第六章 終演の幕開け
第147話 終演の幕開け①
時刻は深夜。
夜の帳が最も深くなる沈黙の時間。
生活感があまりない寂れた一室にて、一人の男が黒い上着に袖を通していた。
「……よし」
全身を黒ずくめに揃えて、マウセルと名乗るその男は小さく気合の声を上げた。
黒服は使うなと通達を受けていたが、やはりこの装いは気が引き締まる。
自分が《黒陽社》の一員である自覚が生じるのだ。
「さて、そろそろ行くか」
そう呟き、マウセルは自室のドアを開けた。
そこは、アティス王国市街区の一角にある宿屋の二階。
マウセルが仮住まいにしている小さな部屋だ。
今この国にいる彼ら《黒陽社》の社員は、全員が別々に行動している。
万が一の事態を考えての対応である。
そして三日に一度、とある場所で落ちあい、それぞれの状況を報告する。
今日はその報告日だった。
「しかし、少々出遅れたかもな……」
眉をひそめてマウセルは呟く。
つい考えことに没頭していたため、約束の時間まであまり余裕がない。
部屋を出たマウセルは一階に降りると、宿屋の主人が使う裏口に回った。この時間帯でも酒場は開いているため、表の出口は使えないからだ。
そしてマウセルは足音を消して廊下の奥まで進んでいき、誰も見ていないことを確認してから、裏口のドアを開けた。
(……よし。誰もいないな)
ドアを開くと、すぐ外は細い路地裏だった。
周囲には目を光らせる野良ネコはいるが、人影らしきものはない。
マウセルは音を立てずに路地裏に出て、静かにドアを閉めた。
それから人目を気にしつつ、素早い足取りで闇夜を進む。
コツコツと自分の足音だけが聞こえる中、マウセルは再び思考に没頭した。
思い出すのは昼間のこと。
突如、彼の前に現れた一人の女のことだ。
(……《天架麗人》か)
忌わしきグレイシア皇国が誇る《七星》の一人。
あの《双金葬守》と共にこの国に滞在しているという情報は聞いていたが、まさか自分の職場にいきなり現れるとは。
(……結局、何が目的だったんだ、あの女……)
マウセルは月明かりを頼りに、暗い路地裏を歩きながら熟考する。
いくらなんでも自分達の計画が露見したとは考えにくい。
今回の計画は極秘だ。《七星》は厄介な敵だが、別に諜報のプロではない。
目立った行動をしていない以上、こちらの動きに気付く可能性は皆無のはずだ。
だというのに、何故あの女はあんな場所に現れたのか。
(それに……あの時の瞳は……)
マウセルは足を止めて眉をしかめた。
今思い出しても困惑する。『銀嶺の瞳』のことは有名で彼も知っている。
不可視の恒力を視ることが出来るという反則じみた能力だ。
しかし、あの時、《天架麗人》は、何故かその瞳を使ってマウセルの眼をじっと覗き込んでいたのだ。全く狙いが分からなかった。
噂通りの美貌も合わさり、正直恐怖さえ覚えたものだ。
(もしや、あの瞳には我々が知らないような他の能力もあるのか……?)
