幕間一 虎と村と蜂と
第295話 虎と村と蜂と
「……痛てて。もっと優しくしてくれよ」
「うるさい。大人しくしな。湿布が貼れないだろう」
そこはサザンにある建屋の一つ。
構造は小規模な宿屋であり、数ある部屋の一つに彼らはいた。
「……くそ、何だったんだよ、あの化けモンみてえな小僧は」
と、不満を漏らすのは椅子に座るバルカスだ。
顔の半分が無残なぐらい大きく膨れあがっている。そんな彼の頬に湿布を貼るのはジェーンだった。
「思い出したよ。あいつのこと」
ぺたりと湿布を貼ってジェーンが言う。
「傍にフードを被った子供もいただろ? あいつは噂に聞く子連れ傭兵だよ」
「――ッ! 《黒蛇》ンとこの切り込み隊長か!」
バルカスを痛む頬を押さえつつ、目を剥いた。
傭兵の界隈で《黒蛇》の名を知らない者などいない。数々の伝説を持つ最強の傭兵・オオクニ=タチバナを団長に抱く大傭兵団だ。
そして、そんな傭兵団において若き切り込み隊長の雷名は知れ渡っていた。
「確か退団して今はフリーになったんだよな。あいつがそうなのか?」
「ああ、間違いないね」
ジェーンは二枚目の湿布を貼りながら断言する。
「昔あいつが《黒蛇》の小娘と一緒にいたところを見たことがあるよ。その時は《黒蛇》の団服を着てたからね」
「ああ、《黒蛇》の美姫か」バルカスは呻いた。「そういやあの嬢ちゃんって確か切り込み隊長の女だって噂だったよな。ああッくそが!」
そこで渋面を浮かべてガシガシと頭をかいた。
「《黒蛇》ンとこの美姫だけじゃなく、今頃あの姉ちゃんもあの野郎の腕の中ってか! ちくしょう! 完全にかっさられた! 絶対あの姉ちゃん初物だったぞ! 本当なら俺が堪能していたはずなのによォ!」
そんなことをぼやくバルカスにジェーンは無言だった。
ジェーンはバルカスの情婦である。恋人でも妻でもない。肉体だけの関係だ。だから浮気などと声も荒らげないし、娼館通いも容認しているのだが、それでも情婦――この男の女であることには変わりない。そんな女の前で堂々と他の女を抱きたかったと言い放つバルカスには呆れて言葉もなかった。
バルカスはしばしブツブツと不満を零していたが、
「まあ、しょうがねえか。負けは負けだ。あいつは強かった。そんで欲かいて調子に乗った俺が間抜けだったってことだよな」
と、あっさりと思考を切り替える。
この切り替えの速さこそが彼の団長としての長所だった。
「しかし、このまま手を引くのも癪だな」
それから顎髭に手をやると、十数秒ほど考え込み、
「よし。決めたぞ。ジェーン」
そう切り出して副団長でもあるジェーンにこれからの団の方針を告げた。
「行き先ならすでに聞いてただろ? あの小僧なら多分この話にも乗るんじぇねえかと思うんだ」
「まあ、あの依頼者のガキの様子からしてあり得そうだけど」
ジェーンは眉をひそめつつも同意する。
バルカスは腫れ上がった不細工な面で破顔した。
「まッ、そういうこったな。他の連中にはお前から伝えてくれよ」
「……仕方がないね」
ジェーンは嘆息する。一度言い出したら聞かない男だ。
「それじゃあ行ってくるよ」
そう言ってジェーンは伝達のために退室しようとする。が、
「――っと、その前に」
バルカスは部屋を出ようとする彼女の腕をおもむろに掴んだ。
ジェーンは訝しげに眉根を寄せる。
そんな彼女にバルカスは当然のように言い放った。
「上等な獲物を食べ損ねちまったからな。さっきから欲求不満なんだよ。だから、ちょいとばかり付き合ってくれねえか?」
「……………は?」
目を丸くするジェーン。
何を言い出すのか、この男は。が、反論を繰り出す前にジェーンは抱きかかえられ、部屋に備え付けてあるベッドの上にまで運ばれてしまった。
「ま、待ちなあんた! まだ昼間だし、その怪我で何を考えてるの――ん」
ようやく反論の言葉を吐くが、すでに遅い。
彼女の唇はバルカスによって塞がれてしまった。一応暴れてみるが両腕を押さえつけられロクに身動きも取れない。
そうして数秒後、傲慢な虎は陽気に笑うのであった。
「もう腹ぺこなんだよ。伝達は後回しだ。今はまず楽しもうぜ」
「きゃあ!?」
――村からほど近い森の中。
不意に、獣の雄叫びのような声を聞いて少女は身震いした。
この森は木々の間隔も広く、視界が大きく開けている場所だ。
目をやれば村を覆う背の高い煉瓦壁の光景を見ることも出来る。鎧機兵さえ乗れる分厚い壁だ。今も鎧機兵に乗って警護する自警団の青年の姿が見えた。彼もこちらの視線に気付いて軽く手を振っている。いざとなれば彼がラッパを吹いて危険を教えてくれるし、救援にも来てくれる。かなり安全な場所とも言えた。
だからこそ大丈夫だと思い、薪を取りに赴いたのだが……。
「もしかして、もうそんな近くにまで来ているの?」
薪を抱きしめ、ギュッと身体を縮こませる。
ここはまだ、女子供でも行き来できる普通の生活圏だ。
なのに、すでにここにまで連中の魔手が迫ってきているのだろうか……。
強い不安を胸に抱く。
