第16話 黒い太陽④

「あらあら、サーシャ。何を泣いているのかしら」


 その優しい声に、子供部屋で一人泣いていた五歳のサーシャが振り向く。

 そこには、亜麻色の長い髪を揺らして部屋に入ってくる母の姿があった。

 母の顔を見た途端、サーシャは顔をくしゃくしゃと歪め、体当たりのような勢いで母に抱きついた。

 ゴフッと母――エレナの口から空気が漏れる。くの字に腰を屈め、腹部をおさえて小刻みに震えるエレナに、サーシャはおもちゃの剣を差し出した。


「おかーさまぁーー! おれたあああーー!」


「あ、あらあら。お、お母さんも、ちょっと折れそうよ……」


 親としての意地で何とか体勢を持ち直し、エレナはおもちゃの剣を手に取る。

 その剣は、まるで大の大人が全力で岩でも叩いたかのような折れ方をしていた。


(……この子は、一体何を叩いたのかしら?)


 エレナは溜息をつく。叩いたものが人ではないことを祈るばかりだ。


「ねえ! なおる?」


「……残念だけど、普通は直らないわね」


「えええーー! やどようーー! おとーさまにもらったのにーー!」


「……女の子に剣を贈るあの人の神経は、あとでみっちり教育するとして」


 エレナは微笑み、お転婆な愛娘の銀髪をとても優しく撫でる。


「そうね……。あなたにも、そろそろ一度見せておいた方がいいかしら。ねえ? サーシャ。その剣、直したい?」


 サーシャは一瞬キョトンとした後、すぐに満面の笑みを浮かべ、


「うん! なおしたい!」


「そう。――分かったわ。あなたの《願い》は聞き届けました」


 サーシャは、今でもその光景をはっきりと覚えている。

 それは、サーシャの思い出の中でも取り分け美しいものだからだ。


 母の亜麻色の髪が、煌めく星の如き輝きと共に、銀色へと生まれ変わる瞬間は。


 銀色に光輝く髪をなびかせながら、エレナはおもちゃの剣の折れた部位に、そっと左手を添える。

 すると、掌から光の粉が零れ落ち、おもちゃの剣は見事に刀身を復元させた。

 エレナは穏やかに笑い、直ったおもちゃの剣をサーシャに手渡す。


「なおったああーーー!」


 サーシャは絶叫と共に、復活した愛剣をブンブンと振り回した。


「ダ、ダメよ、サーシャ! まだ星霊が安定していないのよ! せめて二十秒待って!」


 エレナが慌てて注意するが、はしゃぐサーシャの耳にはまるで聞こえていない。

 サーシャの眼光がきらりと光る。その瞳に映るのは、子供用の小さな机の上に置いてある――おもちゃのヘルムだった。


「ひやああ!!」


「へ? サーシャ!? あなた、なんでヘルムに斬りかかるの!?」


 エレナが止める間もなく、サーシャはヘルムに襲い掛かった。

 おもちゃの剣が容赦なく振り下ろされる。


 ――クリティカルヒット。ベコンッと音を響かせたヘルムはくるくると回転し、哀れにも机の上から落ちてしまった。

 サーシャはにんまりと笑い、勝ちどきの声を上げる。


「どうだ! まいったか!! ……あれ?」


「……あらあら、無茶をしたから《願い》が消えてしまったようね」


 サーシャの愛剣は、折れた状態に戻っていた。

 今の衝撃で復元した刀身が消え、光に戻ってしまったのだ。そして、宙空で漂い輝く光はエレナの元へと流れ、その掌に吸い込まれて消えてしまった。

 サーシャの瞳が再び涙で潤んでくる。エレナは深い溜息をついた。


「……仕方がないわね。まあ、今のは還元されたみたいだし……。サーシャ。もう一度直してあげるから、剣を貸してくれる?」


「ほんと! またなおしてくれるの!」