そんな可能性まで考えてしまう。
それを相談するためにも早く仲間と合流しなければ。
そして、マウセルが少し急ぎ足で再び歩き出した――その時だった。
「おや、奇遇ですね。マウセルさん」
いきなり名を呼ばれ、マウセルは硬直した。
愕然として前を見やると、そこには――。
「夜の散策ですか? それもお召し物まで変えて」
そう告げて、小柄な人影がコツコツと足音を鳴らして歩いてくる。
その人影は、紫がかった黒い髪と、同色の瞳を持つ女性の姿をしていた。
顔の右側を白いスカーフのような眼帯で覆い、抜群のスタイルを持つ肢体には黒いレザースーツを纏っている美女だ。その上には純白のサーコートを羽織っている。
そして腰には小太刀と呼ばれる反りのある短剣を帯剣していた。
月光を照らされながら路地裏を歩くその美女に、マウセルは息を呑んだ。
「オ、オトハ=タチバナ……」
「私の名前を憶えてくれたましたか。しかし、おかしいですね」
その美女――オトハは足を止めて告げる。
「私はフルネームを名乗った憶えはないのですが」
「――ッ!」
マウセルは再び息を呑んだ。
内心で舌打ちする。動揺のあまりつい失言してしまった。
どう挽回するか、マウセルが必死に考えていると、
「……ああ、別に言い訳はいいぞ」
不意にオトハが口調を変えて――いや、戻してそう告げる。
それから彼女は自分の眼帯を外し、サーコートの内側に入れた。
「なにせ、お前の素性はすでに視せてもらっているからな」
そう告げて、オトハは不敵に笑う。
マウセルは眉根を寄せた。台詞の意味が分からない。
「……それはどういう意味でしょうか。タチバナさん」
すでに無駄だと察しつつも、芝居を続けるマウセル。
すると、オトハは皮肉気に笑い、自分の右目にそっと触れた。
「私のこの『銀嶺の瞳』には恒力の流れを視る以外にも、身内にさえ秘密にしている特別な能力があるのさ」
と、前置きするオトハに、マウセルはわずかに緊張した。
まさしく、つい先程まで懸念していた内容である。
(……くそ、やはり他にも能力があったのか)
推測が確証に変わり、マウセルは内心で警戒する。
しかし、オトハはそんな警戒は気にもかけず、とんでもない言葉を続けた。
「能力の発動条件は相手の瞳を十秒以上見つめること。それにより私は大雑把にだが相手の心が読めるのさ」
「――な、なんだと!?」
愕然と目を見開くマウセル。が、すぐに動揺から立ち直ると後方に大きく跳び、懐の中の短剣の柄を握りしめる。そしてギシリと歯を軋ませた。
――まさか、そんな能力があろうとは……。
「……では、貴様は最初から私が《黒陽社》だと……」
と、マウセルが呟いたその時、
「……な、に?」
唖然とした声がもれる。
先程まで余裕の笑みを見せていたオトハの声だ。
彼女は大きく目を見開いていた。
「……《黒陽社》、だと? いや、確かにその黒服を見て嫌な予感はしていたが、貴様、本当に《黒陽社》の社員だったのか……?」
何故か今更そんなことを問い質してくる。
マウセルは訝しげに眉根を寄せた。そして数秒後――ハッとする。
「き、貴様! 心を読むというのはブラフか!」
「……当然だ。そんなデタラメな能力があるはずもないだろう」
堂々とそう告げるオトハに、マウセルは舌打ちした。
こんな簡単なブラフにはめられるとは……。
「くそ、《天架麗人》は小細工が苦手ではなかったのか」
「……まあ、確かに苦手だが、どうして敵も味方も私を単細胞扱いするのだ……」
と、悩ましげな溜息をつくオトハ。
しかし、すぐに表情を改めると、腰の小太刀を抜刀した。
白刃が月明かりに照らされ、妖しく輝く――。
「ともあれ《黒陽社》と分かった以上、予定変更だ。ここで捕らえ、ボーガン商会との関係、貴様らがこの国で何をしようとしているのか、洗いざらい吐いてもらうぞ」
「――くそッ!」
そう吐き捨て、マウセルも抜刀する。
そして周囲を見渡して考えた。彼らがいるこの路地裏はそこそこ広い。鎧機兵を呼び出すことも可能だろう。しかし、敵は《七星》の一角。《黒陽社》が誇る九大幹部、《九妖星》にも匹敵する怪物だ。鎧機兵戦になれば勝ち目などない。
(……ならば)
マウセルは小太刀を悠然と構えるオトハに目を向けた。
名うての傭兵と聞くが、その見た目は小柄な女。あの華奢な腕といい、恐らく腕力や体力においては自分の方が遥かに勝っている。
――勝機があるとすれば、対人戦しかない!
「――ふっ!」
短い呼気を吐き、マウセルは駆け出した。
先手必勝。敵の死角である右側から斬撃を繰り出す!
