第29話 夜の女神と、星の騎士⑤
胸を押さえ苦しむユーリィを、アッシュは慎重に観察していた。
六年に渡り、《聖骸主》と幾度となく戦ってきたが、こんな反応は初めて見る。
もし、サーシャがジラールを倒したのならば、これは聖骸化が治まろうとする兆候のはずだ。
アッシュは、すぐさま《万天図》を起動させた。《ホルン》の無事と、《最強の鎧機兵》がまだ健在なのかを確認するためだ。
円形図には二つの光点が重なるように映し出されていた。
――良し。探査範囲内にいる。
片方の異常な恒力値からすると、これが《最強の鎧機兵》とやらなのだろう。
が、確認も束の間、二つの光点の数字は凄い速さで減数し遂には消えてしまった。
アッシュの顔から血の気が引く。まさか、相討ちなのか――。
動揺する心を抑え、今度は《星読み》で気配を探る。消えた光点と気配の位置を照らし合わせて――ホッと息をついた。消えた光点の位置に二つの気配があったのだ。
どうやらサーシャは無事のようだ。
心底どうでもいいが、ジラールも生きているらしい。
恐らく二機の鎧機兵が、相討ちとなって大破したのだろう。
(大破しちまったか《ホルン》。けどよくやったぞ。お前は主を守り通したんだな)
アッシュは心の中で 《朱天》の兄弟機とも呼べる機体に賞賛を贈った。
そして、
(……ありがとな、サーシャ……)
アッシュは笑みを浮かべ、心から愛弟子を誇りに思った。
全くもって彼女は凄い。あの子は途轍もない困難を乗り越えてやり遂げたのだ。
今まさに、最大の障害は取り除かれた。
これで推測が正しければ、ユーリィは元に戻れるはずなのだが……。
アッシュは、訝しげに眉をひそめた。
(……おかしい。なんでまだ星霊が現れねえ……?)
反応が消えた《最強の鎧機兵》。そして、何よりも眼前のユーリィの異変。
リセット現象が起きたのは疑いようもない。普通ならば、行き場を失くした星霊達が主人たるユーリィの元へと帰還するはずだというのに――。
何故か、一向に星霊達が現れる気配がない。
(何かが邪魔してんのか? だとしたらこの場合、原因になんのは――)
アッシュは、苦しむユーリィに視線を向ける。
『やっぱり、聖骸化かよ……』
と、その時、
「――――――――――――――――――――――――ッ!」
ユーリィが、再び言葉ではない怒号を上げた。
胸を押さえる右手から一気に闇が噴出し、淡い桜色のドレスは再び漆黒に染まった。明滅していた黄金の髪も、星の輝きを取り戻す。
『……結局、最初から無理だったってことなのかよ……』
アッシュは一瞬、絶望に歯を軋ませるが、
『いや、これは――』
再度ユーリィの姿を見る。
確かにドレスは闇夜に戻り、黄金の髪は輝きを取り戻した。
しかし、少女の顔には怒りが浮かんだままだった。
本来感情のない《聖骸主》が怒りを抱いている。確実に変化は来ているのだ。
後は、星霊達が戻って来てくれさえすれば、きっと――ッ!
『……ああ、そうかよ。いいぜ、《聖骸主》の力が邪魔するってんなら……』
アッシュは決断した。ユーリィの力を可能な限り弱体化させる。それしかない。
どのみちこのままでは埒があかないのだ。
ならば、少しでも可能性のある方に賭けるだけだ!
『ユーリィ! 今からお前の中の力を全部吐き出させてやる。覚悟しろよ!』
研ぎ澄まされた直感が告げる。ここが勝負時だ、と。
――もう余力などいらない!
『《朱天》ッ! 全力全開だ! すべての《朱焔》を開け!』
主の決意に、《朱天》が応えた。
両の拳を胸元で合わせるように叩きつける。響いた音はまるで号砲だ。
そして遂に、最後の《朱焔》に、真紅の鬼火が灯る。
同時にそれは、《朱天》の――最後の変貌の始まりでもあった。
唐突に《朱天》の全身が震えた。まるで猛毒に耐えるかのように、天を仰ぎながら小刻みに震えている。だが、変化はそれだけでは終わらない。
漆黒の機体の至る所から、わずかに発光する真紅の色が滲み出てきたのだ。
真紅は、侵食するように漆黒を塗り潰していき、瞬く間に《朱天》の全身を紅く染め上げた。
グウオオオオオオオオオオッ――!!
