幕間一 父と娘2
第137話 父と娘2
――時刻は午後八時すぎ。
家族揃っての夕食を終えた後のこと。
エイシス邸の二階書斎にて、一人黙々と読書に耽っていたガハルドは、不意に本をパタンと閉じて大きな溜息をついた。
そして、ドアの方へと呆れ果てたような視線を送る。
「……お前はいつまでそこで不貞腐れているつもりだ」
「……だってえェ……」
と、不機嫌顔で返すのは、ガハルドの一人娘――アリシア=エイシスだ。
制服姿から白いブラウスの上に茶色いベスト、紺色のタイトパンツという私服に着替えたアリシアは、数分前からドアに寄りかかり、ずっと不貞腐れていた。
あまり見覚えのない、右手に付けた銀のブレスレットをしきりに触っている。
「……ねえ、父さん」
アリシアは上目遣いで父を見つめた。
「半額まで貸すのなら全額出してもいいじゃない」
と、そんなことを言い出す。
ガハルドは、やれやれとかぶりを振った。
「あの生真面目なクライン殿だぞ。全額など言ったらきっと断るさ。私としては彼が受け入れやすいように配慮したつもりなのだがな」
「……う」
言われ、言葉を詰まらせるアリシア。
父の言い分も分かる。全額と言えば、確かにアッシュなら「迷惑はかけられない」と断るだろう。父はアッシュの顔を立てた上で最も有効な金策を提示したのだ。
ガハルドは手に持っていた本を書棚に戻して話を続ける。
「今回の件で問題なのは一ヶ月という期限だ。それさえなければ、クライン殿なら傭兵をするなりして金を工面できるだろう。金を貸すのに躊躇いはないさ」
そこで苦笑を浮かべて。
「まあ、心配するなアリシア。そう悪い結果にはならない」
「……むむ。けど、一ヶ月は長いわ。気軽に会いに行ける距離じゃないし」
と、傷心した表情で、アリシアは愚痴をこぼす。
鉱山街グランゾは、グラム島にある五つの鉱山街の中でも最も近い街だが、それでも馬で二日はかかる。気軽に行けるような距離ではない。
「……はあ」
思わず溜息をつくアリシア。
そもそも一週間かまってもらえない程度で気落ちしていたのだ。それが一ヶ月にもなれば気が遠くなるような長さである。
どうにもならない状況に、アリシアはもう一度、大きな溜息をついた。
(……ふむ)
そんな一人娘の様子に、ガハルドは複雑な表情をする。
分かりやすいほど落ち込んでいる一人娘。
娘の心境は、ある意味想定内ではあるのだが……。
(……ただ、これは予想以上に重症だな)
内心で小さく唸る。
アリシアが、あの白髪の青年に思慕を寄せていることには気付いていたし、反対もしなかったが、やはり父としては寂しいものだ。
「……アリシア」
ともあれ、一応釘をさしておく。
「休日を利用してグランゾに行こうなど考えるんじゃないぞ」
すると、アリシアは少しムッとした表情を見せた。
「そんなことはしないわよ。休日中に戻って来られないし。そんなことをしたら学生の本分を疎かにしているってアッシュさんに叱られるわ」
と、返答する娘に、ガハルドは少し驚いた。
良くも悪くも行動力のある娘なら、家出同然にグランゾに向かうのではないかと危惧していたのだが、まさか、こんなしっかりした言葉が出てくるとは……。
ガハルドはあごに手を当て、じいっと娘を見据えた。
「……? 何よ。私の顔に何か付いてるの?」
そう言って頬をこするアリシア。
対し、ガハルドは微かな笑みをこぼした。
(……ふふ。案外、海外研修も無駄ではなかったようだな)
きっと異国で多くのものを学んできたのだろう。
可愛い子には旅をさせろ、という格言は正しいのかもしれない。
と、そんなことをしみじみと考えていたら、アリシアが溜息をついた。
「……はあ、まぁいいわ。父さんに愚痴っても仕方がないし。読書の邪魔をしてごめんなさい。部屋に戻るね」
言って、ガハルドの返答も待たず、アリシアは部屋を後にする。
ドアの向こうからは遠ざかる足音が聞こえた。
一人書斎に残されたガハルドは、苦笑いを浮かべる。
「まったく困った娘だ」
そう呟き、読みかけの本を取ろうとするが、ふと手を止めた。
それから目をすっと細め、物想いに耽る。
「……グランゾ、か」
一言そう呟く。そして今度こそ本を手に取って――。
「……杞憂で終わればいいのだが、それはムシのいい話なのだろうな」
そんなガハルドの独白は、誰にも届かなかった。
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