第493話 二人の未来⑨
――はァ、はァ、はァ……。
ゴクリ、と喉が鳴る。
映る世界が、ずっとぼやけていた。
シェーラ=フォクスは、選手控室の長椅子の上で横になっていた。
操手衣の胸元は、再び大きく開いている。しかし、一向に熱が冷める様子はない。
白い肌には、異様なほどに汗が浮かび上がっていた。
「……あァ……」
喉が酷く乾く。
試合終了直後は、周りに――特にサーシャに心配をかけさせないため、どうにか平然を装っていたが、選手控室までが限界だった。
力尽きるように、長椅子の上に倒れ込んだのである。
もう、自力で立ち上がることも困難だった。
(……み、水……)
歪み、ぼやける視界で長椅子の端に置いてあるボトルに目をやった。
あれには水が入っているはずだ。
「……はァ、はァ」
シェーラは体を反転させて、這いずるようにボトルに手を伸ばす。
しかし、手が届かない。
「……うぐ」
さらに手を伸ばす――が、
――ボトン、と。
指先が掠ったボトルは、大きく揺れて長椅子から落ちてしまった。
まるで最後の希望を絶たれたように、シェーラの意識は消えそうになった。
――と、その時だった。
――シェーラッ!
どこか遠くで名前を呼ばれた気がした。
――くそッ! やはりこうなってたか!
力強い腕で、自分の体が抱き上げられる気がした。
――シェーラ! しっかり……うお、凄い恰好だな……い、いや、すまん。
遠い声が、かなり近くから聞こえてきた。
――シェーラッ! シェーラッ!
何度も、自分の名前を呼ばれた。
シェーラは、うっすらと目を開けた。
ぼんやりと人影が見える。彼女は喉を鳴らして告げた。
「……み、水……」
――水だな!
その人影は、シャーラを抱いたまま移動した。
落ちたボトルを手に取ったのだろう。人影はシェーラの口にボトルを付けた。
しかし、彼女には、それを呑むほどの力が残っていなかった。
――くそ。すまん。許してくれ。シェーラ。
人影はそう告げた。
そうして、ややあってから、シェーラは唇に柔らかい感触を感じだ。
彼女の唇や歯が、何か力強いものにこじ開けられる。次いで、冷たい液体らしきものが口内に流し込まれた。
(……あ)
水だ。シェーラは喉を動かした。
少しだけ体に活力が戻る。続けて二度目。シェーラは「……ん」と小さく呻いて、喉を鳴らした。それが何度か繰り返された。
――どうだ? まだ足りないか?
尋ねてくる人影に、シェーラは、こくんと頷いた。
あごを少しあげると、また唇に感触が伝わった。冷たい水が喉を通る。
彼女は震える両手を、未だぼんやりとした人影の首に回した。
それから、唇を重ねたまま、ぎゅうっと強く抱き着いた、
人影は、そんな彼女の体を強く支えてくれた。
そして、唇が離れる。
――もう大丈夫だ。俺が傍にいる。
ぼんやりとした人影が、大きな手で彼女の額を撫でてそう告げてくれた。
その声に、とても深く安堵して、シェーラの意識は途切れた。
次に目覚めた時、彼女の体は少し揺れていた。
シェーラは、ぼんやりと目を見開いた。
目の前にあるのは、誰かの後頭部だった。
男性の後姿だ。どうやら自分は背負われているらしい。
「……ここ、は?」
ポツリと呟くと、
「お。気が付いたか?」
男性が告げてきた。その声に、シェーラの意識は一気に覚醒した。
「――お、叔父さまっ!?」
彼女を背負っていたのは、アランだった。
シェーラは困惑した。
「ど、どうして叔父さまが……え? なんで?」
キョロキョロと周囲を見渡す。煉瓦造りの通路。闘技場内の道だ。
ますます状況が分からない。混乱したシェーラは、とにかく、アランの背中から降りようとするが、
「……あ」
くたあっと。
まるで力が入らず、逆に彼の背中にもたれかかる結果になった。
「こら。無理をするな」
アランは苦笑を浮かべて、彼女の体を抱え直した。
「……叔父さま」シェーラは尋ねる。「どうしてここに?」
「お前が心配だったからに決まってるだろう」
アランは、呆れるように告げた。
それから顔を横にして半眼になる。
「シェーラ。お前、《焦熱》を使っただろ」
「え」
シェーラは目を見開いた。
「ど、どうしてそれを……」