轟く《朱天》の咆哮。
それに呼応して真紅に染まった全身が、紅く紅く輝き始める。
業火の如き赤光を纏う――この姿こそが《朱天》の最後の変貌だった。
だが、これは《朱天》の機能などではない。これは欠陥なのだ。機体が内包する恒力に耐えきれなくなり、赤熱発光しているのである。
鎧機兵の動力源・恒力。それは恒星――すなわち、太陽の力だ。
限界を迎えた太陽は、赤く赤く燃えあがり、最後には灰になるという。
今の《朱天》の状態は、それに酷似していた。
極限に至った恒力は、《朱天》の身体を紅く紅く灼きつくし、最後には溜めこんだ恒力を爆発させるかのように放出する。そして、機体を自壊させるのだ。
それは、わずか一時だけの最強の力。
すでに《朱天》の機体には微細な亀裂が走り、その内部――操縦席は、加速的に気温が上昇している。破滅の足音は刻々と聞こえ始めていた。
恐らく、もって三分――。
それまでに決着をつけなければならない。
しかし、残された時間が少ないはずの《朱天》は何故かユーリィの元には向かわず、ただ静かに空を見上げていた。何かを考え込んでいるのか、微動だにしない。
不可解な《朱天》の態度に、ユーリィは警戒の表情を浮かべる。
そんな少女の様子に気付き、アッシュはふと微笑んだ。不謹慎かもしれないが、感情を取り戻しつつあるユーリィの姿につい嬉しくなったのだ。
ああ、願わくはあの子の笑顔も見たい。
だからこそ――。
アッシュはもう一度、空を仰ぎ見た。
『……安心しな、ユーリィ。俺はもうお前を傷つけたりなんかしねえよ。お前の力をそぎ落とすんなら、もっと分かりやすい物があるからな』
雲一つない晴れ渡った夜空。
そこには、ユーリィが創り出した満月が輝いていた。
『……お前の力の象徴。悪りいが――ぶっ壊させてもらうぞ!』
そう言うとアッシュ――《朱天》は大きく左足を踏み出し、右の拳を強く握りしめた。全身の人工筋肉が軋みを上げ、真紅の機体はさらに紅く発光する。
今の《朱天》の恒力値は七万ジンをも超える。――威力は充分。必ず届くはずだ。
そして《朱天》の両眼が光り、アッシュは静かに呟いた。
『――《大穿風》――』
静寂の中、ユーリィは、新たに驚愕の感情を取り戻した。
両目を大きく見開いたまま、自らの力の象徴である満月を見上げる。
――そこには、巨大な掌の跡が、深く刻みつけられていた。
まるで伝説の魔竜が現れ、握り潰そうとしたかのような裂傷。
たった今、《朱天》が放った恒力の掌低により打ちつけられた傷跡だ。あまりの威力に、もはや息を呑むしかない。
傷つけられた月は、緩やかに自壊を始めていた。ユーリィは苦々しく表情を歪めて、唇を強くかむ。あの状態ではもう長くはもたない。
――だったら。
ユーリィは後方に数度跳躍し、《朱天》から大きく間合いをとる。
これからやることに巻き込まれないための間合いだ。
彼女は《朱天》を指差し、滅びゆく月に最後の命を下す。
――標的はあれだ。
巨大な影に遮られた天を見上げ、アッシュは思う。
――ああ、やはりそうくるか。
『壊れた月を直接ぶつける、か。……そうだな、ならこっちは――』
鳴り響く雷音。《朱天》が後方に間合いをとる。
月の落下軌道から外れた場所で、真紅の巨人は再び天を見上げた。
ユーリィが目を細めて嗤う。――逃がしはしない。
少女はすぐさま月の軌道を変更しようと、天に右手をかざす。
――が、その直前、二度目の雷音が轟いた。
ユーリィは、思わず息を呑んだ。
さっきまで地上にいたはずの《朱天》が、いきなり月の上に現れたのだ。月が地表に接近していたとはいえ、その高さは、まだ五十セージルはあるというのに。
恐らく《雷歩》で跳躍したのだろうが速度も移動距離も先程までとは段違いだ。
まさに、真紅の《朱天》だからこそ出来る荒技だった。
ユーリィが舌打ちする。唯一攻撃出来ない場所に移動されてしまった。
一瞬、対応に迷う――が、すぐに次案を思いついた。
月の上にいるのなら、重力の渦で圧縮してしまえばいい。壊れた月が暴走する可能性もあるが、むしろ好都合だ。月ごとまとめて葬りさってくれる!
