FACTOR-2 異形(A)
1
雨が降っていた。それは、視界がほとんど遮られてしまうほどに。
小高慎太郎の運転する車は雨に打たれながら、道を走る。
ワイパーでフロントガラスについた水を切れども切る分量よりも付く水の量が多いせいで、走らせれば走らせるほど視界が悪くなっていく。
(くそ。なんだ、この雨は)
嫌な雨だ。
まるで、あの日を想起させるような――――。
「ナッ!?」
小高は急ブレーキを踏んだ。
ジャジャーッと強い水しぶきがタイヤから立ち、しばらく地面を滑走した後突然見えた人影の前ギリギリで停止した。
「なんだよ」
酔っぱらっているのだろうか、と、クラクションを一回鳴らす。
だが、その人物は動かない。
直接呼んだ方がいいかと、車のヘッドライトの明かりを最大にしたあと車から出た。
「おい、あんた。ここは車道だぞ、歩道歩けよ」
と、小高はその人物に歩み寄る。
「おい、あんた――」
近くに来て分かった。
その男は、こちらを向いたままであった。視界に捉えるのは、小高自身のみであるというように。
その理由が、はっきりと分かった。
「あっ……アッ……――!」
「なんで……」
雨に濡れ、頬を伝う雨粒がまるで涙のように見えた。
神原雄司のその怒りと悲しみが混じった、静かな表情を見て小高の背筋が凍り付いた。
その目の前の衝撃に思わず腰を抜かして、立ち上がることもできなくなる。
「なんで、僕たちがこんな目に遭わされた……」
「お前は……ッ、死んだ……ッ!!」
「お前は、何で醜いんだ」
「ヒッ――、カハッ――!」
地を這うように、すぐさま自分の車に近づいてドアを開き、しがみつくように運転席に座ってハンドルを握る。
これは幻だと、小高はアクセルを思いっきり踏み、雄司に向かって車を走らせた。
夢ならば、幻なら、何事もなく――。
「お前は、ほんとに――」
雄司の怒りに満ちた眼が、フロントガラス越しに小高の怯える表情を映す。
「醜い……ッ!!」
「うぁぁあああああああああああっ!!」
小高の殺意をもった車が、雄司目前まで迫る。
「ゼァアッ!!」
バガンッ!と言う爆音が車内にまで響く。
雄司が振り下ろした拳が、車のボンネットを凹ませ、バンパーを潰し、車の走り事態を止めてしまったからだ。
「グルァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッ!!!!!」
雄司の絶叫が夜闇に、天に轟く。
ザーザー降りになっていた雨粒の音さえ、かき消す。その姿、まさに獣。
瞬間、雄司の体から火花のような飛び散り、瞬く間にその姿は異形へと作り替えられる。
雄司の衣服をも飲み込んだその変容。
馬を模したそのフォルムに、額から延びる一本の角。ユニコーンを思わせるその異形は片手一つで逃れられぬ死を破壊した。
「うぐっ!?」
雄司の放った一撃で車は壁に激突したような衝撃を受け、運転席のエアバッグが開いた。
「くそっ、クソッ!」
何度も何度もアクセルを踏んでも車は進まない。
タイヤが地面をこするスキール音も、水たまりをはじく音も聞こえない。
先の一撃でエンジンが破壊されたのだ。
「ヒッ――!?」
異形となった雄司の眼からはなお、怒りが垣間見えた。
「あがっ――あっぁぁっ!!」
逃げなければならない。
殺される。
小高はすぐさま車から飛び出して身を翻して、雄司から逃げ走った。
その背をみる雄司は、怒り半分、哀れに見えた。
(俺は、こんな奴に殺されたのか)
(俺は、こんな奴に全てを奪われたのか)
自分自身の、この身この境遇が。
その哀れな思いは、また、怒りと憎しみに変換された。
「グゥッァアアッ!!」
人間の走る早さなどたかがしれていた。
異形となった雄司が足を踏み出し、走り出す数秒ほどで、小高の肩を掴んだ。