 サーシャは輝くような笑顔で母の元へ駆けより、上目遣いで折れた愛剣を委ねた。

 愛娘のころころ変わる表情に呆れながらも、エレナはおもちゃの剣を預かる。そして再び彼女の髪の色が銀色へと変化した。

 それを見て、サーシャは興奮気味に尋ねる。


「ねえ!! おかーさま! それってなあに!!」


 すると、エレナは優しく微笑んで、


「うん。これはね――」



       ◆



 ――ジラール家別館の客室。

 天蓋付きの大きなベッドの上で幸せそうな寝顔を見せるサーシャに、ユーリィはふうと溜息をついた。……どうして彼女はこの状況で熟睡が出来るのだろう。


 このまま寝かしておいてあげたい気持ちもあるが、今は時も場所も悪い。

 ユーリィはぎしぎしと音を立てベッドの上に乗ると、その小さな拳をギュッと握りしめ、眠りこけるサーシャの腹部に振り下ろした。

 突然の衝撃に、サーシャの身体は跳ね上がった。


「――ゴフッ! な、何? もう朝?」


「……メットさんは、中々の大物。この状況でそんなボケが出来るなんて」


「ユ、ユーリィちゃん! ここは……」


 何故か痛む腹部をさすりながら、起き上ったサーシャはかぶりを振る。最後の記憶がはっきりしない。まるで思考に霧がかかったような感覚だ。


「大丈夫? メットさん?」


「あ、うん。大丈夫。それよりも、ユーリィちゃんの方こそ――」


 不意に硬直するサーシャ。ユーリィは訝しげに首を傾げた。

 サーシャは俯いたまま、沈黙している。


(……メットさん? まさか、どこか怪我を……?)


 不安にかられたユーリィは、サーシャの顔を覗き込み――ギョッとした。

 サーシャの瞳が、まるで宝を見つけた海賊のように爛々と輝いていたからだ。


「メ、メットさん……? 一体どうしたの?」


「ユーリィちゃん! か、可愛い! ううん! どっちかって言うと綺麗!! どうしたのそれ! どうしたのその服!」


「え、え、何? メ、メットさん、め、目が怖い……」


 怯えるユーリィを無視して、サーシャは空色の髪の少女の艶姿を堪能する。

 この時、ユーリィの姿は――その服装は普段のものと違っていた。

 一体いつ着替えたのか、ユーリィが、今身に着けている服は、その大きな袖が天女の羽衣を彷彿させる淡い桜色のドレスだったのだ。スカートのスリットからは、少女の白い素肌が見え隠れしている。彼女の綺麗な顔立ちとスレンダーな体型も相まって、今のユーリィには、まるで幻想のような儚さと美しさがあった。


「うわわああああーー!! 可愛いーーー!!」


 サーシャは我を忘れ、ユーリィを抱きしめた。

 押し潰さんばかりに強く抱きしめた。

 そのあまりの抱擁の強さにユーリィは自分の背骨が軋む音を聞いたが、サーシャはまるで気付かない。興奮のままに、より強く空色の髪の少女を抱きしめる。


「凄い! 元々可愛いけどここまで可愛くなるなんて! まるで妖精さんみたい!!」


「しょ、正気に戻って。メットさん」


「うーー無理! 後一日ぐらい、こうしていたい!!」


「お、お願いだから、やめて。一日もこの状態だと私の命がない。それに服ならメットさんも着替えさせられている」


「へ?」


 そこで初めて、サーシャは自分の服装に違和感を覚えた。

 いつもの騎士服ではない。自分もまた、ドレスを着ているのだ。

 両手から肘までを覆う白い手袋に、肩と背中を大きくさらけ出し、明らかに胸を強調するようなデザインの純白のドレス。抜群のスタイルを持つサーシャには、この上なく似合うドレスではあるのだが、元来奥手な彼女にとっては耐えがたいほど恥ずかしい姿だった。


