第149話 終演の幕開け③
時刻は昼過ぎ。アティス王国騎士学校においては昼休みに当たる時間。
オトハ=タチバナは、両手に取った二枚のレポートを順に目を通していた。
「……ふむ」
そして嘆息する。
そこは、アティス王国騎士学校のオトハ専用の教官室。
執務席に座るオトハは、おもむろに二枚のレポートを机の上に置いて――。
「中々いい出来じゃないか。要点をよくまとめてあると思うぞ」
ずっとこちらの様子を窺っていた二人の少女達に、そう賛辞を送る。
「「ありがとうございます」」
と、少女達――アリシアとサーシャは礼を述べる。
アリシアは直立不動で、サーシャの方は銀のヘルムを脇に抱え、執務机の前で待機していた。彼女達は今日、件のレポートを提出しに来たのだ。
「しかし、昨日の今日で仕上げてくるとはな……」
オトハはレポートに承認印を押しながら、苦笑を浮かべる。
期限は一週間だというのに気の早いことだ。
すると、アリシアとサーシャは顔を見合わせる。
「いえ、こういうのは記憶が新しい内に仕上げる方がいいと思いまして」
と、アリシアが告げ、それにサーシャが続く。
「ハルトの方も、ほぼまとめ終えているって言ってました。ただ、今はオニキスのフォローをしているみたいで」
「……そうか」
どこか気のない様子で返答するオトハ。
洞察力に優れるアリシアが、訝しげに眉根を寄せる。
「あの、オトハさん? 何かあったんですか? 気落ちされているようですけど……」
そう問われ、オトハはアリシアの顔をじっと見やる。
相も変わらず勘の鋭い少女に、思わず笑みを零しつつ、
「いや、何でもないさ。それより今日は少し私用があってな。悪いがこれから席を外すんだ。オニキスとハルトにはまだ期限はあるから頑張れと伝えておいてくれ」
「あ、分かりました。それでは失礼します」
そして一礼するアリシア。
サーシャも少し遅れてから「失礼します」と一礼した。
それから二人は並んで教官室から退室する。
一人部屋に残ったオトハは背もたれに寄りかかり、ふうっと嘆息した。
「やはりエイシスは勘がいいな。しかし……『フォロー』か」
ふと、サーシャの言葉を反芻する。
そう言えば、自分も昔はよくアッシュにフォローされていたものだ。
「まったく。私は何をやっているのやら……」
不意に十代の頃を思い出し、オトハは少し赤面する。
その時のオトハは、かなり頻繁に失敗ばかりをしていた。
中には相当危険な失態もあり、その都度、アッシュが助けてくれたのだ。
あの頃、父はよく語っていた。
『いいかオト。傭兵にとって十代後半が最も死亡率が高けえんだよ』
それは多くの傭兵を見てきた父の経験からの言葉だった。
父曰く、十代後半とは一番アンバランスな時期らしい。
言わば、子供と大人の狭間の時期。それがその年齢なのである。
心はまだ子供に近いというのに、身体は急激に成長して大人に近付く時期。
簡単に言えば、子供の心のまま大人の力を手に入れるのだ。
それは『力』を売りにする傭兵にとっては危険な兆候だった。
今まで出来なかったことが可能になることで、つい無茶なこともしてしまう。
特にオトハは戦闘の才能に恵まれたため、本当に無茶ばかりしてしまった。
とは言え、オトハは早めにそのことを自覚した。
ほぼ同じ年でありながら何やら老成したアッシュに散々迷惑をかけた手前、状況判断はしっかりしようと心掛けたのだ。
そうして自分は大人になった――と思っていのだが、
「……まさか、あんな失態をするとはな。私もまだまだ小娘だったということか」
昨日の夜の一件を思い出し、オトハは深々と嘆息する。
しかし、いつまでもここでグダグダしていても始まらないだろう。
オトハはサーシャ達のレポートを引き出しにしまうと、おもむろに立ち上がった。