「うあっ!?」
雄司が、掴んだ肩をほんの少し引っ張るだけで、小高は足を滑らせて仰向け倒れた。
雄司はそのまま獣のようなうめき声を出しながら小高の首値を掴んだ。
「がっ……あっ、がっっ。は、離せッ……!」
喉を絞められ、満足に声を出すこともできない。
「お前が、悪い」
から始まる、雄司の怨嗟。
「お前は悪い……ッ!!」
「わ、悪いのは……ッ!お前の親だ……ッ!」
その、小高の言葉から始まるささいな抵抗。
「お前らが……ッ!親父を、殺した……ッ!悪いのはお前等だ……ッ!」
「…………」
「それでも、俺が悪いのかよッ!」
「そうだ……」
その答えはすぐに出た。
「きっと、そうだ」
雄司の腕から手の甲にかけてが変形し、それは先端のとがったブレードを形成した。
「ヒッ……、あ、、やめ――――ッ」
刹那であった。
雄司はブレードを小高の喉元に突き立て、貫き、天に掲げた。
雷光に照らされた影が、地面に映り込む。
2
遅いと思った。今日は仕事がすぐ終わると言っていたのに。
「慎太郎なにしてんだろ」
今日着ていく服は決まった。インターホンが鳴って着替えてすぐ出かけられる。
もうすぐ着くという時は連絡をしてくれるはずだが、その連絡がいっこうに来ない。
玄関を出て車が来ているかを確認したいが、雨が土砂降りで外にでるのは少しはばかられる。
「ん、んぅ……」
時間がたち、ほんの少し眠気を感じ始めた。
コーヒーでも飲もうと台所に入り、棚からカップを取り出し――――。
「え……?」
すぐ後ろに何かがいる、と、島崎は振り返った。
「なんだ、慎太郎かぁ。びっくりしたぁ……」
空き巣にでも入られたと思っていたが、そんなことはなかったので安心して危うくカップを落としてしまいそうであった。
「っていうか、連絡するって言ったじゃん。なんでこんな遅くなったの」
と言う、島崎の問いに対する小高の答えは無言。
その表情を見ることが出来ない。頭を垂れて前髪で隠れているからだった。
「ねえ、ちょっとどうしたのさ」
と、ちょんと触れた時であった。
指が、小高の肩に沈んだ。
「えっ――」
刹那、小高の体から火花が飛び散り、出来物がつぶれる音を何度も出しながら溶けはじめた。
「あっ、ぁあ、イヤぁああああああああアアアアアアッッ!!」
絶叫。目の前にいる、腐臭を放っているのは小高慎太郎なのか。目の前にある現実は夢か。島崎にそれを考えられるほどの気の余裕はない。
どろどろに溶けた、赤い血が混じった液体はまるで意志を持っているかのように広がり続け、島崎の方へと寄ってくる。
「イヤッ、イヤッ、来ないでえッ!!」
液体から逃れるように後ずさりしながら台所のもう一方の出入り口から出て行き、ベランダの窓から外に飛び出す。
雨に打たれた地面を踏むと冷たさが足の裏を突き刺してきた。
だがそれを気にする気の暇は、いまの島崎にはなく、一刻も早く家から離れたかった。
「……ッ!?」
ベランダから出て玄関のところにさしかかろうとしたとき、人影が一人。
パーカーのフードをかぶっていて顔はよく見えない。
だが、視覚ではなくそれ以外の感覚で感じ取った。この男を。
「雄、司……?」
「ああ……」
島崎がその男の名前を呼ぶと男は、雄司は島崎を見る。
「何で……。何でよ!!」
「全部知ってるよ、俺は。信じてたのに……」
雄司の表情は悲しみでつぶれそうで、頬を伝涙が雨粒に混じっていた。
「何でかな。何で俺たちがこんな目にあわされるんだよ。何でだよ。俺は何かやったのか。そんなにしてまで俺たちを殺したかったのか……って」
雄司の怨嗟にみちた悲しみの言葉。繰り返される「何で」にすら答えられない。
