第八話・疑わしきは。
犬居誠人が恋人と同棲を始めたのは、つい二週間前のことだった。
恋人は嫉妬深い性格で、なにかと犬居を束縛したがる。携帯をやたらと覗き込み、犬居が外食するのは仕事の飲み会ですら嫌がる有様だ。
犬居本人は、そんなところも可愛いと特に気にせず、言われるがまま数少ない女性の知り合いの連絡先を消去したりしていた。
「僕には君がいてくれたらそれでいいよ」
少し窮屈さはあったが、それでも犬居にとってはさしたる問題ではなく、幸せに毎日を過ごしていた。
ある夜、犬居は仕事の残業で、同僚の女性とふたりきりでオフィスに残ることになった。
やがて残業は無事に終わり、犬居は女性を駅まで送ることにした。
「いいです、そんな」
「あ、い、いえ、あの、遅くなりましたし……夜道、危ないですから」
お前以上に危ない奴はいなさそうだ、という女性の視線に気づいていない様子の犬居は、半ば強引に同僚を駅まで送り帰路についた。
「ただいま」
マンションの部屋、その玄関は真っ暗だった。犬居は不思議に思いながら電気をつけ、息を呑んだ。
「……び、びっくりした」
包丁を持った恋人が、鬼の形相で犬居の目の前に立っている。包丁の刃先はまっすぐ犬居に突きつけられていたが、犬居はそれには特に目もくれず、恋人の顔だけを見て「ただいま」と繰り返した。
「どうしたの、そんな、こ、怖い顔して」
「…………」
恋人は黙ったまま、犬居を睨みつけている。犬居は困ったように笑んで、まず自分に思い当たる非を挙げることにした。
「ざ、残業で遅くなったことかな。連絡しなくてごめんね、でも」
「……残業?」
やっと口を開いた恋人は、包丁の刃先はそのまま、一歩犬居に近づく。
「女の人と飲んでたんでしょう」
「なっ、何を言うんだい。違うよ」
思わぬ言葉に手を振って否定する犬居だったが、
「誠人さんの嘘つき、じゃあ一緒にいたあの人は何なの!」
恋人が左手で犬居にスマートフォンを突きつけた。画面に表示されていたのは、先ほど駅まで送っていった女性と、並んで歩く自分の姿の画像。
おそらく、帰りが遅い犬居を怪しんで探しに来て、この写真を撮ったのだろう。
「こ、こ、これは、違う、誤解だよ」
しまったと思いながらも、何もやましいことはないので弁解しようとする犬居。だが、恋人は完全に、犬居がその女性と遊んでいたと思い込んでいる様子だった。
「何が違うの、こんなの浮気じゃない!」
「だから違うんだって……残業で、遅いから駅まで送っ、」
そこで、犬居の声は一旦途切れた。
腹に異物感。一瞬遅れて、焼けるような感覚。痛み、というより、熱いような。
「おく、って……それ、で」
犬居の視線が下がっていき、自らの腹に刺さった包丁のところで止まる。
じんわりと血が滲んで、広がっていく染み。包丁から手を離さないままの恋人は、わなわなと震えていた。
「嘘よ、ぜったい嘘! あたしが確かめてあげる、きっと誠人さんのお腹の中からは、ご馳走とかお酒とか出てくるんだ!」
目を血走らせて喚く恋人に視線を戻し、茫然とその表情を見ていた犬居だったが、やがてその右手にそっと自分の手を添えた。
「いい、よ。じゃあ、何も出てこなかったら、信じてね」
結論から言って、犬居の胃からは食べ物やアルコールの類は出てこなかった。
ごめんなさいと泣きじゃくる恋人。その髪を血まみれの手で撫でる犬居は、弱々しい笑みを浮かべていた。
「大丈夫、大丈夫だから。ね」
犬居の腹は大きく開かれ、もはや救急車を呼んでも間に合いはしないだろう。血の海となったマンションの玄関で、二人は最後のくちづけを交わす。
恋人の髪に指を絡ませていた犬居の手が、力を失い落ちる音がした。
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