「色々あってな。俺はそれにちょっと詳しいんだ。すぐに気付いたよ」
アランは少し険しい顔を見せた。
「まったく。なんて馬鹿な真似をするんだ」
「ご、ごめんなさい」
シェーラは、しゅんと表情を暗くした。
「今回の大会、どうしても、勝ちたくて……」
「お前がどうしてそこまで勝ちにこだわったのかは分からんが……」
そこで、アランは心から安堵した顔で告げる。
「本当に心配したんだからな。お前の体より大事なことなんてないんだぞ」
「……叔父さま」
シェーラは、アランの肩を掴んで恐る恐る聞いた。
「叔父さまは、シェーラのことが大切……でありますか?」
「そんなの当り前だろ」
アランは即答した。
「決勝戦なんて息が止まるかと思ったぞ。ある意味、サーシャ以上にハラハラしたな」
「……ご息女よりも、でありますか?」
シェーラは目を瞬かせる。
「サーシャには内緒だぞ。少しだけお前の方を応援してしまった」
そう告げるアランに、シェーラの顔がボッと赤くなる。
まさか、彼が自分の愛娘よりも、自分の方を応援してくれるとは……。
「けど、それは全部、お前が無茶をしたせいだぞ。まったく。頼むから、二度とこんな無茶はしないでくれ」
そう告げて、アランはシェーラを運び続ける。
そこで、廊下の一角が目に入った。行き先を示すプレートである。どうやら、アランはシェーラを背負って、医務室に向かっているようだ。
アランは、しばし無言で足を進めていた。
コツコツと足音だけが廊下に響く。
シェーラはおもむろに、あごを彼の肩に預けた。
「ごめんなさい。叔父さま」
小さな声で告げる。
そして、頬を染めて、彼女は微笑むのだった。
(大好きであります。アランの叔父さま)
◆
その頃。
アッシュは一人、闘技場の廊下を歩いていた。
レナとは、すでに別れていた。
『と、とりあえずさ!』
別れ際、レナは、こんなことを言っていた。
『オ、オレは後でいいから! 今回勝ったのはサーシャだし!』
レナは、胸の前で両の拳を固めて、こうも告げた。
『よくよく考えれば……うん! やっぱ、まずはサーシャからだよな! うん! サーシャからだ! 今回、オレは副賞みたいなものだし! 敗者だし! け、けど、その、覚悟はしとくから! 今の内に、覚悟だけはしておくから!』
真っ赤な顔でそう叫ぶなり、『じゃ、じゃあまたな!』と、ブンブンと手を振って、レナは走り去っていった。
アッシュとしては、サーシャからという言葉の意味がよく分からず首を傾げていたが、とりあえず、いつも通り元気なレナの姿に安堵しつつ、サーシャが戻っているはずの選手控室に行くことにした。
色々とトラブルはあったが、今はあの子を褒めてあげたいと思ったからだ。
アッシュは、廊下を進んでいく。
と、そうこうしている内に、選手控室に到着した。
アッシュは、コンコンとノックした。
すると、室内から『はい。開いてますよ』というサーシャの声が返ってきた。
「おう。入るぜ」
アッシュはそう告げて、室内に入った。
そこにいたのは、白い操手衣を着たままのサーシャだった。
他には人もいない。ここはサーシャ専用の部屋だった。
「――先生っ!」
サーシャはアッシュの姿を確認すると、満面の笑みを見せて、駆け寄ってきた。
そして「撫でて、撫でて」といった眼差しでアッシュを見つめてくる。
アッシュは苦笑しつつも、サーシャの頭を撫でてやった。
サーシャは嬉しそうに目を細めた。
数秒ほど、撫でてから、
「よく頑張ったな。サーシャ」
アッシュは笑う。サーシャは「はい」と頷いた。
「よくやったぞ。最後なんて構築系まで使っただろ?」
「は、はい。自分でも驚きました」
サーシャが、気恥ずかしそうに言う。
咄嗟に使った構築系の闘技。手甲に生み出した《十盾裂破》。
創り出せたのは一枚の盾だけだが、最後の一撃を凌ぐことは出来た。
それが勝利へと繋がったのだ。
だが、それも、最後の最後までサーシャが諦めなかった結果だ。
彼女の想いの力が、勝利を引き寄せたのである。
「……本当に、よく頑張ったぞ」
心から誇りに思って、再び頭を撫でた。
サーシャもまた目を細めた。しばらく嬉しそうだったが、ややあって、
「……あ、あの、先生……」
