第372話 憩いの森③
「こ、これは……」
ボルドは息を呑む。
――《黒陽社》・第五支部の支部長。
誰もが恐れる《九妖星》の一角は今、レジャーシートの上で正座していた。
そして愕然と、手に持つそれを見ていた。
「い、一体、何なのでしょうか?」
「……サンドイッチに決まってんだろうが」
と、アッシュが言う。
ただ、少し自信なさげなのは、仕方がないことか。
ボルドの手には、紫色のトーストに灰色のレタス。さらには、鶏の頭らしき具が飛び出した一品だった。確かに見た目はサンドイッチである。
加え、彼の目の前には、泡立つ黒い液体が注がれたコップがある。
「あの、クラインさん」
ボルドは一度喉を鳴らしてから、アッシュを見据えた。
「もしかして、私を毒殺しようと考えていませんか?」
「おい。ふざけんな」
アッシュは、剣呑な表情を見せた。
それから、隣に座るユーリィの頭をくしゃくしゃと撫でた。
「うちの子の手料理を毒物扱いか?」
言って、右手に持っていた自分のサンドイッチを頬張る。
食べる瞬間、一度、躊躇うように手が止まってしまったのもやむなしか。
しかし、食べたことには変わりない。
(……ふ~む)
ボルドは、改めて、まじまじと自分の手の中のサンドイッチに目をやった。
目の前で食べた以上、毒物とは考えにくいだろう。
そもそも、ここまで分かりやすい毒物というもの珍しい。
ボルドは、恐る恐るサンドイッチを口にする。
(こ、これは!)
――美味い。
絶妙な焼き加減のトースト。作られてから時間が経っているというのに、鮮度が落ちていない瑞々しいレタス。歯応えが実に爽快だ。
ボルドは、鶏らしきものにも食らいついてみた。
(……これは、芋のコロッケ、ですか?)
見た目は焼いた鶏だが、味はコロッケだ。しかも冷えてなお絶妙に美味い。
ただ、噛んだ時、鶏の頭が嘴を開けて「グゲッ」と鳴いたように聞こえたのは、きっと偶然なのだと思いたい。
ともあれ、見た目はともかく、味は絶品だった。
「これをエマリアさんが作られたのですか?」
「……うん。そう」
ユーリィは、ボルドを警戒しつつも頷いた。
ボルドは「素晴らしいですね」と、破顔する。
「エマリアさんにこんな特技があったとは。エマリアさんの容姿。《金色の星神》の能力に加え、この特技ですか」
ボルドは、にこやかな声で告げる。
「エマリアさんを購入されるお客さまも、さぞかしお喜びになられるでしょう」
ユーリィは、ビクッと肩を震わせた。
「……おい。おっさん」
アッシュが、表情を消して宣告する。
「早速、塵にされてえのか?」
対し、ボルドは食べかけのサンドイッチを片手に、手を振った。
「いえいえ。今はご相伴を預かりますよ。それはこの後で」
「……ふん」
アッシュは不機嫌を隠さず、鼻を鳴らした。
それから、ちらりと周辺の森を一瞥した。
「ところで、今日はカテリーナ=ハリスは来ていないのか?」
カテリーナ=ハリスは、ボルドの懐刀だ。
伏兵として潜んでいる可能性もあるが、こうしてボルドが堂々と姿を現している以上、彼女だけ潜んでいるというのも不自然な気がする。
ならば、別行動を取っていると考えるべきか。
アッシュが、そんなことを考えていたら、
「……カテリーナさんですか」
ボルドが、何とも気まずい表情を見せた。
それから自嘲気味に肩を落として。
「……実は、彼女には嫌われてしまいまして」
「……はあ?」
アッシュが、眉をひそめた。
「何だ? セクハラでもやらかしたのか?」
皮肉も込めて、そう告げると、
「……はは、そうですね」
ボルドは、乾いた笑みを零した。
実際のところは、セクハラどころの話ではない。
外道、ここに極まれし、だ。
嫌われて落ち込むこと自体、図々しいとさえ言える。
ただ、流石にそれを、アッシュやユーリィに教える必要性はなかった。
「まあ、ともかく」
代わりに、ボルドは告げる。
「今日の私は一人ですよ。正真正銘、今日は一対一という訳です」
「……そうかよ」
アッシュは、苦笑を浮かべつつ、コップを手に取り、飲み干した。
ボルドもそれに倣うように、黒い液体の入ったコップを手に取る。
これもまた、飲むには相当な覚悟のいる品だが、アッシュもユーリィも、普通に口をつけている。これも毒物ではないのだろう。
ボルドはコップに口を付けて、液体を飲んでみた。
(……ほう! これは!)