 ユーリィのドレスのようにスリットが入っていないのは、せめてもの救いだったが、それでも羞恥心で顔から火が噴き出しそうだ。


「ななな、何これーーー!!」


 今更すぎるサーシャの反応に、ユーリィは深く嘆息し、


「その服や私の服、ジラールのメイドが着せたらしいの。主人の意向って言ってた」


 と説明する。その話を呆然と聞いていたサーシャだったが、台詞の中にあったジラールの名に、ようやく現状がいかに危険な状態なのかを思い出した。


 そして、自分にとって何よりも重要な装飾具が奪われてしまったことも――。

 青ざめた顔でサーシャは頭に触れる。

 いつもならあるヘルムの感触がそこにはなかった。


「メットさん……」


 サーシャの心情を察して、ユーリィが心配そうに声をかける。

 すると、サーシャは無理やり笑顔を作って微笑んだ。


「あ、あのね、ユーリィちゃん、私……」


 しかし、言葉が続かない。一体どう言えばいいのだろうか。

 キュッと眉を寄せていると、不意にユーリィが優しげな笑みを浮かべて、


「……大丈夫。分かってる。忌わしいけど《黒陽社》の二人もきっと気付いている」


「わ、分かってるって……?」


「メットさんが《星神》じゃないこと。多分、《星神》と人間のハーフ。違う?」


「な、なんで分かるの!」


 ユーリィは、少し困ったように笑う。


「《星神》の髪の色が変わるのは、《願い》を叶える時だけなの。なのにあなたの髪はずっと銀色のまま。それは《願い》を叶える力のないハーフの特徴。これは結構有名な話なの」


「……え……はは、そっか、そうなんだ……。この国以外では結構有名だったんだ」


 サーシャの表情に陰りが差す。思い出すのは幼少の頃。一体どれほどの数の人間が興味本位で願いを叶えて見せてくれと、自分にいい寄って来たことか……。

 表情を暗くするサーシャを見つめ、ユーリィは少しだけ考え込むように沈黙する。


 そして彼女にしては珍しい――とても不安げな口調で尋ねてきた。


「……メットさんは、《星神》が嫌い?」


「え?」


「ハーフの人は《星神》と間違われて、理不尽な目に遭うことが多い。願いを叶えろといい寄って来て、無理だと言うと偽物呼ばわりされる。だから……」


「……だから、嫌いになる?」


「……うん」


 サーシャは笑った。ユーリィのあまりにも的外れな心配がおかしくなったのだ。


「そんなことはないよ! だって私のお母様も《星神》だったのよ。私が《星神》を嫌いになることなんて、ありえない!」


 その言葉に、ユーリィは少し驚くが、すぐに安堵の表情を浮かべて呟く。


 ――ありがとう、と。

 それは心からの感謝の言葉だった。


 サーシャは本当に優しくて真直ぐな人だ。一緒にいると心がとても暖かくなる。

 その温もりを胸に抱きしめて、ユーリィは花開くように微笑んだ。


 サーシャに感謝と信頼、何より友情の証を示したい。

 そぅ強く思い、小さな両手を延ばしてサーシャの頬にそっと触れる。


「? ユ、ユーリィちゃん? どうしたの?」


「メットさん、ほっぺた怪我してる」


 言われてみると、右頬に痛みを感じる。

 ジラールともめた時にでも、傷ついたのだろうか?


「治したい?」


「え? そりゃあ、治したいけど」


「分かった。――あなたの《願い》は聞き届けた」


 その瞬間、サーシャは信じがたいものを見ることになった。

 ユーリィの空色の髪が、淡い光を放ち始めたのである。

 光は徐々に輝きを増しながら、髪の先端から頭頂部までを覆い尽くした。


 そして――空色は、金色へと生まれ変わる。


 淡い光を放つユーリィの金色の髪にサーシャは呆然と、ただ呆然と見惚れていた。

 そしてふと気付く。いつの間にか自分の頬から痛みが消えていることに。


「ユ、ユーリィちゃん……あ、あなた、まさか……」


 ユーリィは少し恥ずかし気に笑うと、自らを指差すように、頬に触れて答える。

 星の光を纏う、金色の髪を輝かせながら。


「――うん。私、《星神》なの」

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