上目遣いの眼差しで、サーシャが唇を開いた。
「ん? 何だ?」
「あ、あの、ですね……」
サーシャは、少し恥ずかしそうに告げる。
「そ、その、約束していた、優勝のご褒美なんですけど……」
「ああ、そうだったな」
アッシュは、ニカっと笑う。
「何だ? 何が欲しいんだ? それとも何をして欲しい?」
「あ、は、はい」
サーシャは、コクコクと頷いた。
「じゃ、じゃあ……」
くるくると指先で自分の髪を巻き、視線を逸らして彼女は言う。
「色々と考えてるんですけど、けど、その前に……少し目を瞑ってくれませんか?」
「ん? 目か?」
アッシュは一瞬、キョトンとするが、
「何だよ。サプライズか?」
ふっと笑い、目を瞑った。
当然ながら、視界が閉じられる。と、サーシャの声がした。
「……はい。多分、アッシュにとっては、とても驚くサプライズになると思います」
「おっ、そうなのか?」
目を瞑ったまま、アッシュは気楽にそう呟いた。
そうして数秒の静寂。
謎の沈黙に、アッシュが不思議に思った時。
――すうっ、と。
自分の首に、細い両腕が回される感触を覚えた。
(――ッ!)
アッシュは、目を見開く。
そこには、瞳を閉じるサーシャの顔があった。
そして、彼女の唇は、自分の唇に強く重ねられていた。
あまりのことに、アッシュは硬直した。
口付けは、十数秒間も続いた。
ややあって、サーシャは瞳を開くと、ゆっくりと唇を離した。
「……サーシャ、お前……」
アッシュは、未だ唖然としていた。
言葉もなく、愛弟子を凝視する。
彼女は、片手で自分の唇を押さえて、赤い顔で視線を逸らしていた。
「……これが……」
か細い声で、サーシャが呟く。
「私の気持ちなんです。アッシュ……」
彼女は、胸元に両手を置いて、遂にはっきりと告げた。
「私は、貴方のことが好きなんです」
「……サーシャ……」
アッシュは茫然と呟き、愛弟子を見つめた。
彼女は、ずっと頬を赤く染めていた。
「ずっと、ずっと貴方のことが好きでした。私は貴方と結ばれたい」
そう告げるサーシャに、アッシュは神妙な顔をした。
まさか、サーシャに、そんな想いを抱かれていたとは……。
(……俺は、どこまで鈍感なんだよ)
思わず頭を抱えたくなる。
サーシャを女性としてどう思っているか。
それは、今さら見つめ直すまでもない。
かつて
そんな彼女に好きだと告げられれば、当然ながら嬉しく感じる。
――しかし、だ。
「……すまん。サーシャ」
アッシュは真剣な表情で、サーシャの顔を見据えた。
真剣な想いには、真摯な態度で応じるべきだった。
この純真な少女に語るには、恥ずべき話ではあるが、ここは、オトハとサクヤ。そしてシャルロットのことを告げるべきだろう。
自分は最低な人間だ。
師としても、男としても、幻滅されるに違いない。
だが、それでも、しっかりと伝えるべきだと思った。
「……お前の気持ちは嬉しい。とても嬉しく思う。けど、俺にはすでに恋人がいるんだ。それも一人じゃなくて――」
「あ、知ってます。オトハさんと、サクヤさんですよね」
「――なんでお前まで知ってんだよ!?」
真剣な雰囲気から一変、アッシュは愕然とした。
「サクとオトはどこまでしゃべってんだ!? つうか、お前、それを知った上で俺に告白してんのか!? どういうつもりなんだよ!? サーシャ!?」
シャルロットもそうだったが、これは一体どういう状況なのか。
アッシュが激しく動揺していると、サーシャは「ふふ……」と微笑んだ、
「その点は、もう覚悟もしていますから。私も。みんなも。それに、他にも知っているんです。そう。私は
サーシャは両手を、アッシュの頬にそっと添えた。
「……
「……え」
一部の人間しか知らないはずのその名で呼ばれて、アッシュは目を剥いた。
サーシャは微笑みながら、言葉を続ける。
「貴方が真面目な人なのは知っています。誠実だから、複数の人を愛して、強いジレンマを抱いていることも。だけど、それ以上に貴方が凄く臆病なことを知っています」
一拍おいて、
「大切な人は絶対に離したくない。サクヤさんを失った日から、貴方は大切な人を――愛する人を失うことに、酷く怯えている。サクヤさんを取り戻した今でも、それだけは変わらない。私はそれを知っています」
