第七章 『獅子』と『犬』

第207話 『獅子』と『犬』①

「それじゃあ今日も行って来るね!」


 そう告げて、赤い髪が軽やかに揺れる。

 ミランシャは駆け足で、クライン工房の作業場を通り抜けた。

 続けて屋外に出ると、腰の短剣をすっと引き抜き、《鳳火》の名を呼ぶ。

 そうして転移陣から召喚される緋色の鎧機兵。

 彼女はこれから鉱山街グランゾまで赴き、食材を届けに行く予定だった。


「おう、気をつけてな」


「ん。行ってらっしゃい」


 と、作業机で工具を整理していたアッシュとユーリィが声を返す。

 対し、ミランシャは「うん!」と応えて、愛機で飛び立っていった。

 何とも騒々しい朝だった。


「ミランシャさん、凄く忙しそう」


 と、ミランシャが去った場所を見やり、ユーリィが呟く。

 すると、アッシュが「はははっ」と笑い、


「まあ、そうだろな」


 ――ガシャン、と工具箱の蓋を閉じて。

 整理した工具箱を片手で持ち上げながら、アッシュがそう呟く。

 なにせ、今日は久しぶりのグランゾ行きだ。

 ミランシャの愛機である《鳳火》でも半日はかかるような遠距離。早めに出かけるに越したことはない。


「今日は多分遅くなるそうだからな。晩飯はグランゾで済ますそうだ」


 アッシュは工具箱を近くの棚に仕舞いながらそう告げる。

 他の都市を往復する場合、ミランシャは外食することが多い。

 今回もそのケースだった。


「そうだったの?」


 ユーリィは棚の前に立つアッシュに視線を向ける。


「それじゃあ、今日の晩御飯は私とアッシュとオトハさんの三人だけ?」


「いや、悪りい」


 彼女がそう尋ねると、アッシュはかぶりを振った。


「実はな、今晩は俺も用事があるんだ。晩飯はオトと二人でとってくれ」


「…………え?」


 すると、ユーリィは露骨なまでに眉をしかめた。


「……オ、オトハさんと二人だけ……?」


 わずかにだが、言い淀んでしまう。

 一緒に暮らしてそろそろ長いのだが、それでもユーリィは、オトハに少しだけ苦手意識があった。心のどこかで一番警戒すべき相手と思っているせいかもしれない。

 何にせよ、オトハと二人だけでの夕食は少しハードルが高い。


「アッシュの用事は長いの? 少し遅くても待つ」


 と、言い出すユーリィに、アッシュは苦笑いを見せた。

 ユーリィの表情から、彼女の心情を察したのだ。


「相変わらず、お前はまだオトが苦手なんだな」


「……だって」


 と、ユーリィが言い訳しようとした時、


「まあ、そう言うなクライン。元々エマリアの人見知りが激しいのは誰よりもお前がよく知っているだろう」


 意外にもユーリィを援護する人間が現れた。

 二階から降りて来たばかりの黒いレザースーツを纏う紫紺の髪の美女。

 ユーリィが苦手意識を持つ、オトハ=タチバナ本人である。

 現在の時刻は午前八時半すぎ。平日ならば、彼女はすでに騎士学校に出勤している時間帯なのだが、今日は週末のため、騎士学校は休みだ。従って、教官であるオトハも休日であり、今日はのんびりと工房に滞在していた。


「少しずつ改善はしているさ。ここは気長に構えよう」


 と、オトハは微笑みさえ浮かべて言う。

 ユーリィは、そんな彼女をジト目で睨みつけた。

 オトハの言う『気長』とは、一体どれくらいの期間なのだろうか。

 一年? それとも十年か。

 そこまでは明言していないが、いずれにせよ、オトハが当分この工房に居座り続ける気なのは間違いないだろう。


(……やっぱりこの黒毛女は苦手……)


 ユーリィは肩を落とし、深々と溜息をついた。

 すると、オトハはユーリィの心情を見抜いたのか、優しげに目を細めて――。


「だがなエマリア。私は本当にお前とは親しくなりたいと思っているのだぞ?」


 そう言って空色の髪の少女を近付き、おもむろにギュッと抱きしめる。

 いきなりのことに、ユーリィは目を丸くした。


「オ、オトハさん……?」


 顔に豊かな双丘を押し付けられ、息が一瞬詰まる。

 それは、相も変わらない凶悪なまでの柔らかさだった。

 だがしかし、男なら誰もが羨むこの状況も、ユーリィにとっては非情な事実を突きつけられるものでしかなかった。

 すなわち、『持つ者』と『持たざる者』の圧倒的なまでの格差を。


(………む、むう)


 思わず内心で呻き、ユーリィは改めて現実を思い知る。

 世の中、どうしてこうも貧富の差があるのか。

 もはや世の無常を感じられずにはいられなかった。


(………ずるい)


 そして少女は不条理に唇を噛みしめる。


(メットさんといい、なんて卑怯なものを持っているの……)