そして、黄金の少女は右手を再び月にかざして、
『なあ、ユーリィ。お前、この月を地面に落としてえんだろ?』
青年の声に、ピタリと指の動きが止まり、
『せっかくだから、おとーさんが手伝ってやるよ』
ユーリィは完全に硬直してしまった。
――手伝うって、一体何を……?
と、困惑している内にも、《朱天》は動き出す。
真紅の巨人は、ゆっくりと、右足を高く持ち上げて――。
そして、三度目の雷音が、天を切り裂いた。
小刻みに鳴動する大地。全方位に吹き荒れる突風。
濛々と砂塵が舞う中、少女はただ唖然としていた。
目を瞠り、前だけを見つめている。
彼女の前方――。そこには、無残に砕けた月が、地表にめり込んでいた。
衝撃で斜めに割れた月は巨大なクレーターの中から二割ほどだけ顔を出している。
まるで隕石の跡地のような光景に、ようやくユーリィは状況を理解した。
――《雷歩》による震脚。
あの真紅の巨人は右足の一撃で、月を地表に叩き落としたのだ。
直径二十セージルはある月の巨体を、それこそまるでビリヤードの玉のように。
冗談としか思えない惨状に、少女は茫然自失となっていた。
その時、ズドンッという轟音が空気を揺らした。
ビクンッとユーリィの身体が震える。
恐る恐る音のした方に視線を向けると……。
そこには、月という足場を失ったため、落下してきた真紅の巨人がいた。
クレーターのほぼ中央に落ちた巨人は、月の残骸を踏み潰しながら少女に近付いてくる。その姿はまるで《煉獄》から這い出る亡者のようで……。
――否、亡者などではない。
灼熱に身を焼かれ、それでも闘い続けるその姿は、まさしく!
――《煉獄の鬼》――
少女は今、完全に恐怖の感情を取り戻す。
――何なんだッ! このデタラメな怪物はッ!
恐怖から、一歩、二歩と少女の足が後ろへと下がっていく。
そんな彼女とは対照的に、《朱天》は悠然と歩を進めていた。
ユーリィは、ギリと歯を食いしばる。
取り戻しつつある心が告げていた。このままでは自分は消されてしまう。
喪失の感情を取り戻したユーリィは、最後の賭けに出た。
その小さな唇から大量の空気を吸い込む。
もはや、あの《鬼》に生半可な攻撃は通じない。強力な武器がいるのだ。
――そう。天にたゆたう雲さえも貫く伝説の武器が。
それを創るには全力を注ぎ込むしかない。
少女の意志に応え、半径五百セージル内の大気に宿るすべての星霊が、ユーリィの元へと集結する。その莫大な力を以て、彼女は想い描く――最強の武器を。
そして、少女の口から《願い》を込めた音が解き放たれた。
『……どうやら、最後の賭けに出たようだな。思い切りの良さは、お前らしいか』
間合いを詰めていた《朱天》の足取りが、ピタリと止まる。
少女の眼前で集束する光は、徐々にその輪郭を見せ始め――。
『……なるほど。《夜の女神》の神槍か。それもお前らしいな』
それは、《悪竜》さえも葬りさりし黄金の神槍――クラウドザッパー。
神話を蘇らせたユーリィは、無言で神槍を構えて《朱天》を睨み据える。
しかし、彼女は動かない。
恐らく星霊が安定するまでの十数秒間を待っているのだろう。
アッシュが双眸を鋭くする。――ならば、こちらも万全の態勢で臨むまでだ。
《朱天》が泰然と身構える。左足を前に、右足は後ろへと大樹の如く踏み下ろす。尾はしなり大地を打ちつけ、左腕はその掌を前へと突き出した。
腰だめに構えた右の拳が、景色を歪めるほどの高温を放つ。
《虚空》――。それが、この闘技の名前。
全恒力の七割を拳一つに集束させ、自壊寸前にまで圧縮させた破壊の剛拳。
一戦につき、ただ一度限りの《朱天》の切り札だった。
張り詰めた静寂が二人を包み込む。
そして――ユーリィが、遂に動き出す。
いきなり彼女は、黄金の神槍を空へと放り投げた。
天高く上昇した神槍は、くるくると回転しながら落下してくる。
そして石突がユーリィを、穂先が《朱天》を直線で結んだ時、少女は神速の回し蹴りを石突に叩きつけたのだ。
――神槍クラウドザッパーが、恐るべき速度で撃ち出される!