そこで、琥珀色の瞳を少し細めて、ペロッと舌を出した。
「だから、私は確信犯なんですよ。貴方が、私のことも、大切に想ってくれていることはもう知っているから。そうですね。ジラールを思い浮かべてください」
「……いや、ジラールって……」
唐突な名前に、アッシュは困惑した。
「俺は、そいつとは一度も遭ったことがねえんだが……」
「なら、どこかのおじさんでもいいです。四十代ぐらいの。太った人」
「……誰だ、そいつは?」
アッシュが眉をひそめると、サーシャはクスリと笑った。
「誰でもいいです。けど、その人に、私が抱かれてしまうところを想像してください。状況は政略結婚でも、借金の肩代わりとかでもいいです。その人が、私のことを力尽くで組み伏せて、乱暴なことをするんです」
「……おい。それは……」
アッシュは、表情を険しくした。
サーシャは、アッシュの首に手を回して告げる。
「……嫌ですよね?」
「当り前だろ。そんなの」
即答してくれるアッシュに、サーシャは嬉しそうに微笑む。
「だったら、他の男の人だったらどうですか? 今度は、私がその人のことを好きになるようなケースでもいいです。どう思いますか?」
「……それは……」
アッシュは渋面を浮かべた。
他の男がサーシャを抱く。それを考えると、胸の奥がざわついた。
頑張り屋の愛弟子。
死ぬ運命だったユーリィの命を助けてくれた女の子。
あの夜、自暴自棄になった自分を引き戻してくれた少女。
自分でも分かっている。
サーシャが、自分にとってかけがえのない存在であるということは。
「ね? やっぱり、私は確信犯でしょう?」
サーシャは、悪戯っぽく微笑んだ。
「私は知っています。私が、どれほど貴方に大切に想われているのかを。私は知っているんです。私が本気の想いを伝えた今、どんなジレンマを抱いたとしても、私のことを大切に想ってくれている貴方が、私を離せるはずがないって……」
「……サーシャ」
アッシュは、とても困惑していた。
「……むむむ。これでも、まだ押しが足りないみたいですね」
サーシャは、頬を膨らませた。
「なら、さらに押しこみますよォ。今回のご褒美の話です」
「ご褒美って……それって、さっきの……優勝したらってやつの話か?」
「はい。そうです」彼女はニコッと笑った。
「私の望みは、アッシュとの小旅行です。三泊四日ぐらいの」
「……は?」
アッシュは目を丸くした。
サーシャは、大きな胸を反らして「ふふん」と鼻を鳴らした。
「お金は優勝賞金から出します。ラッセルでホテルを取るつもりです。ラッセルで一番高いホテルのスイートルーム。室内にお風呂まであるっていう話の部屋です」
サーシャは顔を少し赤くしつつ、コホンと喉を鳴らした。
「その部屋を三日間、二人きりで借りるつもりです」
「お、おい! サーシャ!」
アッシュが顔色を変えるが、サーシャは攻め手を緩める気はない。
自分の首元に指先を当てた。プシュッ、と軽く空気が抜ける音がして、操手衣の前面が大きく裂ける。ぶるんっと彼女の豊かな胸が露になった。
「うひゃあっ!?」
流石に零れ落ちたりはしなかったが、自分でも想定してなかった弾み具合に、サーシャの顔が真っ赤になった。思わずへの字口になって、プルプルと震えた。
「……サ、サーシャ?」
アッシュが恐る恐る声を掛けると、
「だ、大丈夫ですよ! これぐらい! だって、今の私は、ただのメットさんではありませんから! 優勝を果たして最強進化した
「い、いや、アルティメットのメットは、メットじゃあ……」
「や、やあっ!」
ツッコみも遮って、サーシャはアッシュに抱き着いた。
大きな双丘が、アッシュの胸板で押し潰される。
わざわざ操手衣を解放したのは、これを十全に発揮するためという訳だ。
ただ、それを実行したサーシャ自身の顔は、もう凄まじいぐらいに真っ赤だったが。
アッシュとしては、茫然とするばかりだった。
すると、
「ふ、二人きりの、三日間……」
サーシャは、少し涙が滲んだ眼差しでアッシュを見つめた。