「……やはりそう来るか」
しかし、オトハは一切動揺しなかった。
流れるような動作で小太刀を横に振るい、マウセルの短剣を弾き飛ばす。
予想以上に重い斬撃に、マウセルは舌打ちする。
「くそッ!」
身体を反転させ、今度は短剣を横に薙ぐ。しかし、それもあっさり間合いを外され空を切った。それでも諦めず袈裟斬り、刺突と連続で繰り出すがかすりもしない。
完全に太刀筋を読まれていた。
「――チイィ!」
剣戟では届かない。マウセルは戦術を切り替えた。
手強い女傭兵から大きく間合いを取ると、左手を懐に入れる。
そして取り出したのは三本の投げナイフだ。
マウセルはタイミングをずらして、三本のナイフをオトハに向けて投擲する!
心臓と腹部。そして、恒力は視えてもそれ以外は視えないという右目。
それらの部位へと吸い込まれるようにナイフは飛翔した――が、
「甘いな」
――ギン、ギン、ギンッ!
オトハは小太刀を凄まじい剣速で振るい、すべてを弾き落とした。
あまりにも容易く防がれ、マウセルの顔から血の気が引く。
(こ、この女、これで本当に右目が見えていないのか!?)
鎧機兵戦より勝機があると思ったのは甘かった。
この女は対人戦においても――化け物だ。
「くそッ! この化け物女め!」
もはや勝機はない。
マウセルは大きく間合いが開いている今の間に踵を返して逃げようとするが、それよりもオトハの方が早かった。
「逃がさんぞ!」
そう告げて一気に間合いを詰めたオトハは、加速した途中で身体を反転。強烈な後ろ回し蹴りをマウセルの腹部に叩きつける!
「――ガハッ!」
小柄な体格といえど、全体重を乗せた一撃にマウセルの呼吸は止まった。
そして、ふらふらと後ずさった所にダメ押しをされる。
オトハは腰の鞘を引き抜くと一瞬で小太刀を納刀。そして鞘に納めた状態で小太刀の切っ先をマウセルの腹部――蹴りを加えた箇所に、寸分違わず叩きつけた。
「~~~ッッ!」
マウセルは目を見開いて悶絶する。
それから腹部を両手で押さえながら、両膝を地についた。
「……これで決着だな」
オトハはマウセルを一瞥しつつ、再び小太刀を抜刀した。
「さあ、お前達の計画を話してもらおうか」
そして切っ先をマウセルの喉元に向けて、そう促す。
すると、ようやく痛みがマシになってきたのか、マウセルは顔を上げ、鋭い眼差しをオトハに向けた。
「……仮にも私は《黒陽社》の社員だぞ。組織を裏切るとでも思うのか?」
「あっさり話すなどとは思っていないさ。とりあえずお前はここで捕える。後は時間をかけて吐いてもらうだけだ」
と、オトハは告げた。
捕えてさえしまえば後はどうにでもなる。
彼女は職業柄、尋問にも精通していた。
「私の習った尋問は少々酷だぞ。覚悟しておくんだな」
「……それは恐ろしいな」
と、オトハの脅迫そのものの台詞に、マウセルは苦笑で返した。
そして言葉を続ける。
「私は結構口下手でな。尋問されるがとても苦手なんだよ。だから一つだけ情報を開示するから見逃してくれないか?」
「……なに?」
その台詞に、オトハは軽く困惑した。
「どういうつもりだ。貴様ら《黒陽社》は忠誠心だけは強いのだろう?」
「それも自分の安全があってこそだ。そもそも我々の社訓は『欲望に素直であれ』だ。今の私にとって一番強い欲望は自分が助かりたいということなのさ」
そう嘯いてから、マウセルは告げる。
「では一つだけ。とっておきの情報を開示しようか」
「…………」
オトハは小太刀を突きつけた状態で沈黙していた。
正直、この男の思惑が読めない。しかし、情報というものにも関心がある。
が、悩んでいる内にもマウセルの言葉は続いた。
「実は……今、この国には《妖星》の一人がおられる」
「…………は?」
一瞬、オトハはキョトンとした。
「――な、なんだと!?」
そして大きく目を瞠る。
《黒陽社》における《妖星》とは一つの意味しかない。
「……《九妖星》がこの国に来ているのか」
「ああ、そうだ。それも最も苛烈な――『火』を司る《妖星》がな」
そう言って、不敵に笑うマウセル。
対するオトハは明らかに困惑していた。
――どうして《九妖星》の一角がこんな小国に……。
(いや、そもそもこの情報は真実なのか? 私に隙を作らせるためのブラフか?)
