東風吹かば

吾妻栄子

東風吹かば

 今日こそあいつにガツンと言ってやるんだ。

 窓の外に流れていく早春の風景を睨みながら彼は拳を握りしめた。

 この二年間、日曜が来る度眺めてきた町並みだ。

 ぼんやりしていても目に入る建物だけで次の駅名が分かる。

 何て変わり映えのしない土地なんだろう。

 いや、変わらないだけあいつよりはマシか。

 彼はこれから会う彼女との二年間を振り返る。

 初めは自分も夢中だったのだ。

 今となっては、それを認めるのもうんざりする気分だった。

 今じゃデートにはいつも遅れてくる、非常識な時刻にメールしてくる、最近少し太ってきた等々、あいつへの不満を数えていけば切りがない。

 惚れた弱みでそんな風に甘やかしてしまった俺も悪いんだろう。

 だが、それも今日で終わりだ。

 卒業を潮に彼女と縁を切ることにしたのだ。

 もう少し経てば今のアパートも引き払って新居に移るので、多少嫌な別れ方になっても後災は少ないと踏んでいた。

 いくら何でも別れ話に逆上して刃傷沙汰、とか次の住所まで突き止めて嫌がらせ、とかいうレベルの地雷を秘めた女ではないし、俺の方でも別れるからといってそこまで火種をばら撒くつもりはない。

 ただ、自分の心変わりに気付いてもいない怠惰な彼女に

「もう今日で終わりにしよう」

 と告げる場面を想像すると、彼は知らず知らず顔がにやけてしまう。

 今の俺はきっと、漫画のヒール役みたいな悪辣な顔つきをしているに違いない。


 階段をゆっくり降りて改札を通る。

 時計は五分前だ。俺も律儀りちぎだな。十分は待たされると分かっているのに。

 苦笑する肩に軽い衝撃が走る。彼は現場を押さえられた犯人の様に振り返った。

「こんにちは」

 顔の前で軽く手を振りながら、相手は挨拶した。

「ああ」

 肩を叩いた女が彼女だと気付いて、彼はたじろいだ。

「待った?」

 どうして今日に限って早く来てるんだ?

 彼は彼女に問い返したい。

 向かい合う相手は、化粧まで変えている。

「ちょっとね」

 いつもの淡いさくら色ではなく、くっきりと鮮やかな色の唇をした彼女が笑って腕を絡ませる。

 あかでもピンクでもない、ちょうどその狭間のべに色。

 こんな色彩の花をどこかで目にした気がする。

 彼が記憶を探ろうとしたところで、覚えのない香りがふわりと匂った。

 シャンプーも新しいのに代えたのだろうか?

