ひびく畔

 もう一度。

 もう一度、聴けたら。

 もう一度、聴けたら、先にいくから。



 誰もいない教室で、今日も一人、机に突っ伏す。

 閉じられたドアと窓の向こうから、部活動中の様々な声や音がうっすらと届く。

 とおい音の中から無意識に耳がその音を探していた。

 もう決して奏でられない音。



 部員は自分ひとりで、顧問は出席の確認だけするとすぐ職員室に戻るというのが基本パターンの必修クラブの時間。

 成果を求められるわけでもないので、本を読んだりうたた寝したりぼんやりしたりで、帰るまでの一時間をつぶすのが常だった。

 手持ちの本を読もうと開きかけたところでおそってきた眠気に、携帯のアラームをセットして昼寝の準備を整えた。

 とろとろとうつつが遠ざかっていくのをうっすらと感じながら眠りに落ちかけたところで、その音を拾った。

 ピアノの旋律。

 今までも吹奏楽部の出す、様々な楽器の音色は聴こえてきたけれど、その中にピアノはなかった気がした。

 すくなくとも、寝かけていた顔を思わずあげてしまうような、引っかかる音ではなかった。

 眠気は完全にどこかに飛んでいた。

 静かに存在感のある音の源を辿るべく教室を後にした。



 顔をあげた。

 ピアノの音。

 あの日と同じような。

 今はもうないはずの音。

 あわてて立ち上がって、教室を飛び出し音楽室へむかって走る。

 音は途切れず、それどころかよりはっきりと近づく。

 音楽室のドアの前で立ち止まる。

 走ってきたせいだけではない動悸。

 ひとつ、大きく息をつきドアを開く。

 あふれるピアノの音。

 そのなつかしい音をだしているのは、……知らない人だった。



 あの日、息せき切って辿りついた音楽室にいたのは見知らぬ顔だった。

 ピアノの主は顔をあげて小さな笑みを浮かべて目礼すると、終わりまで弾きあげる。

「ごめんね。うるさかった?」

 詰襟につけられたクラス章から隣のクラスの人だとわかったけれど、見覚えがなかった。

 色白で童顔の男子。

「ううん……ピアノ、上手だね」

 もうちょっと、気の効いたことが言えれば良かったのに、出てきたのは小学生みたいな感想だった。

 それなのに、くすぐったそうに笑ってくれた。

「褒められるとうれしいね。ありがとう」

 無邪気で素直で、笑顔がかわいかった。

 放課後、毎日のようにピアノを弾く、その横で聴いていた。

 いろいろ話した。くだらないことを、やまほど。

 大好きになっていた。



「ごめんね。うるさかった?」

 いつの間にかピアノの音がやみ、あの時と同じ言葉を別の人が口にする。

 雰囲気は少し似ているかもしれない。

 色白で優しげな顔立ち。

 でも童顔じゃないし、背も高い。

 だいたい、制服がブレザーだ。他校生がどうして音楽室でピアノ弾いてるんだろう。

「ちがう。知ってる、人の音に似てたから」

「ごめんね。別人で」

「えっ。ちがっ、私が勝手に間違えただけだし」

 やさしい声がなんだかすごくかなし気に聞こえて、あわてる。

「ありがとう。やさしいね」

 微笑った顔はやっぱりすこしかなしそうに見えた。

 無邪気な笑顔とは似ていないのに、やっぱりなんだか雰囲気がかぶる。

 ぽつんぽつんと鍵盤の上に指を落としながらゆっくりと音を紡ぎだしたその人の近くに椅子に座る。

「さっきの曲、もう一度聴けるなんて思わなかった」

 ぽろぽろと零す音を増やしていく青年の横顔に呟く。

「ん?」

 促すような頷きに、言葉を続ける。

「良く弾いてた。その横で、こうして聴いたり、他愛ない話しするのが好きだった」

 学校に執着なかったし、授業を終えて、まっすぐ帰るだけの退屈な毎日だったのに、それだけでたのしくなった。

 ゆっくりとした音に紛れながら、青年にはきっとどうでもいいだろうことを口にする。

 誰にも話せずにいた。一律的な同情の言葉なんか聞きたくもなくて。

 でも、誰かに知って欲しかった。

 そんな時に、縁も何もない他校生というのは逆に気安かった。

 よく似たピアノを弾いてたりするから、なおさら。

「放課後、音楽室で会って、話して、校門で別れて……」

 携帯の番号も知らなかったし、休みの日に会ったりするような関係でもなかった。

 他愛ない話が愉しくて、ピアノの音がやさしくて、それだけで充分だと思ってた。

 だから、結局肝心な話はしてもらえないまま……。

「でも、好きだったのに……もう、会えないのに」

 きちんと訊けていたら、なにかかわっただろうか。

 気持ちだけが後悔とともに、ただ残った。

 何にも言わずに、あっという間に、いってしまった。

 それなのに、あたりまえに学校は続いていて、自身も普通の顔して通って、だけど、ずっと探していた。

 聴こえるはずのない音を。

「言ってくれたら、良かったのに」

 そうしたら、覚悟ができたかもしれないのに。

「……弱いところは、見せたくなかったんだよ」

 ピアノの音に溶けるようなささやき。

「え?」

 うまく聞き取れずに聞き返したのに、うやむやにしたまま青年は視線を落とす。

「ごめんね」

 謝罪の意味がわからず、まじまじと見つめると、青年はやはり応えずなつかしい音を、もう一度奏ではじめる。

 きっと、これが最後。

 もう、聴くこともなくなるだろうやさしい音。

 しずかに、やきつける。

 ふりそそぐ、やわらかな音に目を伏せた。



 ピアノが鳴り止んでも、少女は顔をあげなかった。

 余韻に浸るように。

 声なく泣いていたのを知っていたから、ただ静かにそのままそこに居た。

 慰めの言葉は、かけないと決めていた。

 涙を拭い、顔をあげた少女が、痛々しい笑顔をみせて立ち去るうしろ姿見送り、ため息ひとつこぼしてふり返る。

「これで、良かったのか?」

 ピアノの傍らに立つ、半ば透けた小柄な少年はにっこりと笑う。

『充分。ありがとう』

 弾けないピアノ、大切な人に届かない声。未練がないはずないのに。

 しなやかな強さ。

『しあわせそうに聴いてくれる顔がすごくかわいくて、話す声がやわらかで、大好きだったんだ。言えなかったけどね。……残り時間も、見えてたし』

 童顔に似合わない自嘲的な微笑をうかべる。

『言えば良かったのかな? あんな空っぽの顔、させるくらいなら』

 交流会で訪問した学校で、病で早世した少年にピアノを弾くように頼まれた。

 その唐突な申し出を断らなかったのは、別に親切心なんかじゃなかった。

『でも、きっともう大丈夫』

 ふっきるように笑う姿からわずかに目を逸らす。

 いくら、好ましく想っても決してかえることはない。

「ごめん」

『それはこっちの台詞じゃない? めんどくさい頼みしちゃってゴメン。通りすがりの幽霊の頼み聞いてくれるなんて、やさしいよなぁ』

 あまりにまっすぐな言葉に苦笑いがこぼれる

 そんなんじゃ、ない。

『じゃ、行くよ。ありがと。ばいばい』

 笑みを残して、少年の姿があっさりとかき消える。

「消えてもらうために、引き受けたんだよ」

 押さえた鍵盤から流れた音が、零れ落ちた言葉を隠すように響いた。


                                  【終】

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