第214話 夜に吠える狂犬④
(……アシュ君)
その時、敵を一蹴したミランシャは、天空から地上の様子を窺っていた。
眼下ではイアンの乗る機体が絶叫を上げていた。
この空にも届く声はイアン自身のモノ。疑うまでもない。黒犬の部隊長は、遂にあの怖ろしい薬を使ったのだろう。
(どうしてそこまでするのよ、イアン)
仮にも顔見知りである青年の無謀な行動に、ミランシャは胸を痛める。
部下は全滅。《朱天》と《鳳火》は共に無傷で健在。イアンもまた未だ無傷ではあるが、もはや勝ち目がないの明白だった。
ここは撤退か、降伏するべき状況だった。
黒犬の部隊長を務める男に、それが判断できないはずもないというのに。
(何があなたをそこまで駆り立てるの?)
すべてを捨ててでも力を求める。
ミランシャには、どうしても理解できない感覚だった。
イアンの言う『獅子』である彼女は小さく嘆息した。
彼の心情はどうであれ、あの薬を使用した以上、イアンはもう手遅れだった。あとは苦しみの果てに死を迎えるしかない。
ミランシャは再び、眼下に視線をやった。
そこでは《朱天》とイアンの機体が対峙している。
すでに敵はイアン一人。二人がかりで挑めば、容易く勝利できる。
しかし――。
(それはダメね。騎士に相応しくないわ)
ミランシャは騎士の名家。ハウル公爵家の人間だ。
騎士として相応しくない行動は慎むように、骨の髄まで教え込まれていた。
幾ら嫌いな祖父の教育であっても、その教えに背くことは出来ない。
それに彼女自身、生真面目な弟同様に騎士道を重んじていた。
ミランシャは、ギュッと唇を噛みしめる。
本当は、こんな迷惑をアッシュに押し付けたくないのだが……。
「……ごめんね、アシュ君」
小さな声で愛しい青年の名を呼ぶ。
「今日だけは、あなたに甘えさせて」
◆
『ガアアアアアアアァアアアアアッッ!』
犬狼の鎧機兵――《ガラドス》が雄たけびを上げた。
そして地面を陥没させて跳び上がると、右の爪を振り下ろす!
対し、《朱天》は左腕を頭上にかざした。
――ガゴンッッ!
衝撃が《朱天》を襲う!
《ガラドス》の恒力値は二万三千ジン。間違いなく最上位に近い機体ではあるが、三万五千ジンを超えるアッシュの《朱天》には及ばない。
だが、恒力値で劣る機体とは思えないほど重い一撃だった。
ギシギシと漆黒の鬼の機体が軋みを上げる。
(……薬物の力で《黄道法》の練度が跳ね上がったのか)
アッシュは《朱天》の中で目を細めた。
操手が薬物で強化されようと、それで自機の機体性能が上がる訳でない。
だが、《黄道法》に優れた者は、少ない恒力値でも十全以上の力を引き出す事がある。イアンの機体の膂力が上がったのも、きっとそう言う事なのだろう。
(今のままじゃあヤバいかもな)
ガンッと《ガラドス》の腕を払いつつ、《朱天》は後方に跳んだ。
命を引き換えにしただけあって、イアンの力は侮れない。
『ぞうごんぞうしゅううううううう――ッッ!』
すでにまともな言葉も怪しくなった声でイアンは叫ぶ。
そして、彼の愛機は縦横無尽に両腕を振り回した。
技などではない。無軌道の攻撃なのだが、その速さが尋常ではない。
腕が振られる度に空気が悲鳴を上げ、突風が吹き荒れる。地に触れた爪が大地を深々と切り裂いた。まるで黒い嵐のような猛攻だ。
もはや腕は二本どころか、数本にさえ見える速度である。
これは、掠っただけも危険な攻撃だった。
『――チィ!』
アッシュは《朱天》を、さらに後方へと跳躍させた。
続けて追撃しようとする《ガラドス》を睨みつけると、
『舐めてんじゃねえよ。犬っころ』
鋭い声でそう吐き捨てつつ、速やかに愛機へ命じる。
『《朱天》! 《朱焔》を使うぞ!』
直後、《朱天》の鬼を彷彿させるアギトが、バカンッと開かれた。
そして、周辺の大気から莫大な星霊を吸収し、《朱天》の後方にある二本の角が、まるで鬼火のような紅い光を灯す。五万六千ジンもの桁違いの恒力値を手に入れた漆黒の鬼は、力強く大地を踏みしめた。
だが、《ガラドス》は《朱天》の変化などには構わない。
四足獣のように駆け抜けると、地面を削りながら右の爪撃を繰り出した!