オトハは鋭い眼光でマウセルを睨みつけた。
小太刀の柄を握る手に、グッと力が込められる。
「……その話は本当か?」
「ああ、事実さ。万が一の場合はこの情報だけは開示してもいいと支部長ご自身の指示だからな。これを告げれば大抵の相手は動揺してくれるからな!」
マウセルはそう叫ぶと、後方に跳んだ。
すでにダメージは回復し、ずっと逃げる機会を窺っていたのだろう。
「――逃げられると思っているのか!」
オトハは舌打ちし、間合いを詰めようとした――その瞬間、
――ヒュン!
鋭い風切り音に、オトハは反射的に動いた。
マウセルとは別方向から襲い来る投げナイフを、小太刀を振るって叩き落とす。
「くッ! 新手か!」
オトハは鋭い面持ちでナイフが投擲された方向へと目をやった。
すると、そこにはこちらに見向きもせず逃走する黒服の男の姿があった。
(……くそッ! 距離が離れすぎている!)
瞬時にそう判断したオトハは、今度はマウセルに視線を戻すが、こちらはこちらで、すでにかなり離れた場所まで逃げている。
「……チッ!」
再び舌打ちするオトハ。どれだけ強かろうと彼女はやはり女性。
本気で逃げる男の足に追いつくのは難しかった。
「……してやられたか」
小太刀の柄を握りしめ、オトハは渋面を浮かべる。
先程のナイフは、マウセルが逃げる時間を稼ぐための牽制だったのだ。
もはや追走は無意味だと悟った彼女は小太刀を納刀し、右目の眼帯をつけ直す。
それから、わずかに肩を落として嘆息した。
「……仲間が潜んでいた……というより、駆けつけたといったところか」
わざわざこんな時間に出歩くのだ。どこかで仲間と合流する気なのは予想していた。恐らく定刻になっても合流地点に来ない仲間を案じ、探しに来たのだろう。
「……仲間は見捨てないか。犯罪組織の癖に」
オトハは夜空を見上げてから、かぶりを振った。
完全に失態だった。
そもそも今日はブラフで揺さぶって相手の出方を見るつもりだったのだ。
相手も騒ぎになることは避けるはず。情報を引き出した後は、のらりくらりと誤魔化す予定だった。それが、想像以上の情報が出てきて退けなくなってしまった。
こんなことなら確保も想定して第三騎士団にでも応援を頼んでおくべきだった。
「……本当に失敗したな。しかし……」
オトハはふうっと息を吐き、気持ちを立て直す。
反省すべきミスだが、いつまでも落ち込んでもいられなかった。手痛い失敗に終わったとはいえ、収穫が何もなかった訳でもない。
「……《九妖星》か」
オトハは渋面を浮かべて呟いた。
「……時間稼ぎのブラフだったのか。それとも……」
《黒陽社》が誇る最強の九大幹部。オトハが直接面識を持つのは《地妖星》ボルド=グレッグのみだが、恐らく他の八人も同等の実力を持つと想定すべきだろう。
もし《九妖星》の来訪が事実ならば、由々しき事態だった。
しかし――。
「だとすれば何が目的なのだ? 先のボルド=グレッグといい、どうして《九妖星》の連中がこんな小さな島国にわざわざやって来る……」
コツコツと石畳の路地裏を歩きながら、オトハは考える。
だが、どれほど熟考しても、情報不足で推測の域を出ない。
「……ふう」
と、嘆息し、オトハは足を止めて再び夜空を見上げた。
「結局、分かったことは《黒陽社》の社員が最低二人以上この国にいて、しかもボーガン商会と何かしらの繋がりがあるということか」
それだけでも警戒すべき事柄である。
今回の一件。この国の騎士団と、アッシュにも相談すべきだろう。
しかし、騎士団はともかく、アッシュは現在遠い街にいる。
どうしても連絡には時間がかかる。それがオトハに強い焦りを抱かせた。
「……くそ、奴らはこの国で何をするつもりなんだ……」
忌々しげに吐き捨てるオトハ。
彼女の問いに答える者は、どこにもいなかった。
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