剛風で地を削りながら襲い来る黄金の神槍を、《朱天》は真直ぐに見据えた。
そして、真紅の拳が、螺旋を描くように動いて……。
――激突の瞬間、音が消えた。
無音の衝撃波が地表を破砕し、大気を走り抜けた――直後、轟音が蘇る。
いよいよ、最後の攻防が始まった。
魔竜の咆哮のような轟音が響く中、黄金の神槍と真紅の剛拳は拮抗する。
だが、それも長くは続かない。
最強の一撃による真っ向勝負で力負けしたのは――《朱天》の方だった。
両足が勢いよく火線を引き、その巨体ごと後方に押しやられる。その上、女神の槍が、巨人の拳に亀裂を刻みつけ始めていた。
明らかな劣勢に、アッシュが歯を軋ませる。このままでは終われない。
サーシャのおかげでユーリィを取り戻せるかもしれない所まで辿りつけたのだ。
――ここは何としてでも負けられない!
しかし、劣勢を覆そうにも切り札はすべて使い切っていた。
一体どうすれば、と気持ちばかりが焦っていく。
そんな時だった。
(――大丈夫だよ、諦めないで。あなたなら、きっとあの子を助けられるよ――)
その愛しい声に、ドクンッと鼓動が跳ね上がった。
まさかと思い、後ろへ振り向く。求めるものは――黒髪の少女の姿。
(――だから、頑張って。トウヤ――)
……しかし、そこには誰もいなかった。
ほんの一瞬だけ聞こえた、懐かしい少女の声。
それは、きっと極限時におけるただの幻聴だったのだろう。
自分が作り出した、あまりにも都合のいい幻だ。
けれど――。
(……ああ、サクヤ……)
それが、たとえ一瞬の幻だったとしても。
《彼女》の声は、サクヤのエールはアッシュの心に大きな力を与えてくれた。
『ははっ、そうだよな。こんな所で諦める訳にはいかねえよなッ!』
そしてアッシュは雷を呼ぶ。地表を削る両足、さらには尾からも雷音が轟き、黄金の神槍を真紅の拳が押し返す。――が、これでもまだ足りない。
『まだだッ! 力を――振り絞れ《朱天》ッ!!』
アッシュは再び渾身の力で雷を呼んだ。それは月を葬った《雷歩》の震脚だった。
大気を弾く衝撃は、《朱天》の左足に亀裂を一気に刻みつける。
しかし、その犠牲により生まれた雷の力は身体を通し、《虚空》の拳をさらなる高みへと押し上げる!
そして――神槍クラウドザッパーは、完全に停止した。
ビキビキビキビキビキビキッ――
黄金の神槍に亀裂が入る。その傷は穂先から石突へと、瞬く間に走り抜け、
――パキィィィン。
天に澄み渡る破砕音。遂に砕ける黄金の神槍――。
神槍の欠片は粉雪のように舞い、そして、風の中へと散っていった。
勝敗が決した瞬間だった。それを見届けたユーリィは、苦悶の表情を浮かべる。
黄金の髪はすでに輝きを失っていた。
闇夜のドレスも九割以上、元の桜色に戻っている。
虚ろになりつつあるユーリィの瞳は、ただ真紅の巨人だけを映していた。
無言のまま、向かい合う二人。
すると、不意に《朱天》が天を仰いだ。つられてユーリィも空を見上げる。
少女は目を瞠った。そこには夜空を埋め尽くすほどの光――百万にも届きそうな数の星霊がいたのだ。
それは《最強の鎧機兵》の《創造》に使われた星霊達。
主人たる黄金の少女の元へと還るため、この場に現れたのである。
『……本当に、お前の友達は凄い子だよ、ユーリィ……』
感無量にアッシュは呟く。ユーリィはもはや呆然とするだけだった。
そして、訪れる終焉の時――。
夜空に舞う星霊達が遂に動き出す。すべての光が螺旋の軌道を描きながら一点に収束し、ユーリィへと一気に降り注いだ。眩いほどの輝きが地表を照らす。
かくして、黄金の少女は影だけを残して、光の中へ消えていった――……。
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