 すぐ鼻先を流れる彼女の髪は、心なしかいつもより艶めいて黒い。

 彼はすっかり出鼻をくじかれたていで一緒に歩き出した。


 映画館に着くと、チケット売り場に客の姿は殆ど無かった。

 予定より早く着いたからだと思い当たったが、混雑して待たされるいつものパターンを想定していた彼は、裏切られた思いでチケットを手にした。

「いい席が取れて良かったわね」

 彼女の顔が微笑む。

 いつもは頬がうっすらともも色なのに、今日は唇以外はまるで血を抜かれた様に白い顔をしていた。

「ああ」

 彼は、拍子抜けする思いでロビーのソファに腰を下ろす。

 同時に、付き合いたての頃は化粧気がなくて彼女の顔が蒼白かったことを思い出した。

 いかにものんきそうな、子供っぽいピンク色の顔をしていると思ったが、それは、そういう化粧をしていたからなのだ。

「お茶、買ってくる」

 彼女は早足でロビー隅の自販機に向かう。

「ああ……」

 彼は一瞬ソファから上げかけた腰をまた下ろす。

 どうして今日に限って、そんな気を利かすんだ。

 いつもは俺がお茶と彼女のコーヒーを買いに立つのに。


 彼女と入れ替わる様に、彼と彼女よりもう少し若輩らしいカップルが入ってきて、

 彼の向かいのソファに腰掛けた。

「あと、どのくらい待つ?」

「前の回があと五分くらいで終わるはずだから……」

 ネットの情報をプリントアウトしたとおぼしき裏面の白い用紙をカップルの男がめくると、女も体を寄せて一緒にのぞき込んだ。

 こいつらはきっと付き合いだしたばかりなんだ。

 彼は二人の姿にそう当たりをつけてみる。

 しかし、人ってのは好き好きだな。ガリガリの栄養不良みたいな女じゃないか。

 カップルの男が手の甲で女の頬を撫でると、女は吹き出して男の背をバンと叩く。

 彼の視線には気付く様子もない。

 バカバカしい。彼は視線を自分の手に移した。

 冬の間荒らしてしまった手の甲はガサつき、中指の爪が少し割れている。

 どうせ、こいつらもすぐ冷めるだろ。


「お待たせ」

 頭上からの声に我に返ると、彼女が茶のペットボトルを差し出していた。

 もう片方の手に小さなコーヒー缶を持ち、薄べったい冊子を小脇に挟んでいる。

「ああ」

 彼は片手でペットボトルを受け取ると、もう片方の手でカバンを引き寄せた。

 こうして映画のプログラムを買ってやるのもこれが最後だな。

「プログラム、何円した?」

 この厚さなら、多分、千円はいかない。

 さっき、万札でチケットを買ったから、千円札ならたくさんあるはずだ。

 カバンの底を探りながら、彼は、茶を置いたズボンの膝が温まるのを感じた。

「いいよ」

 彼女はコーヒー缶のプルタブを立てると隣に腰掛けた。

 コーヒーの匂いに混じって、ふわりとまた先ほどの香りが鼻先に触れる。

 香水でも付けているのだろうか?

 その発想に彼は自分でギクリとする。

 俺はそんな物を買ってやった覚えはない。もしかすると……?

