第十話・倒錯的でも。
あるホテルの一室。ベッドの上には、身長の高い痩せ型の男がうずくまっている。
そしてベッドの前に立ち、男を鞭打つ女性がいた。赤いマニキュアを塗った手には、革製の一本鞭が握られている。
「痛い? ねえ痛い?」
呻くだけの男の耳に口を寄せ、女は尋ねた。それでもなお男が無言でいると、女は不満気に眉を吊り上げる。
そして、鞭を振り上げて強めの一撃を男の背中に見舞った。男の口から、悲鳴に近い声が漏れる。
「痛いかどうかって聞いてんのよこの駄犬」
「ご、ごめんなさ、すみません、痛い、痛いですっ」
男が涙声でそう言ったのを聞いて、女は満足気に頷いた。
犬居誠人の恋人は、ふたりきりでいるときに暴力的な衝動を表に出す女性だった。
恋人に会うたびに、犬居の身体には鞭によるミミズ腫れや引っかき傷、噛み痕などができる。サディストなのだと彼女は言ったが、犬居は「これが本当の君ならそれでいい」と、変わらず恋人を愛していた。
虐げられること自体に快感を得るかと言われれば疑問だが、好きな女性がそれによって悦びを得ていると思うととても嬉しい。犬居はそう思っていた。
その夜も犬居は女性の嗜虐的な欲望を満たし、解放されたのちベッドに横になっていた。
女性は愛おしげに微笑みながら犬居の髪を撫でる。犬居は身体中にじんじんと痛みを覚えながらも笑い返した。
「ありがとうマコちゃん。私マコちゃんが大好きよ」
「うん、うん……愛してるよ」
女性が犬居の腕に頭を預けるようなかたちで横になる。閉じられた瞼に、犬居はそっとくちづけを落とした。
数分後、照明のほとんどが消されたホテルの部屋には、二人の寝息だけが静かに響いていた。
明け方、首元に触れられる感覚に犬居が目を覚ますと、恋人が身体の上に覆いかぶさっていた。長い爪に赤いマニキュアを塗った手が、青白い犬居の首に這わされている。
「お、おはよう……」
「おはよ。ねえマコちゃん、……マコちゃん肌白くて綺麗ね」
にっこり笑う恋人。犬居がその表情に見惚れていると、彼女は犬居の首に回した手をしばらく肌の上で滑らせ、ゆっくり力を込め始めた。
「っ、……!」
犬居の表情が歪む。真っ白だった顔に血の色が浮かび、酸素を得ようと呼吸が激しくなった。
恋人の手は頸動脈を塞ごうとするように犬居の首を絞めている。紫色の唇から涎が垂れるのを見て、女は目を輝かせた。
「……素敵」
一旦手を離し、咳き込みながら起き上がろうとする犬居を手で制す。
そして、犬居が締めていた黒いネクタイをベッドの下から拾い上げて、笑みとともにそれを目の前に掲げてみせた。
ネクタイがゆっくりと首に巻かれている間、犬居は無抵抗だった。これは本当に死ぬのではないか、そう思わないでもなかったが、それに対して特に危機感も抱けずにいた。
鬱血した顔を見て楽しげに笑う恋人。愛しい人に悦びを与えて死ねるなら、何も問題はないような気がしたのだ。
恋人がネクタイの両端を引っ張り、再び犬居の首が絞まる。先ほどとは比べ物にならないくらいの圧迫感、酸素が欲しくなる感覚に、犬居は大きく口を開けた。
「わぁ……すごい」
嬉しそうな、楽しそうな恋人の声。それを聞いて、犬居は微笑もうと口の端を歪ませた。
ちゃんと笑みの形になっているかは自分では見えないが、なんとか伝わるようにと、犬居はその表情を保ち続ける。
やがて、犬居は自分の手足が痺れ出してくるのを感じた。
涙で滲んだ視界には、ぼやけた恋人が映っている。もう笑っているのかどうかもよくわからないが、絞める力を弱めようともしない様子を見れば、きっと楽しんでいるのだろう。
回らない頭でそれだけ判断すると、犬居は何もかもを手放すことにした。
女が男の首をネクタイで絞め始めてから、およそ三分。
額に汗を浮かべ、どこか恍惚としたような顔の女が、その細長い布を引く手を止めた。
首に絡みついた黒いネクタイをゆっくりとほどけば、白かった首にはくっきりと絞められた痕がついている。それを指でなぞり、女は小さく息を吐いた。
「マコちゃん……」
男は既に意識がなかった。呼吸をしてはいたが、その息は徐々に大きくなり、また小さくなっていく。やがてそれも止まり、しばらくしてまた小さな息を始めると言った具合だ。
本で読んだ、チェーンストークス呼吸とか呼ばれるものだろう、と女は思った。こうなれば助からないんだったか、どうだったか。
それでも女は救急車を呼びも何もしない。ただ男の髪を撫で、ときどきその頬や唇にくちづけるだけだった。
それからさらに十分が経過し、女が男の胸に耳をつけたとき、もう男の心臓は動いてはいなかった。
女は満足気に笑顔で頷き、ゆらりとベッドから身を起こす。そしてやっと、ホテルのフロントへ電話をかけた。
「もしもし。……一緒に泊まった彼を、殺したの。警察、呼んでもらえる?」
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