「悔やんでも仕方がない。そろそろしっかりした大人に叱られにいくか」
そう自虐的に呟き、オトハは教官室を立ち去っていった。
◆
――その日、ユーリィは珍しく朝寝坊をした。
とは言え、時刻はまだ七時半。普段より一時間ほど遅いだけだ。
すでに一階の共用洗面所で顔を洗い、髪も整えてある。後は就寝用のラフな私服から、仕事着である工房のつなぎに着替えるのみだった。
恐らくアッシュはまだ寝ているだろう。時間的には充分余裕はある。
ユーリィは壁に掛けていた白いつなぎを手に取り、ベッドの上に置いた。
そして彼女は宿の自室で、おもむろに服を脱ぎ始める。
「……むう」
脱いだ服をベッドの上に置いて、下着姿になったユーリィは小さく呻いた。
今朝寝坊した理由は分かっている。
昨日の晩、怒り心頭のままベッドに入ったため、中々寝付けなかったのだ。
何度思い出しても腹が立つ。アッシュのあの態度はない。
(……アッシュはいつまでも私を子供扱いする……)
ユーリィはぶすっと少し頬を膨らませた。
彼女はもう十四歳。大陸の獣人族ならば結婚している者もいる年齢だ。
しかし、アッシュは未だユーリィを子供扱いする。
「……むむう」
ユーリィは再び小さく呻いた。
アッシュにとってユーリィは『娘』だ。その認識は揺るぎないものである。
だが、ユーリィはいつまでもそれを受け入れるつもりはない。
いつかは本当の家族になる予定なのだ。
「……だけど」
ユーリィは下着姿のままの自分の手や足をまじまじと見つめた。
そして、ふうっと嘆息した後、自分の慎ましい胸にそっと手を添える。
手のひらに完全に納まるその双丘は、全く存在感がないほどでもないが同世代にも劣るサイズだった。オトハ、サーシャには遠く及ばず、アリシアにも届かない。
「結構無理して食べているのに、どうして育たないの?」
がっくりと肩を落とすユーリィ。
それから、ふと亡き実母のことを思い出す。ユーリィと同じ空色の髪を持つ綺麗な女性だったと憶えているが、そのスタイルは実にスレンダーであった。
「…………ふう」
自分の将来性は暗い。
思わずユーリィは絶望しそうになった。
しかし、悲観していても仕方がない。何よりずっと下着姿ではそろそろ寒い。
ユーリィはまずはインナーシャツを着てから、つなぎに袖を通し始めた。
「どうせ色仕掛けはオトハさんか、メットさん級じゃないと、アッシュには通じない。無い物ねだりは意味がない」
キュッとつなぎの襟を整えて、ユーリィは呟く。
仮にも《双金葬守》の養女。戦況分析は意外と得意なのだ。
服を着替え終わった後も、ユーリィの独白は続く。
「そして、いくら強力な武器を持っていてもあの二人に本気の色仕掛けが出来るとも思えない。うん。色香は今のところ考慮に入れなくてもいい。私には私の武器がある」
ギュッと小さな拳を握りしめる。
「不本意だけど、もっと『娘』の立場を利用しないと……」
正直、この戦術は子供扱いして欲しくないという想いと矛盾している。
しかし、『娘』という立場はユーリィだけの特権でもあるのだ。
「とりあえず昨日の罰として『抱っこ』はしてもらう」
と、心に決めたユーリィは頬を軽く叩いた。
アッシュが時々朝にする気合を入れる仕種を真似たものだ。
ユーリィは気分を改めると、部屋を出た。
それなりに長い時間、悶々と考えに没頭していたが、流石にそろそろアッシュを起こしに行かなければならない。あまり出遅れると坑道が混み合ってしまう。
ユーリィは自室を出るなり隣の部屋に向かった。アッシュが借りている一室だ。
そしてドアの前に立ち、いつものようにノックをしようとした時だった。
「……それ、マジか?」
不意にドアの向こう――室内からそんな声が聞こえて来た。
何やら困惑したようなアッシュの声だ。
(……アッシュ?)