罪の意識などなかった。雄司よりも小高の方がいいと思ったから。小高を愛することになったから彼に尽くそうとしたから。すべては彼のために――――。
「あがっ……!?」
雄司は一歩島崎に近づき、彼女が後ずさりするその前に彼女の首根を掴んだ。
「がッ……アッ……!?」
「アイツはさ……俺の父さんが親を殺したから悪いって言った……」
「がッ……ハッ!」
「綾も、そう思ったんだろ。そう思ったから、あの日僕たちが家族で言った場所を教えたんだ、アイツに……」
雄司の、首を絞める手は一向に弱まる気配がない。際限なく強くなり、首元からミシリと音が聞こえ始めた。
「カッ……――」
島崎の首が握りつぶされた。
3
「あなたの名前、
気持ちが少しずつ落ち着いてきたところで、近くのファミレスで夜を明かそうとしていた。
どうも空模様が怪しく見えてきたものなので、外にはいたくないのだ。
「見んなよ、勝手に」
翔はすぐさま財布を懐にしまい、小さく舌打ちを打った。免許証が目に見えるところにでもあったのだろう。
「奢ってくれる?」
「誰が」
そもそもお金が少ない。一品ぐらい奢ることは出来るがそもそも初対面の人間に奢ってやる義理など、翔にある筈も無かった。
翔自身が食べるものを決めたので、呼び出しボタンを押した。数秒してから、女性の店員が翔たちが座る席に来た。
「いらっしゃいませお待たせしました。ご注文お決まりでしょうか」
「まつたけ雑炊一つと日替わりスープ一つ」
「一つずつでよろしいですか?」
「はい、かしこまりました」
翔の受け応えを聞き端末を打つ店員。
向かいの席に座る少女は翔のその態度と行動にふて腐れた表情を浮かべ――
「すいません!」
「はい」
「牡蠣フライ&ハンバーグ一つと日替わりスープ一つ追加お願いします」
「はい」
「あと、ドリンクバーで」
「かしこまりました」
端末に注文を打ち込んだ後、笑顔を向けて「少々お待ちくださいませ」と言って立ち去って行った。
「奢らないからな」
「もういい。自分で払う」
ふてくされている遥を見てバツの悪い表情を浮かべ頭をガシガシと掻く翔。
空気がいいとは、お世辞にもいえなかった。
「そうだ名前……」
「……?」
「まだ、私名前言ってなかったっけ」
と、少女はポケットからケースを取り出して中から名刺を取り出し、
「渡上遥……」
「うん、渡上遥。よろしく」
「カメラマンなのか」
「そう、いま世界中を旅して回っていて、いろんなポートレートや情景を撮ってるの」
「へぇ」
「で、いつかは私が撮った写真だけで個展を開こうって」
「そこまで聞いてないだろ、俺」
翔は溜息混じりに吐き捨て遥の名刺を懐にしまった。
「気にならないの?」
「気にしてどうするんだよ」
「そりゃ、天城君に私が写真展を開いたときに宣伝してくれたらなって――」
「他当たれ」
「何よぉ」
またふて腐れた。
(表情(かお)が忙しい奴だ)
「お待たせしました」
さっきとは違う、今度は男性の店員が来た。その手には商品が乗せられている盆が持たれていた。
「こちらがお客様のまつたけ雑炊になります」
と、翔が頼んだ商品が前に置かれる。
「日替わりスープはドリンクバー近くにありますのでお取りください。こちらが牡蛎フライ&ハンバーグになります。日替わりスープとドリンクバーはカウンター近くのをお取りください」
と、遥が頼んだ商品がおかれる。ボリューム的には翔が頼んだ物よりも大きめだ。
「商品は以上でよろしいですか」
「はい」
と、遥は答えた。
「ではごゆっくりどうぞ」
店員は伝票をテーブル上に置いて会釈程度に頭を下げた後、立ち去っていった。
「じゃあ、私は日替わりスープとって来るね」
「ああ」
遥は席を立ち、カウンターの方へと歩き去っていく。
