薬師フィリアの魔法

鮎村 咲希

第1話

 突然聞こえた怒鳴り声に、フィリアははっと顔を上げた。はずみで乳鉢にゅうばち乳棒にゅうぼうを取り落としそうになり、慌てて空中で受け止める。貴重な薬草を無駄にしなくてよかった、と思わず息をつくと、ベッドの上の老女が声を出して笑った。

「相変わらず、見てて飽きない子だね。考えてることが全部顔に出るんだから」

「……すみません」

 からからと笑い続ける老女に軽く頭を下げ、湿布薬の準備にかかる。そこに再び大声が響いて、開け放した扉の外を黒い軍服の群れが走り過ぎていった。王直属の魔女狩り部隊、通称〈獅子の爪〉だ。

「やだね、騒がしくて。どうせまた罪のない女を追い回してるんだろ。怪しげな術で王様を病気にしただの、馬鹿な理由をつけてさ」

 常連患者の老女は、ベッドにうつ伏せになったまま辛辣な言葉を吐く。その腰に湿布をしながら、フィリアは老女の声が部隊員の耳に入りはしないかと気が気でなかった。魔女狩りを批判することは、それを命じている王を批判することに等しい。運が悪ければ、魔女の仲間として処刑される可能性だってある。

「ああ、ごめんごめん。あんたはこういう話、嫌いだったね。今のは忘れておくれ」

 フィリアの表情が曇ったのに気づいたのだろう、老女はそう言って明るく笑った。

 治療を終えた老女を戸口で見送ったあと、フィリアは中に戻って後片づけを始めた。

「……はあ」

 魔女狩りの話題が出ると、どうしても憂鬱になる。制度を批判して反逆罪に問われるのも怖いが、フィリアにはもっと恐れていることがあった。それは、自分が魔女の疑いをかけられることだ。ふだんは隠しているものの、フィリアには不思議な力がある。魔法と思われても仕方のないような力が。

「おじゃまするよ」

 背後からの声に、フィリアは二度目の溜め息を飲み込んだ。

「うっかりナイフで切ってしまってね。治療を頼めるかい?」

 戸口に立った中年男性は、左手の指から血を滴らせている。

「ええ、もちろん」

 フィリアはエプロンで手を拭くと、棚から止血作用のある薬草を取り出した。

 まだ十七歳の駆け出し薬師くすしとはいえ、この仕事は自分にとって天職のように思える。医師だった父の死後、田舎に戻るという母の反対を押しきってフィリアは一人王都に残った。

 元気になって帰っていく患者の姿を見るのはいつでも嬉しいものだが、なにより救われるのは、治療に集中しているあいだは「力」のことを忘れていられることだった。


 その夜、治療院の二階で寝ていたフィリアは、窓を叩く雨音で目を覚ました。やけに足元が冷たいと思えば、天井から染み出した雨滴がベッドを濡らしている。

「大変」

 急いでベッドから抜け出し、雨漏りしている箇所すべてにバケツや皿をあてがって回った。

 これで安心して眠れる、と再びベッドに潜り込んだものの、微睡みかけたところで、今度は別の物音が気になりだした。雨音に混じって聞こえてくるのは、荒い吐息。よろめくような足音に続いて、ドサリと鈍い音がした。

 目を開けて、耳を澄ます。雨音のほかに、もう音は聞こえなかった。このまま寝てしまおうかとも思ったが、考え直してベッドを出る。

 音は路地裏のほうから聞こえた。階段を下り、ランプを手に裏口の扉をそっと開ける。とたんに吹き込んできた雨が、ゆるく波打つ赤茶色の髪を濡らした。ぬかるんだ土の匂いが鼻をかすめていく。

 人一人がやっと通れるほどの路地裏は、光の届かない谷底のようだ。その暗闇に、ランプをかざす。黄色い明かりに浮かび上がったのは、路地にうずくまる人影だった。

「そんなところで、なにしてるの?」

 いつでも逃げ戻れるよう警戒しつつ、フィリアは人影に近寄る。

 若い男だ。青年と呼んだほうがいいかもしれない。長身を隣の店の壁に預けて、固く目を閉じている。黒い短髪はぐっしょりと濡れ、白い額に貼りついていた。

「ぐっ……!」

 青年はうめき声を上げると、苦しげに顔を歪めた。シャツの腹に当てた右手はタールのような液体にまみれている。雨に薄められて地面に滴り落ちる雫は、よく見ると赤っぽい色をしていた。――血だ。

 ゴボ、と青年の喉が鳴った。咳とともに、口からも鮮血を吐き出す。

「しっかりして」

 肩をつかんで呼びかけるが、青年は目を開けようとしない。雨に打たれた身体はぞっとするほど冷たかった。

 迷っている暇はない。フィリアはランプを地面に置くと、青年の腕を自分の肩に回した。


 薄暗い治療室は血の臭いに満ちている。ランプの光を頼りに、フィリアは青年の治療を進めた。どうにか部屋まで運び入れたものの、ベッドに載せることはできず、床に毛布を敷いてその上に寝かせてある。

 しかし、懸命に手を尽くしても、青年の容態がよくなる気配はなかった。顔はもう紙のように白く、刻々と生気が失われていくのがわかる。

 傷が深すぎるのだ、とフィリアは唇を噛んだ。鋭い刃物で切り裂かれた傷口からはとめどなく血があふれ、止血の薬草など役に立たない。父のような腕利きの医師でなくとも、青年の命が長く保ちそうにないことは見て明らかだった。

 冷えきった腕をさすり、口端にこびりついた血をぬぐってやる。呼吸は弱く、胸の動きでやっと息をしているとわかるくらいだ。

 そして、引いた波がそのまま戻らなくなるように、そのかすかな呼吸さえも止まった。色を失った青年の横顔に、馬車の事故に遭った父の死に顔が重なる。

「――駄目」

 無意識のうちに口に出していた。

「死んじゃ駄目……! お願い、目を開けて!」

 呼びかけに応えるかのように青年が咳き込んだのは、それからすぐあとのことだった。止まったはずの呼吸が戻り、白かった頬にほんのり赤みが差していく。睫毛の先が震えたかと思うと、ゆっくりとまぶたが開いた。

「ここは……?」

 かすれた声で問いかける。灰色の瞳は焦点が定まらないのか、ぼんやりと宙を見ていた。

「私がやってる治療院よ。あなたはひどい怪我をして、路地裏に倒れてたの」

「治療、院……? じゃあ、俺は助かったのか……?」

「手当てはしたけど、まだ安心はできないわ。とにかく今は、ゆっくり休んで」

 フィリアは微笑み、青年の身体に毛布をかけてやる。

「そうか、――ねなかったのか」

 青年はうわ言のようになにやらつぶやいていたが、やがておとなしく目を閉じた。さっきとは打って変わり、規則正しい寝息が聞こえはじめる。

 フィリアは笑みを消すと、くずおれるように床に座り込んだ。

「……やっちゃった」

 眠る青年を見下ろし、放心したように言う。

 血染めの包帯の上からかぶせた毛布に、赤い染みが浮き出てくることはない。あんなにひどかった出血が止まっているのだ。

 フィリアが使った、言霊ことだまの力によって。

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