなかった。

 骸はおろか、骨の残骸さえもない。

 もちろん、一年程度で骨が風化するはずもない。

 考えられるとしたら、他の魔獣が、骸をどこかに移動させて喰ったのか、骨まで喰らうような魔獣がいたかだが……。


「転生で体が縮小していたといっても《業蛇》は十セージル級の魔獣だ。それを運んでまで喰うような魔獣もいねえか。骨まで喰らう魔獣はいるっちゃあいるが……」


 十セージル級の巨体を支える骨だ。それは相当に強固だったに違いない。

 それを砕いて喰うような魔獣がいるのだろうか?

 アッシュはしばし悩むが、


「まあ、自然現象には、とんでもねえこともあるしな」


 流石に、答えは出ない。

 とりあえず、十セージル級の魔獣の骨を砕く強力な咬筋力を持つ魔獣がいるかもしれない程度に警戒しておこう。

 アッシュは、再び歩き出した。

 今日は月も輝いているので、見渡しはいい。

 アッシュは、別に夜の散策だけをしている訳ではない。

 ルカとユーリィの護衛は、サンクたちに任せ、この周辺の状況を確認しているのだ。

 夜行性の魔獣などがいるかもしれないと警戒はしていたが、夜のエルナス湖は、とても静かだった。時折、獣の姿もあったが、アッシュを過剰に警戒することもなく、喉だけ潤すとすぐに立ち去っていった。もしかすると、このエルナス湖は貴重な水源として、生存競争中でも緩衝地帯になっているのかも知れない。


「この場所を選んだのは正解かもな」


 ちらりと、ルカが用意した『ハウス』の方を見やる。

 ここは元から大樹の樹海なので、あのサイズの岩でも違和感はない。

 ルカたちはまだ起きているはずだが、音も全く聞こえない。防音も完全だった。偽装としては完璧である。


「あの子もすげえな」


 ルカの師であり、弟の幼馴染であるメルティアも天才だったが、ルカも充分に天才だ。

 あの『家』も、市場にて流通できるような出来だった。

 ああいった発明は、アッシュにはとても出来ない。


「つくづく、俺って凡人だよな」


 苦笑を浮かべる。

 自分の職人としての才能は、やはり並み程度だなと思う。


「まあ、落ち込んでも仕方がねえか」


 アッシュは、歩き続ける。

 大樹の根が浸かる区域に、足を踏み入れた。

 アッシュは、軽やかな足取りで大樹の根の上を移動する。ここら辺りは、アッシュは知る由もないが、かつて、ユーリィたちが水浴びをした場所だった。


「確かに、綺麗な場所だな」


 アッシュは目を細める。

 幻想的な光景。本当に穏やかな場所だ。

 少し浮き上がった大樹の根の上。足を止めてエルナス湖を見やる。

 と、その時だった。


「……綺麗な場所ですね」


 不意に、下の方から声を掛けられる。

 地面の方だ。

 アッシュが目をやると、そこいたのは、シャルロットだった。


「……シャル」


 アッシュが、彼女の名を呼ぶと、シャルロットは微笑んだ。

 今のシャルロットの姿は、ここに来るまで着ていた操手衣ハンドラースーツ姿ではない。

 いつものメイド服姿だった。


「危ねえぞ。一人で歩くなんて」


「それを言うなら、クライン君もです」


 そう返すシャルロットに苦笑しつつ、アッシュは彼女に手を差し伸べた。

 その手を掴み、シャルロットも大樹の根の上にのぼった。

 二人は横に並んで、湖を見やる。


「とても綺麗です。ですが」


 シャルロットは、蒼い瞳を細めた。


「あの時を思い出します。あの水晶の都を」


「……ライクの故郷か」


 アッシュも、双眸を細めた。

 かつて、アッシュとシャルロットが関わった事件。

 水晶と化した都。そこで過ごした夜。

 確かに、エルナス湖の静寂さは、あの夜に似ている。


「……あの夜」


 シャルロットは呟く。


「私にとっては、初めて経験する異様な夜でした。平静を装っていましたが、本当のところは怯えてもいました」


「…………」


 アッシュは無言だ。


「あれから随分と経ちます。けれど、今でも思います。あの夜、私は強がるべきではなかったのではないかと。私は……」


 シャルロットは、アッシュを見つめた。


「私は、自分の恐怖を素直に吐露すべきだったと。もしあの夜、あるじさまに気持ちを伝えていたら、私は……」


「……シャル」


 アッシュは彼女の名を呼んだ。

 あの夜から、呼ぶようになった愛称を。


「エリーズ国で、お嬢さまの成長をお助けできたことは私の誇りです。ですが、女としての私は、あの夜をいつも後悔していました」


 シャルロットは言う。


「私は、もっと素直にあなたに甘えるべきだった。そうすれば、きっと……」


「……そこまででいい。シャル」


 アッシュは、シャルロットの腰を抱き寄せた。

 次いで、彼女の頬に触れる。


「悪りい。随分と待たしちまったみたいだな」


「……はい」


 頬を触れるアッシュの手に、自分の手を重ねてシャルロットは頷く。


「ずっと、逢いたかった。ずっと、寂しかったんです」


「……すまねえ」


「その上、自分の女宣言はしてくれたのに、大会の勝者だったサーシャさまはともかく、レナさままで、私より先だったし」


「……う。そこは、その、もっとすまねえと思ってる」


 少し頬を膨らませるシャルロットに、アッシュは顔を強張らせた。


「本当に、寂しかったんですよ。だから……」


「ああ。分かっているよ。シャル」


 そう告げて、アッシュはシャルロットの唇を塞いだ。

 静寂の中の口付け。

 それは、十数秒に渡って続いた。

 そうして、ようやく唇は離された。

 唇から銀色の糸を引き、陶然とした表情のシャルロット。

 そんな彼女に、アッシュは改めて告げる。


「シャル。お前は俺の女だ」


「……はい」


 シャルロットは頷く。


「苦労はさせると思う。俺はどうしようもない男だから、嫁さんも多くて、納得できねえところもあると思う。けど……」


 アッシュは、シャルロットを抱き寄せた。


「何十年後か先、お前が天寿を全うする時。自分の人生は幸せだった。お前がそう思えるように生きることを誓うよ」


「……あるじさま」


 シャルロットは、ぎゅうっとアッシュの背中を掴んだ。


「……今夜」


 アッシュは告げた。


「お前のすべてを愛する」


 その宣言に、シャルロットは一瞬だけ震えるが、


「……はい。あるじさま……」


 輝く月夜の下。

 彼女は、頬を微かに染めて微笑んだ。

 二人は再び、口付けを交わした。


 そうして、新たな愛が紡がれる。

 太陽を囲う星の一つが強く輝き、静寂の夜は更けていった――。

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