その席で一人になった翔は水を一口含み、食に手を付けようかとレンゲを持ち、それで雑炊をすくい上げた。
「ぐふっ……」
口に含んだ瞬間、やけどした。当然のことである。出来立てなのだから、熱い。口に入れた物を吐き出すわけにも行かないので水と一緒に飲み込んだ。
「どうしたの」
「ん?」
日替わりスープを取ってきた遥が、その翔の様子に首を傾げていた。
「火傷した」
「ドジっこ?」
「んなわけあるか」
「じゃあ、猫舌かぁ」
「悪いかよ」
「別に?」
少し言葉の尾をあげ気味に言って、
「そんなことないけど」
と言いながら遥は席に座った。
「ちょっとギャップ萌え、みたいな感じ?」
「…………」
喜んでいいのかいけないのか。男が女にかわいいと言われたときに反応に困るというようなその類の感覚によく似ている。
だが、この気恥ずかしさはすこし耐え難い。
雑炊をレンゲにすくい、今度は火傷しないように息を吹きかけて熱を冷まして、食べた。食べて、遥から目をそらしてコレ以上口を挟まれないようにする。
「ん……?」
そのとき気づいた。ふと、気づいた。
「俺のスープは?」
「え?」
「俺のスープは取ってきてくれなかったのか?」
「誰が」
すでに遥は食に手を出しているようで、ハンバーグの一部がなくなっていた。
「ケチな人には何もしませんだ」
イーッとした後、また一口ハンバーグを食べる遥。まさにその通りだと、翔は何も言わず、食を進めた。
4
食が全てすんだ時には本格的に雨が降り始め、外に出られる状況ではなく遥自身、まさか本当にファミレスで夜を明かすことになるとは思わなかった。
向かいの席では、翔が携帯をいじりながら日替わりスープをちょびちょびと飲んでいる。本当に熱いものが苦手なようだ。ならば、なぜわざわざ雑炊を頼んだのだろうか。しかしある程度答えは分かっているので、聞くことはない。
それよりもずっと遥の頭にはある言葉が引っかかっていた。
「ねえ」
「ん?」
遥の呼びかけにも、翔はこちらを見ようともせず携帯をさわっている。スープを飲む手は止めたようだが。
「魔法使いって、何?」
その言葉で、携帯をいじる翔の手が固まった。まずいことを聞かれたとでも思っているのか。だが、こうなるようにしたのは翔自身なのでかまわず聞く。
「私を襲ったのは何? グレイドルって言ってたよね」
「…………」
「何であなたはあそこにいたの?まるでヒーローみたいに助けに来て――」
「悪い奴らだよ」
「え?」
次の問いをしようと思ったとき。それを止めるかのように答えた。答えと言うことなので、遥自身も言葉を止めざるを得なかった。
「俺がいたのは、たまたまだ。たまたま、そこを通りかかって襲われてたから、助けてやったんだ」
「たまたま、ってそんな都合良く……」
「疑う気か。殺すつもりなら、放っといても良かっただろ」
「殺すつもりじゃなくて、かっこいいとこ見せようとか」
「初対面どころか、顔も知らない奴なんかに見せてどうすんだよ。その女を自分の女にでもしようとでも思ったとかいいたいのか」
「うん」
「おまえそんなビジュアルじゃないだろ」
デリカシーがなさ過ぎる。さすがの遥もこの心ない言葉が胸に突き刺さった。というより、そんなことを言われたのは初めてだ。
それとも別の意味があるのではないのかと考えたいところだがそうする事すら出来ない。
(ムカつく)
外が雨ではなかったら翔の頬でもひっぱたいて店を飛び出しているところであった。
もはや、わざとそんなことをさせようとしているとしか思えない。
(言われなくても雨がやんだら出てってやる)
もう口も聞きたくもないと思い、完全に翔をいないものとして扱い始めた。
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