第377話 小鳥は羽ばたく⑤
――森の奥。
損傷した《地妖星》から降りたボルドは、嘆息していた。
(自分でいうのもなんですが、しぶといですよね。私は)
今回は流石に死を覚悟したのだが、それでも生き延びた。
自分の悪運には、ほとほと感心するばかりだ。
だが、今回は悪運だけとは言えない。
こうして生き延びたのは、彼女のおかげだろう。
(……ふゥ)
内心で深い溜息をつきつつ、ボルドは彼女に目をやった。
「………」
彼女――カテリーナは、何も語らない。
ただ静かに、両手を腰の前で組んで立っていた。
ボルドは、改めて彼女の様子を窺った。
服装は赤いビロードタイプの上着に、黒のタイトパンツ。
普段は頭頂部で団子状にすることの多い長い髪は、バサバサだ。
よほど急いできたのか全く梳かした様子もない。
今は、そのまま下ろしている。
彼女のトレードマークとも言える赤い眼鏡もかけていなかった。
(いえ、確かあれは……)
昨晩の際に、押し潰してしまった気がする。
きっと、壊れて使い物にならなくなったのだろう。
ボルドは、静かな眼差しで彼女を見つめた。
すると、カテリーナは、ポロポロと涙を流し始めた。
「カ、カテリーナさん……」
やはり自分が恐ろしいのだろう。
それも仕方がない。それだけのことをしたのだから。
ボルドは自責の念を抱く。
きっと、彼女の精神は今壊れかけている。
それでもここに来たのは、まだ部下である義務からか。
そんなことを考えていた時だった。
「も、申し訳ありません。ボルドさま」
不意に、カテリーナは勢いよく頭を下げてきた。
「え? 何がですか?」
ボルドは困惑する。と、
「わ、私は……」カテリーナは語り始める。「きょ、今日――昨晩のために、知識だけですけど、沢山の勉強をしてきました。な、なのに、私は……」
カテリーナの涙は止まらない。細い肩はずっと震えていた。
「初めてだったし、その、突然のことで混乱して、動揺していたのは確かです。けど、本当なら、私がもっとボルドさまを喜ばさなきゃいけないのに、私はボルドさまに、ずっとリードしてもらうだけで……」
「え? リ、リード? あれが? あの、カテリーナさん?」
ボルドはさらに困惑する。
一方、カテリーナは、目を擦りながら言葉を続けた。
「だ、だから起きた時、ボルドさまがいなくて、机の上の『届け出』を見て……」
彼女の涙は止まらない。
「つまらない女だとボルドさまに失望されても仕方がないって思います。けど、けど嫌なんです。お傍にいたいんです。捨てないで。お願い。捨てないでェ」
普段の知的さなど全くなく、大粒の涙を流すカテリーナ。
ここに至って、ようやくボルドも理解する。
「え? カテリーナさん? もしかして私のことが好きなんですか? 男として?」
それでも、そう尋ねるのがボルドという男だ。
「――好きに決まっているじゃないですかあ!」
カテリーナは、大泣きしながら叫んだ。
「昨夜、やっと、やっと、ボルドさまが私のことを求めてくれて……なのに、なのに、最初から最後まで、もう全然、応えられなくてェ」
ヒッグヒッグと嗚咽を上げる。
ボルドは、ただただ茫然とした。
「え、えっと。カテリーナさん」
「――頑張りますからあ!」
カテリーナは、森の中に響くほどの声を上げた。
「もっと、もっと、いっぱい勉強して、次こそは、次こそはきっと応えますからあ! 捨てないでェ! もう一度チャンスをくださいィ」
化粧もなく。
目を涙で滲ませて叫ぶその姿は、まるで幼い少女のようだった。
(……なるほど。彼女の欲望とは)
何とも情けないことだ。
欲望の徒。《九妖星》ともあろう者が部下の欲望にも気づかないとは――。
(これはすべて私の責任ですね)
ボルドは、決断する。
「もう泣かないでください。カテリーナさん」
「ひっぐ。だってえェ……」
「それと、勉強などは不要ですよ」
「――ひっぐッ!」
カテリーナは、顔を強張らせた。
対し、ボルドは両手の親指で彼女の涙を拭った。
「余計な知識など不要ですよ」
そして、彼女が恐らく最も求めているであろう言葉を告げる。
「あなたはそのままでいてください。後は私がします。今日から、私が色々と教えていきます。あなたは私の大切な女性ですからね」
「…………え」
カテリーナはキョトンした顔を見せた。
ボルドは、苦笑を浮かべる。
「これからは、本当に公私ともに一緒です。ただ、覚悟はしておいてくださいね。昨晩で分かったとは思いますが、夜の私は少々手荒いので」
カテリーナは無言だった。
が、すぐにボロボロと泣き出し、
「ボルドさまあっ!」
そう叫んで、ボルドの首に抱き着いた。
次いで、ボルドに口付けをする。
ボルドはムグっと呻いた。
(ん? ああ、そう言えば……)
昨晩。彼女のすべては貪りつくしたつもりだった。
彼女の肢体で、自分の手が触れていないところなどないと思っていた。
だが、思えば、彼女の唇だけは奪っていなかった気がする。
理由は明白だ。
嫌悪の表情を浮かべているであろう彼女の顔を見るのを恐れていたからだ。
まあ、結局、それも今、彼女自らの意志で捧げられたので、名実ともに彼女のすべてを奪ったという訳なのだが。
(そして、私は美人秘書に手を出したエロ上司に確定した訳ですね)
そう思うと泣けてくるが、事実は事実だ。仕方がない。
ボルドは、彼女の両肩を掴んで離した。
カテリーナは、名残惜しそうに自分の唇を押さえている。
「ともかくカテリーナさん」
ボルドは告げる。
「今は撤退しますよ。クラインさんに出くわすと怖いですからね」
カテリーナは、こくんと頷く。
そして、
「――はい。ボルドさま」
幸せそうに笑うのであった。
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