と、その時、いきなり後ろからパキッと音が鳴った。
少女は瞳を見開き、振り返った。するとそこには――。
「……感心しないな。セレン」
一人の青年がいた。年齢は二十代になったばかりか。首元に白いスカーフ。上質なシルク服を着こなした一見すると貴族のようにも見える線の細い青年だ。
少女の知る人物だった。
「アルドリーノさん……」
青年の名はフランク=アルドリーノ。
彼女の村――ホルド村を治める村長の息子だった。
「セレン」フランクは肩を竦めて言う。「君も知っているだろう。今、僕らの村は危険な状況にある。近くの森といえ一人で出歩くのは問題だよ」
「……すみません」
少女――セレン=アルテシアは謝罪する。
「薪がどうしても必要になったんです。魔獣が見つかったのはずっと森の奥の方だし、近くには自警団の人もいるから大丈夫だと思って……」
「それでも油断は禁物だよ」フランクは言う。「今は必要以上に用心すべきだ」
「………はい」
正論なので彼女は何も言えなかった。
フランクは肩を竦めると、
「まあ、父さんはサザンの貴族にコネがある。まだ少し時間はかかるかも知れないが、騎士団はきっと来てくれるよ。もう少しの辛抱だ」
そう言って、強引に彼女の手を取った。薪がボロボロと地面に落ちる。
セレンは面をくらうが、フランクはニコニコと笑い、
「さあセレン。村に帰ろう。薪が必要なら後で使用人に持って行かせるよ。寒いだろう。僕の家で紅茶でも飲もう」
「え、い、いえ、私には用が……」
と、辞退しようとするが、フランクは「早く行こう」と告げるだけで聞き入れてくれる様子はない。彼はいつもこんな感じだ。何かにつけてセレンを誘う。
が、セレンも十六歳。彼の目的が分からない訳ではない。
栗色の長い髪に、澄んだ湖のような水色の瞳。素朴な服装とはかけ離れた整った鼻梁。プロポーションも相当なものだ。本人としては困惑するだけなのだが、セレンは村一番の美少女として有名だった。
要はそういうことなのである。
だからこそ対応に困ってしまう。自分にはすでに将来を約束した人がいるのだ。
(どうすればいいの?)
腕を掴まれ、セレンは困惑の表情を見せた。
例え事実を言ったところでフランクは聞いてくれないだろう。
この青年は穏やかそうな風貌とは違い、かなり強引な気性をしている。加え、女癖が悪いとも噂されていた。村長の権力でかなり放蕩三昧をしているとのことだ。
「さあ、僕の家に帰ろうか。セレン」
今も有無を言わさずセレンの腕を引いていた。
男性の腕力に、セレンはただ引きずられるだけだった。
その時、再び獣の遠吠えが聞こえた。
(大丈夫だよね)
少女は不安そうに森の奥へと目をやった。
そして恋人でもある幼馴染の姿を思い浮かべ、心の底から祈る。
(早く戻ってきてライク)
◆
――ギチギチギチ……。
赤い複眼に男女の姿が映る。
そいつは最初からずっと様子を窺っていた。
今も森から立ち去る二匹の姿を監視していた。
しばらくして二匹の姿は完全に消えた。
そいつは村を一望できる高い木の上から、何時間も巣の様子を窺っていた。
背の高い壁に覆われたその巣には類似種の群れが存在した。
そいつの視界が大きく開かれ、群れの様子が詳細に映される。
――類似種の総数は五百八十匹ほどか。
その内、雌は二百十五匹。これはとても重要なことなので何度も数えた。類似種は他の種族と違って区別しやすい。個体を数え間違えることもなかった。
しかし、折角時間をかけて数えたのだが残念ながら彼らにとって充分な数とは言えなかった。途中で失敗する場合も多いので出来ればこの倍は欲しかった。それに雌の中には老成体もいる。それは使えない。使っても失敗する可能性が高い。使うだけ無駄だ。実際のところ使えるのは百二十七匹だけか。確実に捕獲しなければ。
後は戦力だ。
総数的にはかなりいるがその気になればすぐに減らせる。別の巣を何度か襲撃したことがあるが類似種は基本的に弱い。一対一ならばまず負けないだろう。
だが問題は類似種が持つ鎧だ。あれは放置できないのでこれも数えた。九十二体。あれを使うと類似種はとても厄介になる。早々に潰さなければならない。
それと、類似種は時間を長くかけると仲間を呼ぶ習性があった。
雌なら有り難いのだが大抵は雄。それも鎧を持ってくる危険な奴らだ。
そちらの対処方法も考えなければならない。
――ギチギチギチ……。
そいつは再び歯を鳴らした。
すると、
――ギチギチギチ……。
――ギチギチギチギチチギチ……。
――ギチギチギチギチチギチギチ……。
同胞達も偵察を終えたのか、木の下に集まっていた。
彼らは彼らにしか通じない言葉を交わす。
そして揃ってその場を後にした。
――ギチギチギチギチギチ……。
――ギチギチギチギチチギチギチギチ……。
――ギチギチギチギチチギチチギチギチギチギチギチ……。
最後まで不気味な歯軋りを鳴らし続けて。
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