第一章 出会い
第100話 出会い①
カリカリ、と。
その少女は帳簿に筆を走らせていた。
年齢は十四歳。毛先の部位のみ緩やかに波打つ空色の髪と、雪のような白い肌。
そして翡翠色の瞳を持つ、美麗な顔立ちの少女だ。
実年齢より二歳ほど幼く見える華奢な身体には、白いつなぎを纏っている。
彼女は卓袱台の前に座り、黙々と作業をこなしていた。
と、その時、その少女――ユーリィ=エマリアは手を止めて身震いする。
続けてキョロキョロと周囲を見渡す。何故だろうか。とても嫌な予感がしたのだ。
しかし、特に誰かがいる訳ではない。
いつもの畳に衾。『和』と呼ばれる様式の、見慣れた茶の間の光景だ。
ユーリィは小首を傾げた。
(……一体何だったんだろう?)
ともあれ、考えても答えは出ない。
ユーリィは作業に戻った。今彼女が行っているのは今月の収支まとめだ。
彼女の同居人。このクライン工房の主人であり、いずれは彼女の主人にもなる予定(願望)の青年はこの手の計算が非常に苦手なため、家計簿を含めて金銭の動きはユーリィがすべて管理していた。
「…………」
ユーリィは無言のまま、表情一つ変えずに筆を走らせる。
が、不意に少しだけ口元を綻ばせた。帳簿を両手で取り大きく掲げる。
そして、そこに記した数字を見て目を細める。
「……順調。この分ならオトハさんの借金も来月には無くなる」
そう呟いて、ユーリィは再び微笑んだ。
オトハ=タチバナ。
ユーリィのもう一人の同居人であり、目下もっとも警戒すべき人物だ。
なにせ、オトハはユーリィ同様、この工房の主人に想いを寄せているのである。
そんな彼女はこの国に来るなり、自業自得な失態をした挙句、多額の借金までして無一文になった。それを見かねた工房の主人が居候を許可したのだ。
ユーリィとしては面白くない。
新天地に築いた二人の愛の巣に潜り込んだお邪魔虫。
それが、オトハに対するユーリィの認識だ。
だがしかし、数ヶ月かけてようやく借金も完済の目処がついた。これでオトハにこの工房に居座り続ける大義名分はない。
やっと二人の時間が取り戻せる。相好も崩れるものだ。
「おっ、なんか上機嫌だな。ユーリィ」
その時、茶の間に一人の青年が入ってきた。ユーリィと同じデザインのつなぎを纏い、黒い瞳と毛先だけがわずかに黒い白髪が特徴的な、痩身の青年だ。
アッシュ=クライン。
ユーリィの想い人にして、この工房の主人だ。
かれこれ、六年以上の付き合いになる彼女の家族でもある。
アッシュは工房での作業が一段落ついたのか、卓袱台を挟んでユーリィの正面に胡坐をかいて座った。それからユーリィを見据えて、
「なんか良いことでもあったのか、ユーリィ?」
と、尋ねてくる。ユーリィはこくんと頷いた。
「今、収支計算をしていた。この分だとオトハさんの借金は来月には返済できる」
「へえ~、そっかあ。これでオトの奴も気が楽になんな」
アッシュはあごに手を当て、感慨深げに呟いた。
ちなみに「オト」というのは、アッシュがオトハに使う愛称だ。
「うん。これでオトハさんも大陸に帰って傭兵に戻れる」
普段あまり笑わないユーリィがにこやかな笑みを浮かべた。
が、それに対して、アッシュはキョトンとした表情を見せる。
「へ? 何言ってんだ? オトはまだ当分の間、大陸には戻んねえぞ」
「……え?」
今度はユーリィがキョトンとした顔をする。
「ほら、あいつって今騎士学校の教官のバイトしてんだろ。あれって一年契約なんだよ。だから借金がなくても、あと半年ぐらいはいるぞ」
まるで世間話のように、アッシュはとんでもないことを告げた。
ユーリィの顔が一気に青ざめる。
「えっ、借金が無くなったら帰るんじゃないの?」
「ん? そういや言ってなかったか? まあ、あいつ今の仕事かなり気に入ってるみたいでな。今の教え子達が卒業するまで勤めようか、とか言ってんだよ」
アッシュは腕を組んでそう宣う。
ユーリィはますます青ざめた。まさかあの女、あと二年以上も居座る気なのか。
「よ、傭兵稼業ってそんなに休んでも大丈夫なの?」
「まあ、個人で三年近くも休業したら致命的だが、あいつの場合は傭兵団所属だかんな。次の長期休暇に一度セラ大陸に戻って《黒蛇》の団長に休業報告するってよ」
と、アッシュは気軽な声で告げるが、ユーリィは忌々しげに歯がみした。
もはや確信する。あの黒毛女、完全に居座る気だ。
「まっ、オトがいると俺も色々助かるしな」
ユーリィの気持ちなど露知らず、アッシュは呑気に言う。
……まあ、ユーリィとしても、アッシュがそう思う気持ちも分からなくもない。
アッシュはユーリィの父親代わりだ。しかし、男性であるがゆえに、ユーリィのことで彼の手には余るような事態も少なからずある。
そんな時に、信頼できる女性であるオトハの存在は非常にありがたいのだろう。
アッシュは常に、ユーリィのことを第一に考えている。
だが、それでもユーリィは不満を隠せない。
(……むう)
ここは楽観視せず、何かしらの対策が必要なのかもしれない。
ユーリィは睨みつけるように、手に持つ帳簿に視線を落とす。アッシュが不思議そうに首を傾げているが、気にしないで考え込む。
(……やっぱりアリシアさんの提案は正しかった)
それは、今から約二ヶ月前のこと。
とあるホテルの一室で交わされた、ユーリィを含めた三人の少女達の密約。
その内の一人。アリシア=エイシスが、アッシュに対しあまりにも親しすぎるオトハを警戒して提案した「少女同盟」のことを思い起こす。やはりアリシアの進言通り、オトハは全力で対処しなければならない「敵」のようだ。
「……? ユーリィ? どうしたんだ? さっきから黙り込んで」
と、訊いてくるアッシュをよそに、ユーリィは緊迫した面持ちで顔を上げた。
早急に対処方法を考案しなければならない。
(うん。何としてでもオトハさんを封じないと……)
断固たる意志を込めて拳を握るユーリィ。
しかし、この時、彼女はまだ知らなかったのだ。
遥かなる大海原を越えて。
今まさに、オトハと双璧を成す人物が、刻一刻と近付いてきていることに――。
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