対し、《朱天》も右の裏拳で腕を迎撃する!
――ズドンッッ!
黒い拳と爪は互いに衝突し、先程同様に拮抗するかのようにも思えたが、力負けしたのは《ガラドス》の方だった。
威力で大きく劣った黒犬は、弾き飛ばされた右腕に引きずられて、全身ごと後方に吹き飛んだ。犬狼の鎧機兵は宙空で無防備な姿を晒す。
(――よし!)
大地を強く踏み抜く《朱天》。
そしてアッシュは続けざま《穿風》で追撃しようとするが、
『――ッ!』
一瞬、大きく目を瞠る。
イアンの機体が肘から莫大な恒力を噴出し、宙空で軌道を変えたのだ。
瞬時に移動した犬狼の鎧機兵は、ガリガリと地面に四肢を着くと、唸り声でも上げそうな姿で《朱天》を睨みつけた。が、すぐに、
『がああああああァああああああああああああああああああァあああああああああああああああああああああああああァああああああああッッ!』
苛立つように、両腕をガンガンと地面に叩きつけていた。盛んに首を振り、何度も視線を《朱天》に向ける。明らかに理性が薄れている。
その姿は、もはや人ではなく狂った魔獣と言ってもよかった。
アッシュはそんな狂犬の様子を見やり、
(……哀れだな)
静かに唇をかんだ。
時が経つにつれて、イアンから理性が剥ぎ取られていく。
有能だった戦士から、ただの獣へと身をおとしていくのだ。
いかに力を手に入れようと、これではあまりにも無残な姿だった。
『ぞう、ごん、ぞうじゅうううううッッ!』
『…………』
アッシュの名を呼ぶ姿も哀れだ。これ以上は見るに堪えない。
せめて正気の内に殺してやるべきか。
(早めに決着をつけるか)
そう判断し、アッシュは《朱天》をおもむろに踏み出させた。
拳を固め、一撃でカタを着ける。
と、その時だった。
『わだじはああああ、おまえと、同じいィ「しじ」にいイィい――』
不意に、イアンが自分の願いを口にした。
アッシュの操る《朱天》は、ズシンと足を止めた。
そして漆黒の鬼の中で、白髪の青年は小さく嘆息する。
『……そうか』
そこで《朱天》はさらに拳を固めた。
『そんなんになってまで、お前は「獅子」に憧れるのか』
アッシュは狂った男を穏やかな眼差しで見据えた。
そして覚悟を決める。
正直、アッシュ自身は、自分が『獅子』なのだとは思ってはいないのだが、今はこの男に合わせてやるべきだろう。まあ、甘い考えかもしれないが。
(少しオトに感化されたかも知んねえな)
アッシュは苦笑を零した。
もはや死にゆくしかない男に、全力を尽くしてトドメを刺してやる。
それが、今アッシュに出来ることだった。
『なあ、イアン』
声が届くは分からないが、アッシュは男の名前を呼ぶ。
『本気で相手してやるよ。お前の言う「獅子」の全力ってやつでな』
言って、アッシュの愛機・《朱天》が両の拳を胸板の前で叩きつけた。
同時に残り二本の《朱焔》が輝きを放つ。恒力の全開放だ。
そして《朱天》は変貌する。
全身がじんわりと紅く輝き始め、瞬く間に真紅の姿に変わる。
グウオオオオオオオオオオオオオオオオオッ――!!
周囲の景色を歪ませるほどの高温を放つ真紅の鬼は咆哮を上げた。
恒力値・七万四千ジン。
これこそが、《七星》が第三座である《朱天》の最強の姿だった。
『ぎ、があ……?』
その威容を前にして狂犬も危機を感じたのか、重心を沈めて警戒する。
対し、《朱天》は、ズシンと一歩間合いを詰めた。
一拍の間。無言の対峙。
そして真紅の鬼の主人たるアッシュは、静かな声で宣告する。
『さあ、決着の時だ。イアン。かかってきな』
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