「いつも、あなたに買わせてたから」

 そこまで話すと、彼女はコーヒー缶に口を着ける。

 伏せた長い睫毛は、何か、それ以上の追求を恐れているかに見えた。

 缶の銀の縁に、彼女の唇が色の跡を小さく付ける。

 一口、また一口と、彼女が缶に口付けるたび、着けたばかりの痣(あざ)の様な跡が色濃く、大きくなっていく。

「どうして、今日はそんな……」

 彼が言いかけたところで、後ろから映写室のドアの重く開く音がした。

 暗い中から見終えた観客がぞろぞろ出てきて、二人をざわめきで取り囲んでいく。

「入りましょう」

 彼女は笑顔で促すと、空になったコーヒー缶をゴミ箱に入れる。

 捨てられた缶が箱の中で無造作に仲間とぶつかる音が響いた。

「分かった」

 彼はほとんど口を付けていないペットボトルをカバンにしまう。

 今さら、こいつに新しい男がいようが、どうでもいいじゃないか。


 ロビーのソファで二時間前に耳にした音楽と、出口に向かいながら聴く曲とで同じ旋律のはずなのに、なぜ二度目はこんなにも緩慢に感じるのだろう。

「何か納得できない」

 前方で文句を言っているのは、入場前にロビーで向かいに座っていた、新米カップルの女らしい。

「あんな終わり方にしなくてもいいのに」

 まるで、周囲の全てに聞かせたいかの様に、声高に不満を鳴らす。

 この女も早々に振られますようにと念じつつ、実は彼も同じ感想を抱いていた。

 最後のデートだから彼女の好みに合わせて選んだだけで、彼自身は特に見たい映画ではなかった。

 彼女ご贔屓のイケメン俳優が主役を張る映画だ。

 どうせ最後はハッピーエンドだろうと白々しく見守っていた。

 しかし、結末はそうではなかった。

 ラストシーンからエンドロールの黒い画面に切り替わった瞬間、虚を衝かれた気がした。

 黒地に浮かび上がる白い文字は嘲笑う様に緩やかに流れていく。

 それ以上正視するのに耐えず、彼は早々に席を立った。

 映画なんだから、ハッピーエンドにすりゃいいのに。

 どうせ、作り話なんだから、絵空事の夢物語なんだから、それらしくお花畑に徹しろよ。

 製作者に会いに行って文句を言いたい気がした。

「手袋、片方落としたわ」

 声に振り向くと、彼女の白い指先で、空の手袋が握手を求める様に揺れている。

「ああ、どうも」

 彼は素直に受け取って片手にだけ手袋をはめる。

 荒れた手と割れた爪を覆い隠すことに一抹の安堵を感じた。

 エンドロールの音楽は、まだ続いている。


 映画館の外に出た瞬間、日差しに目が眩む。空には雲一つ無い。

 彼は大きく息を吐いて、伸び上がる。

 リアルの世界はこんなにも明るいのだ。

「さて」

 彼は半ば自分に問いかける様に言った。

「これからどうしようか」

 夕飯にはまだ早い気がした。

 どこかこの近くの喫茶店にでも行こう。そこで……。

「帰りましょう」

 彼女の声がきっぱり響いた。彼は引っ張られる様にして道を歩き出した。

「今日はもう帰りましょう」

 大きく笑顔を作ってこちらに頷く彼女からまた芳香が飛ぶ。

 一体、何の匂いなんだ? 聞きたいが、なぜか口に出せない。

 二人とも口を閉ざして来た道を戻っていく。


 駅が遠くに見えてきた。

 青空の下、駅名を記した看板が妙に錆び付いて見える。

 駅の向こうに建つビルの窓が日差しを反射して鏡の様に光っている。

 吹いてくる風はひどく柔らかだった。

 連れ立って歩く彼女は黙していて何も言わない。

 彼は胸がどきつくのを感じた。言わなければならない。今日限りで別れたい、と。

「もうここでいいよ」

 彼女の声が耳を不意打ちし、彼の足も頭も急停止した。

 腕を掴んでいた彼女の手がするりと抜けた。

 彼女は俯いてまだ笑っている様だった。

「一人で帰れるから」

 別れる、と言うんだ。

 彼が自分をけしかけた瞬間、彼女の顔がぱっと上がった。

「今までどうもありがとう」

 向かい合う彼女の目から涙が一筋伝って、顎から転がり落ちた。

 さよなら、と小声で付け加えるや否や彼女は背を見せて走り出した。

 彼女の香りがふわりと彼の頬を撫でて去る。

 うめの香りだ!

 ようやく気付くと、彼は半ば口を開いたまま凝固した。

 視野の中で彼女の後ろ姿がどんどん小さくなる。

 黒い髪が日差しを照り返して輝きながら、背中で激しく跳ねて揺れる。

 あいつの髪はあんなに長かったか?

 唐突にそんな疑問が彼の頭を走った。

 そうする内にも、彼の目に入る彼女の姿は人だかりから覗く頭だけになり、

 やがてそれも人の波に飲まれて完全に見えなくなった。


 背後から、「とおりゃんせ」のメロディが流れてきた。

 前からも後ろからも多くの人が通り過ぎていく。

 近くのファストフード店からの油臭い臭気に混じって、アスファルトの匂いがする。

 もうここにいる必要は無いのだという事に急に思い当たって、彼はやおら歩きだした。

 駅の煤けた名前が目の中で大きくなっていく。

 俺はこれから帰るんだな。

 彼はぼんやり思った。

 この駅の構内に入って、切符を買って、電車に乗って……。

 足取りは加速するのに想像は次第にスローモーションになる。

 電車に乗って一時間もすれば俺の最寄りの駅に着く。

 電車を降りて、改札をくぐって、駅の北口を出て……。

 いつの間にか、彼は手袋をはめた片手を鼻に押し当てていた。

 視界がぼやけて揺れる。

 ドアを閉めて、鍵を掛けてしまえば、今日はもう、何もしなくていい。

(了)

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東風吹かば 吾妻栄子 @gaoqiao412

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