みちびく雪花
ぱたぱたと軒をたたく音が消えた。
雨が止んだのだろうか。
うす暗い部屋の中から、カーテンの隙間から外を覗く。
暮れるのが早い冬の空を覆う重たい雲から白く柔らかそうな雪が降って来ていた。
雨は嫌だけれど、雪なら。
ふわりふわりと落ちてくる雪は、どこかあたたかそうで、誘われるように、そのまま外に出た。
街灯の下、きらきらと幻想的に舞う雪に手を伸ばす。
冷たさを手に感じることはなく、すり抜けるように雪は地面に向かっていく。
雨のあとで地面がぬれているせいか、積もることなくアスファルトににじんで融けていく。
「積もればいいのに」
呟いた声は、足早に行き交う人には聞こえなかったようだ。
明日も仕事や学校へ行く人にとっては、積雪なんて迷惑以外の何ものでもないだろうし、聞こえなくて良かったのだろうけれど。
「私には関係ないから」
街灯にもたれ、不規則に動く雪を目で追う。
なんとなく桜が舞う様子にも似ている。
「逆か。桜が雪に似てるのか。桜吹雪っていうし」
散漫な思考は口から零れ落ちたけれど、こちらに気を留める人は誰もいないので、かまわない。
きれいなんだから、もう少しゆっくり歩いて楽しめば良いのにとは思うけれど。
「桜の下には死体がある、ってなんだったっけ」
何かの小説の中のフレーズだよね。読んだことはないけれど、その言葉は聞いたことがある。
桜ってきれいで暖かなイメージがあるのに、なぜか死に結び付けられることが多い気がする。
「願わくは花の下にて春死なむ、も桜だよね」
百人一首だっけ? 古典の授業で花と言えば桜だと習った記憶がある。
「そのきさらぎの望月のころ。西行法師ですね」
突然割り込んできた柔らかな声に、びっくりして顔を向ける。
「寒くないですか?」
ひょろりと背の高い、二十歳くらいの青年が淡い微笑みを湛えてこちらを見ていた。
「……寒くは、ないです」
いつの間に。どうして、なんで。誰も気にしないのに。この人だけ。
確認したいことはいろいろあったけれど、口をついたのは、青年に尋ねられた質問の答えだけ。
「なら、良いんですが」
本当だろうか、と心配しているような声音と表情。
たぶんやさしい人なのだろう。
まぁ、たとえ詐欺師が信じさせるためにした演技だったとしても、私には関係ない。
「あなたの方が寒そうですけど」
やせすぎた体躯のせいか、色白の整った顔のせいか、薄着なわけではないのに寒々しく見える。
「僕は着込んでますから、ありがとうございます」
確かに、コートにマフラーに手袋と完全防備だけれど。
……あぁ、静かなこの笑みが、寂しそうに見えるからかもしれない、寒そうに見えるのは。
寒いと寂しいは良く似ている。知っている。私も寂しくて寒いところにいたから。
「あのね。もっと暖かいところに行ったほうが良いですよ。雪、だいぶ降って来たし」
寂しいならせめて暖かいところに。
たまたま行きすがった女から寂しいんでしょうなんて言われたら、どん引きだろうから穏当な言葉を探す。
「ほら、西行も桜の下で春に死にたいって言ってるくらいだし、いや、死んじゃうのはダメなんだけど、えぇと」
「ありがとうございます」
まとまりなく、だんだんおかしなことを言い出している私にお礼を言う顔はやっぱりさみし気だった。
「じゃ、あなたを送ってから」
「私、帰れない」
気遣う声に首を横に振る。
「家出ですか? ご家族とケンカでも?」
「家出というか、この齢だと、自立というか独立ですね、普通に……でも、うん。帰りたいな」
いっぱしの大人のつもりで、心配してくれる母親を鬱陶しがって、気まずいまま実家を出た。
大口をたたいたんだからと、たまの連絡も「問題ない」との一言で済ませてしまっていた。
でも、本当は。
「心配してくれてありがとうって言えば良かった。あなたみたいに。素直に。そしたら」
こんなことになる前に話せていたら。
母親は「帰っておいで」と言ってくれただろう。
「実家の庭に、大きな桜の木が一本あるの。花が咲くと、その下でお母さんとお茶を飲んだりお昼を食べたりするのが好きだった」
本当はずっと帰りたかった。
でも、もう遅い。
だから、せめて。
「きっと、きれいでしょうね。こんな風に」
青年の視線を追って空を見上げる。
大木から伸びた枝にぼんやり淡く仄かな光のかたまりが満開の桜にみえた。
もたれていたのは街灯だったはずなのに、ごつごつとした樹の幹があって、そう、こんな感触だった。もう二度と触れられないはずだったのに。
「どうして」
青年は空を見上げたまま、返事をしなかった。
もしかしたら、泣いているのかもしれないと思った。なぜか。
それは私のためのように思えた。
「ありがとう」
近くのアパートのうっすら雪の積もった階段を上り、すぐ脇の部屋のドアに手をかける。
触れるだけで、鍵は開けられた。
きしむ軽いドアをひき、中に入ると外よりも冷えているような気がした。
狭い部屋の片隅で人が倒れていた。
街灯の下、寂しげに雪を眺めていた幽霊の、亡骸。
その手元にある携帯電話のボタンを操作し、電話をかける。
『かえりたい』
残してあった彼女の声を。つながったその先へ届けるべく送話口に落とす。
彼女が本当に話したかった相手の心配そうな声がこちらに聞こえた。
彼女にはもう届かないけれど、つながったままの携帯電話を耳元へそっと置く。
「せめて、体だけでも」
気づいてもらえますように。
亡骸に頭を下げ、そして誰にも気づかれないように、その場を立ち去った。
降り続く雪が、足跡を覆い隠した。
【終】
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