第374話 小鳥は羽ばたく②

 その時、彼女は茫然自失となっていた。

 朝――実際は昼過ぎ――起きた時から、ずっとこの様子だ。

 ベッドの上に、ポツンと座っていると、窓からの日差しが目に入った。

 眩しさで瞳を細めた時、視界の端に赤い眼鏡を見つけた。

 手に取って、頭上に掲げてみる。

 赤い眼鏡は、フレームの部位がひしゃげていた。

 お気に入りだった眼鏡だったが、これではもう使い物にならない。


 彼女は、しばしそれを見ていたが、不意に、にへらと童女のように笑った。

 ようやく彼女に思考が戻ってくる。


 ――ああ、私は遂に……。


 ベッドの横に眼鏡を置き、続けて両手で腹部を押さえてみる。

 数秒の静寂。

 彼女はまたも、にへらと笑った。


 ――昨晩は、ここに何度灼熱を感じたことか。


 一体、彼のどこが四十代だというのか。

 まだ二十代の自分が、完全に体力負けしてしまった。

 あまりの激しさに、何度果てたのか分からないぐらいだ。

 彼女は、ふふっと笑ってベッドから立ち上がる。と、その時、ズキン、と下腹部よりもさらに下が少し痛んだが、それさえも愛しかった。

 これもまた彼が刻んでくれたものだから。


 しかし、そこでふと疑問が浮き出る。

 どうしてか彼の姿がない。


 キョロキョロ、と室内を見渡した。

 昨晩、自分が着ていた『浴衣』がベッドの下に落ちていることに気付く。

 改めて、自分が全裸であることに気付くが、それは今更のことだ。

 昨晩、まさに自分のすべてを捧げて、さらけ出したのである。

 彼に対してもう隠すものなどなかった。


 彼女は愛しい彼の姿を探したが、室内には見当たらなかった。

 どこかに出かけたのだろうか?

 彼女はベッドから立ち上がると、ひょこひょこと歩き始めた。

 と、そこで机の上に紙があることに気付く。

 伝言だろうか? 手に取ってみた。


 そして――。


 彼女は、顔色を一気に青ざめさせた。

 彼女は紙を放り投げると慌てて近くにあった服を着た。前日にも着ていたタイトパンツに、ビロードの赤い上着だ。化粧をする暇も、髪を整えて結いでいる暇もない。

 彼女は本調子でない体で外に飛び出した。

 一階で女将と出会い、『昨晩は楽しめたかい?』と尋ねられた。

 本来ならば、決め手を授けてくれた女将に心から感謝をし、謝礼さえも贈るべきところだったが、今は答える余裕もない。


 宿から出るなり、彼女は愛機を召喚した。

 輝く転移陣。

 現れ出たのは、全体的に丸みを帯びた甲冑を纏う真紅の鎧機兵。レイピアを携えた、馬の尾のような兜飾りが特徴的な機体だ。

 彼女の愛機・《羅刹》である。


 ここは大通りだったので、流石に通行人がギョッとするが構わない。

 構うだけの余裕がない。

 彼女は、羅刹に飛びつくように乗りこんだ。

 操縦シートに跨ると、ズキンと下腹部辺りが痛んだが、それも無視する。

 そうして、彼女の愛機は走り出した。

 目的地は彼の宿敵のいる工房だ。


 もしかしたら、そこにはすでにいないかもしれない。

 なら王都の外か。


 そう言えば、この街の近くには、そこそこ大きな森があると聞いた。

 そこならば恐らく邪魔は入らない。戦闘に適した場所だろう。

 明晰な知性を取り戻した彼女は、瞬時にそこまで考えた。


「……ボルドさま」


 彼女は、ギュッと操縦棍を強く掴んだ。

 そして愛機に願う。


「――急いで! 《羅刹》!」



       ◆



《地妖星》は、軽やかに跳んだ。

《朱天》の頭上を飛び越えて着地。反転する間も惜しんで戦鎚を背後に振るう!

 対し、《朱天》は竜尾を躍動させて迎え撃った。

 ――ガガンッ!

 竜尾と、戦鎚がぶつかり合う。

 火花が散った。

 すると、それを合図のように、二機はそれぞれ前へと駆けだした。

 そしてほぼ同時に反転すると、互いに《雷歩》で跳躍。

 今度は、鋼の拳と、戦鎚をぶつけ合った。

 ズズン、と地が揺れる。

 刹那、《朱天》が戦鎚を掴んだ。

 続けて、膂力に任せて振り回す。《地妖星》は戦鎚を離そうとはしない。《朱天》はさらに加速させて《地妖星》を放り投げる――が、

 くるくる、と。

 鎧機兵である《地妖星》は猫のように宙空で姿勢を整え、あっさりと着地した。


『猫かよ。てめえの鎧機兵は』


 アッシュは、呆れた口調で語る。


『まあ、機体の半分は虎。一応猫型ですし』


 そう言って、《地妖星》は肩を竦めた。


(本当に厄介だな)


 アッシュは舌打ちする。ボルドの《地妖星》に限らず、《九妖星》の機体は、通常の鎧機兵の理外にある機体が多い。

 あの身軽さは、やはり形態によるところが大きいのだろう。

 あれには、いつも苦慮させられる。


(さて。どう攻めるか)


 アッシュは双眸を細めた。

《地妖星》は、ゆっくりと左右に弧を描いて戦鎚を振っていた。

 振り子のように動く戦鎚に隙はない。

 あの構えから、一気に加速。怒涛の攻めが来るのだ。


(やっぱ強ェえな。あのおっさんは)


 手強いことは百も承知だ。

 それでも、負ける訳にはいかないのである。

 アッシュの後ろには、ユーリィがいた。

 彼女は今、操縦シートの後ろに座り、アッシュの腰にしがみついていた。

 いつものように、戦闘中、彼女は何も喋らない。

 不要な声を上げて、アッシュの集中力を削がないためだ。

 この健気な少女を人買いなどに渡す気はない。


(ちまちま考えんのもらしくねえか)


 アッシュは、操縦棍を握る手に力を入れる。


『おや? 来ないのですか? クラインさん』


 と、ボルドが催促してくる。

 アッシュは、苦笑を浮かべた。


『ああ。そうだな』


 双眸を細める。


『どうせ手の内も大体読まれてるし。なら迷うだけ馬鹿らしいか』


 そう告げる。

 と、同時に《朱天》が拳を胸部装甲の前で叩きつけた。

 アッシュのルーティーン。

 本格的な戦闘の開始を告げる号砲だ。


『じゃあ、行くぜ』


 アッシュは宣言する。

 と、ユーリィが信頼を寄せるように、強く彼に抱き着いた。

 アッシュが全力を尽くせるように体を寄せたのだ。

 この子を奪われてたまるものか。

 アッシュは、より強く操縦棍を握りしめた。


『そろそろ本番と行こうぜ。おっさんよ』

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