「も、もっと、もっと攻めちゃいますからね! 一緒に……そ、その、お風呂とかもお願いしたりしちゃいますから! これは優勝者の権利ですから! アッシュに拒否権はないですから! わ、私のことが大切で、離したくないアッシュは、その、男の人として、が、我慢できますかっ!」
まるで小動物のようにプルプル震えながら、そんなことを言ってくる。
「……サーシャ。お前な……」
アッシュは嘆息した。
しかし、同時に愛らしすぎる彼女に、強い愛情が込み上げてくる。
(……やれやれだな)
アッシュは一度瞑目してから瞳を開けると、サーシャの腰に腕を回し、彼女の体を軽く抱き上げた。サーシャは目を見開いた。
「え、ア、アッシュ……?」
動揺した声を上げる。
そんな彼女を、アッシュは、より強く抱き寄せた。
「……お前の勝ちだよ。サーシャ」
「か、勝ち?」
「ああ」アッシュは頷く。
「見事な戦術だった。的確に弱点を突いてくれたよ。全部お前の言う通りだ」
くしゃり、と彼女の頭を撫でる。
「お前の言う通り、俺にとって、お前は本当に大切なんだ。ここでグダグダと言い訳してお前を失うぐらいなら、俺のジレンマなんて些細なことだ」
一拍おいて、
「本当に思い知らされたよ、サーシャ。サクや、オト。シャルと同じように、俺はお前のことを、こんなにも離したくなかったんだな」
「え? シャルロットさんって」
サーシャは、目をパチパチと瞬かせた。
「凄い。シャルロットさん、いつの間に……」
「……いや、凄いって……やっぱ全然驚かねえんだな。まあ、それでも、流石にシャルのことまではまだ知らなかったか」
シャルロットを、この腕に抱くと決意したのは今朝のことだ。
そのことは、まだサクヤにもオトハにも伝えていない。知らなくても当然だ。
それにしても、わずか半日の間で、まさかこうなるとは……。
アッシュは、自分が選んだ道に、小さく嘆息した。
だが、
「小旅行の件もOKだ。予定の方も都合をつけるよ。けどな」
アッシュは、腕の中のサーシャの息遣いや、その温もり、柔らかさを堪能するように抱き直してから、耳元で囁いた。
「言っとくが、その三日間はマジで覚悟しとけよな。もちろん、サーシャのことは大切にするつもりだが、流石にもう優しいだけの先生って訳にもいかねえからな」
「…………え」
アッシュの台詞に、サーシャは大きく目を見開いて、
――カアアアアっと。
顔からうなじ、胸元から腹部に至るまで。
露出した全身の肌を赤くした。
一方、アッシュは「ははっ」と笑う。
「けど、何の心配もいらねえか。なにせ、今のサーシャは、最強に進化した
「~~~~~っっ」
サーシャは何も言えず、口をパクパクと動かした。
アッシュは、双眸を細めると、サーシャの白い首筋に強く口付けをした。
この女は自分のモノであると刻むように。
「…………あ」
本能的にそれを察したのか、サーシャが全身を硬直させる。
否応なく心音が高鳴り、体温が上がっていく。
「……う、あ……」
サーシャがギュッと目を瞑り、声を零す。
数秒ほど経って、
「……サーシャ」
ようやく口を離して、アッシュはサーシャの名を呼んだ。
「は、はい……」
と、サーシャは、どこか焦点の合っていない眼差しでアッシュを見つめた。
そこで、アッシュは少しだけ意地悪な笑みを見せた。
彼女のうなじに手を添えると、コツンと額同士を当てて、
「ここまで男を挑発したんだ。もうなかったことになんて出来ねえからな」
「…………あ」
サーシャが琥珀色の瞳を見開き、ビクッと肩を震わせた。忙しく視線が動く。が、ややあって、緊張で目尻に涙を溜めつつも「はい……」と答えた。
「……わ、分かっています。け、けど、私は、まだ初めてだから……その」
サーシャは、消え入りそうな声で告げた。
「……ご、ご指導、ご鞭撻のほどを……」
「いや……ははっ」
アッシュは口元を綻ばせて、彼女のうなじをぐいっと引き寄せた。
……本当に。
自分の人生は、本当に波乱万丈だ。
(これまで本当に散々な人生だったが、まあ、こればかりは自分で選んだんだ。もう運命のせいなんかにも出来ねえよな)
強い覚悟と共に、心の底から、そう思うアッシュであった。
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