ユーリィは眉根を寄せた。
アッシュがすでに起きていることにも少し驚いたが、耳を澄ますと室内から別の男性の声も聞こえてくる。どうやら早朝から誰か客人が来ているらしい。
しかもこの声には聞き覚えがあった。
(この声って確か……)
部屋の前でしばし黙り込むユーリィ。
しかし、いつまでも立ち尽くすのも意味がない。
ユーリィは少しの間だけ迷ったが、結局ノックをすることにした。
すると、室内からアッシュの声が返ってきた。
「……ユーリィか?」
「うん。アッシュ、お客様が来てるの?」
と、ドア越しにユーリィが尋ねると、アッシュは即答した。
「ああ、けど入って来ていいぞ。ドアは開いてるから」
「……うん。分かった」
アッシュに言われ、ユーリィはドアを開けた。
そして部屋の中を見てみると、
「親方さん?」
「ああ、嬢ちゃんか。おはようさん」
室内には隻眼の職人が両腕を組んで椅子に座っていた。
アッシュが『親方』と呼んでいるこの街で知り合った人物だ。何度か一緒に食事をしたこともあり、ユーリィとも知り合いである。
少し人見知りの気のあるユーリィは、ぺこりと頭を下げるだけの挨拶をした。
それから親方の向かい側に目をやる。
そこにはベッドに腰をかけるつなぎ姿のアッシュがいた。
「……アッシュ。どうして親方さんが?」
と、尋ねるユーリィに、アッシュはいかにも困ったような表情を浮かべた。
「う~ん、それがなぁ……」
言って、頬をポリポリとかく。
「実はな。ちょっとトラブルが起きたらしいんだよ」
「……トラブル?」
アッシュの台詞にユーリィは眉をしかめた。正直、嫌な予感がする。
まあ、そもそも『トラブル』だとはっきり告げられているのだから当然か。
ユーリィは半眼でアッシュを睨みつけて問う。
「またアッシュが何かしたの?」
「いや、『また』って何だよ。そりゃあトラブルにはよく合うが、どっちかって言うと俺は巻き込まれ型であって、自分からトラブルを作る側じゃねえぞ」
この事実だけは譲れない。
そんな強い意志を込めてアッシュは反論する。
「……まあ、確かにそうだけど」
そう言われると、ユーリィも異論はなかった。
確かにアッシュが自分からトラブルを起こすようなことは滅多にない。
どちらかといえば、むしろユーリィの方がトラブルメーカーである。
ユーリィは一度親方の方を一瞥してから、アッシュの隣にポスンと座った。
そして、アッシュの横顔を見つめて尋ねる。
「ということは、また、ほぼ無関係な所で起きたトラブルに巻き込まれたの?」
「いや、そう言われると……きっついなぁ……」
ユーリィの言葉にアッシュは渋面を浮かべた。自分の体質のようなものとは言え毎回トラブルの方から近付いてくるのは、流石にうんざりしてくる。
すると、椅子に座っていた親方も頬をかき、口元を歪めた。
「……それは俺にとっても耳が痛い台詞だな」
そう呟く親方に、ユーリィは視線を向ける。
口ぶりからすると、今回のトラブルを持ちこんだのは彼らしい。
ユーリィは再びアッシュの方へと目をやった。
「結局、何があったの?」
「う~ん、ライザーの奴は知ってんだろ?」
と尋ねてくるアッシュに、ユーリィはこくんと頷いた。
ライザー=チェンバー。
黄色い髪が特徴的なアッシュと同世代の青年だ。陽気な人物であり、彼とも親方同様、何度か食事を共にしているので顔は知っていた。
ユーリィにとっては知人程度だが、アッシュにとっては友人と呼べる人間だろう。
「チェンバーさんがどうしたの?」
小首を傾げてそう訊いてくるユーリィに、アッシュはポリポリと頬をかき、親方の方へ目をやった。親方はライザーの名が挙がった時点でずっと渋面を浮かべている。
「……まったく。あの馬鹿は……」
親方は腕を組んでそう呟くが、ユーリィに対する説明自体はアッシュに任せる気なのだろう。それ以上は何も語らなかった。
その意志を感じ取ったユーリィは、アッシュの顔をじっと見つめた。
ユーリィの視線を受け、アッシュは小さく嘆息する。
室内にしばし気まずい沈黙が訪れる。
そして十秒、二十秒と時間だけが流れるが、このままでは何も始まらない。
アッシュはもう一度嘆息した後、おもむろに口を開いた。
「実はライザーの奴なんだがな……」
と、話を切り出す。ユーリィはただ黙ってアッシュの顔を見つめ、親方の方は渋面を浮かべていた顔に、ますます深いしわを刻んだ。
しばし奇妙な沈黙が部屋に訪れる。
そして更に数秒が経ち、ようやくアッシュは疲れ果てた顔でこう告げるのだった。
「どうも昨日の晩から行方不明になっているらしいんだよ」
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