思わず目を見開いた。
そして、一気に飲み干して「ぷはあ」と大きく息を吐いた。
これは、本当に驚きの逸品だ。
「これは素晴らしいですね!」
ボルドが、柏手を打つ。
「酒と割ると、何とも合いそうな品ですよ」
「ああ、確かにそうかもな」
これに対してだけは、アッシュも同意した。
それから、黙々と食事をとるユーリィを傍らに、アッシュとボルドは些細な話に見せかけながら、互いの腹の内を探るような会話をした。
それは一種の情報戦だった。
表向きだけは、和やかな空気が続く。
そうして、十分ほど経ち……。
「では、私はそろそろ」
「おう。そうか」
ゆっくりと立ち上がるボルドに対し、アッシュが頷く。
「ご相伴ありがとうございました。そしてクラインさん」
ボルドは、にこやかな笑顔で告げる。
「開戦は一時間後。この森の奥でよろしいでしょうか」
「おう。いいぜ」
アッシュは、コップに口を付けながら答える。
「そこら辺なら、人もいねえだろうしな」
「そうですね。今度こそ勝たせてもらいますよ。そして」
そこで、ボルドはユーリィに視線を向けた。
ユーリィの体が微かに震える。
「今日こそは」
細い目がわずかに開かれる。
「エマリアさんを、確保させていただきますから」
「やれるものならやってみな」
アッシュは吐き捨てた。
それに対し、ボルドは笑みを浮かべるだけで答えない。
「では、失礼します」
そう告げて、ボルド=グレッグは森の中に消えていった。
残されたのは、アッシュとユーリィだ。
しばしの沈黙の後、アッシュは立ち上がった。
そして、
「ユーリィ」
愛娘に声をかける。
ユーリィは、ゆっくりとアッシュに視線を向けた。
アッシュは、優しく笑って。
「おいで」
「……ん」
ユーリィは立ち上がって、アッシュの傍まで寄った。
アッシュは正面から彼女を抱き上げた。
ユーリィの両足が宙に浮く。
「怖いか?」
耳元で尋ねると、ユーリィは空色の髪を揺らしてかぶりを振った。
「アッシュが守ってくれるから」
「そっか」
アッシュは目を細める。
そして――。
「お前は誰にも渡さねえ。お前を奪おうとする奴は……」
アッシュは、ユーリィを抱きしめる腕に、わずかに力を込めた。
「誰であろうと容赦する気はねえ」
「……うん」
アッシュの力強さと、愛情の深さの前に微かな笑みを零す。
ユーリィは、宙に足が浮くこの抱っこが一番好きだった。
何故なら、彼女を支えるのは彼の両腕のみ。
まさしく、自分のすべてを彼に委ねているからだ。
十数秒ほどの抱擁。
ややあって、アッシュはユーリィを降ろした。
それから、紅いベストの裏にあるハンマーに触れる。
すると、転移陣が展開されて、ゆっくりとアッシュの相棒が姿を現した。
漆黒の鎧に、鬼の風貌。四つの紅い角に、白い鋼髪。
まるで《煉獄の鬼》を彷彿させる鎧機兵。
――《朱天》。
かつて、愛する《彼女》に殺すために。
大切なユーリィを守るために、進化をし続けたアッシュの愛機である。
アッシュは、ユーリィをその場に置いて、相棒の前に立った。
「今日も頼むぜ。相棒」
続けて、コツンと、《朱天》の装甲に拳を付けた。
相棒は、何も答えない。
いつものように泰然とした存在感を放っていた。
そんなこと当然だと言わんばかりに。
アッシュは、しばし苦笑を浮かべていたが、
「さぁて、と」
苦笑を不敵な笑みへと変えて、呟くのであった。
「いい加減、決着と行くか。ボルド=グレッグ」
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