 それからオトハの細い腰に両手をすっと回し、気持ち的にはへし折らんばかりに力を込める。が、それはかえって胸の大きさを思い知るだけの結果になった。


(……せめてこれの半分でも私にあれば……)


 自分には、恐らく将来的にも手にすることのできない強力な武器。

 いっそ横からはったたいてやろうか。

 苛立ちと虚脱感からそう考え始めた、その時だった。


「な、なあ、エマリア」


 ユーリィを抱きしめたまま、オトハがおずおずと語り始めた。

 その声は優しいのだが、どこか緊張しているようでもあった。


「私達はこうやって一緒に暮らしているのだ。傭兵にとって共に過ごす者は家族のようなものだ。私にとってお前は『妹』のようなものなんだ。お前から見れば私は『姉』か。いや、そ、そうだな。お前には母がいないから……」


 そこで、オトハは少し目を泳がせて本題を切り出す。


「な、なんなら、今日から私のことを『母』と呼んでも構わんぞ?」


「………………」


 ユーリィは無言になった。

 そして冷めた眼差しをオトハに向ける。

 なるほど。これが目的だったのか。要するにオトハは、最近『外堀』を埋め始めたミランシャに触発され、同様の行動に出ることにしたようだ。

 率直に言えば、最大の『外堀』であるユーリィを懐柔しようと考えたのだ。

 しかし、何とも甘い考えだ。

 ユーリィの『外堀』は、深くない。

 そもそも底などないのだ。まさに断崖絶壁なのである。


 ……胸の話ではないのであしからず。


「オトハさん」


 ともあれ、ユーリィは、オトハからすっと離れた。

 続けて、微笑みさえ浮かべて語る。


「大丈夫。確かに私に『母』はいないけど……」


 言って、ユーリィはアッシュの元にトコトコと近付いて行く。

 そして眉根を寄せる青年に腰を屈めるようお願いすると、彼の首筋に抱きついた。


「私にはアッシュがいるから寂しくない」


 そう言ってユーリィは、これ見よがしにアッシュに頬ずりする。

 まさに藪蛇とも呼べる結果に、思わず硬直するオトハ。

 一方、アッシュは苦笑を浮かべた。


「ははっ、嬉しいことを言ってくれるじゃねえか、ユーリィ」


 言って、ポンポンと少女の背中を叩く。

 それから、未だ硬直するオトハと、幸せそうに微笑むユーリィを順に一瞥し、


「まあ、何にせよ、いい機会だな。ユーリィ。今日は、仕事の方はもういいから、オトと一緒に遊びに行って来いよ」


「…………え?」


 アッシュの提案に、ユーリィは目を丸くした。思わず彼の首筋から手を離す。

 そして彼はにこやかに笑い、


「まだ二人っきりが苦手なんだろ? なら、メットさんやアリシアも誘ってさ。たまには女子組だけで親睦深めて来いよ。まあ、ミランシャはいねえけどさ」


 と、提案してくる。


「ア、アッシュ……」


 ユーリィは彼の名を呟いて、少し呆然としてしまった。

 この提案は、言わば恋敵を一堂に集めて親睦を深めろとも聞こえたからだ。

 オトハも同様のことを思ったのだろうか、少し頬を強張らせていたが、


「ま、まあ、たまには女だけの親睦会というのもいいかもしれんな」


 そう言って、アッシュの提案を受け入れた。

 それからアッシュの元に近付くと、


「では、早速出かけるか。エマリア」


 唖然とするユーリィの両肩を掴み、有無を言わせない様子で工房の外へ向かった。

 突然の展開にユーリィは「……え?」と困惑していた。

 すると、アッシュはおもむろに立ち上がり、ニカッと笑顔を見せて、


「おう。二人とも楽しんで来いよ。オト、ユーリィ。晩飯の方は、俺も適当に済ませるからさ。今日は外食でもいいぞ」


 もはや確定事項としてそう告げる。


「え、ちょ、ちょっと待ってアッシュ?」


 瞳を忙しく泳がせてユーリィはアッシュの名を呼ぶ。

 が、アッシュは気にもせず、ただ手を振っていた。

 するとその時、オトハはユーリィには気付かれないようこちらに目配せした。

 その片方だけ解放された紫紺色の瞳は、とても真剣なものだった。

 一瞬だけ沈黙が流れる中、アッシュは頷く仕草だけを見せる。

 オトハはふっと口元を崩し、


「では、行って来る」


 そう告げた。


「ああ。行ってらっしゃい」


 アッシュは、にこやかに笑って手を振り続ける。

 それからオトハに両肩を掴まれたユーリィに目をやり、


「ユーリィ。たまにはオトと仲良くしろよ」


「………むう」


 もはや予定の変更は出来ないと察したユーリィは、脹れっ面を浮かべる。

 ともあれ、オトハとユーリィは二人で出かけて行った。

 工房前で何やら口論っぽくなっていたが、それも束の間。

 オトハの愛馬に乗って二人は遠ざかっていく。

 アッシュはそんな彼女達の背中を静かに見送り、


「さて、と」


 白髪の青年は黒い瞳を細めて呟く。


「俺もちょいと出かけるか」

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