さまよう森
「何してるんですか?」
声を掛けると、しゃがみこんで突っ伏していたその人は、だるそうに顔を上げる。
その顔色は蒼白で、体調の悪い時に声をかけてしまったことに申し訳ない気持ちになる。
「ごめんなさい。大丈夫ですか? なにか、しましょうか?」
助けを呼ぶべきか。
車道からは少し奥まっているから、救急車とか呼んだにしても、ここまでは入って来られない。隊員の人って徒歩でここまで来てくれるだろうか。
どうしようかおろおろしていると、細い体躯の青年はちいさく首を横に振る。
「へいき。……申し訳、ないんだけど。すこし、離れて、もらって良いですか?」
途切れ途切れの、息をつきながらの頼みに、訝しく思いながらも数歩あとずさる。
再び突っ伏してしまった青年はゆっくりと呼吸を整えているようだった。
なんとなく立ち去り難くて、そのまま様子をうかがっていると、しばらくしてようやく落ち着いたのか、顔を上げた青年は小さく微笑んだ。
「ごめんなさい。ご迷惑をおかけしました」
「いえ。えぇと、大丈夫ですか? よければ、通りまで付き添いますけど」
青年は痩せてはいるが、背の低い女の自分では支えることは難しいので本当にただ付き添うだけしかできないけれど。
「本当に大丈夫。恥ずかしいんだけど、虫がニガテで。ちょっと遭遇して、それだけだから」
青年は恥ずかしそうに打ち明ける。
そういうことか。
離れろと言われたわけがようやくわかった。
右手を高く上げ、指先でつまんでいたトンボの羽をはなす。
解放されたトンボは高く飛んで、木々の陰に紛れる。
「ごめん。ありがとう。男のくせに情けないよねぇ」
それでもトンボの姿が消えたことであからさまにほっとした顔をしている。
「そんなこと言ったら、私なんて女のくせに虫好きでこんなとこまで来てるし」
家からほど近く、人が少なく静かで落ち着く神社裏手の森。
子供の頃、神隠しの噂もあって入ってはダメだと親からは言われていた。今の子供達も同じように言い含められているのか、それとも単にゲームや塾が忙しくて森などに遊びに来る暇などないのか、人の姿を見ることはない。
おかげで自分のようないい年齢をした女が人目を気にせず平気で虫と戯れることができる。
「でも、嫌いならなんでわざわざこんなところに?」
手近に森林浴ができる程度に雰囲気のいい森ではあるが、木々の生い茂るところは、どうしても虫が多い。
顔面蒼白になるほどの虫嫌いなら、こういう場所は避けるだろう。普通。
「……さがしもの、かな」
青年は立ち上がり、仄かに笑う。
「探し物?」
何をなくしたかしらないけれど、こんなところで見つけ出すって結構無理がある気がする。
「手伝おっか?」
虫が嫌いでは探すのもままならないだろう。
先刻のようにまた身動き取れない状況になりかねない。
「やさしいですね」
「いや、だって。私なら虫も平気だし。ここにはよく来てて詳しいし、暇だし」
柔らかに微笑まれ、どぎまぎと言い訳めいた言葉を重ねる。
俯きがちだったのでわからなかったが、改めてちゃんと見ると、この人、男なのに結構な美人だ。
「虫、好きなんですか?」
「嫌いな人の前で、ごめんなさい。変ですよね」
だいたい女の子は子供のころから虫が嫌いな子が多いし、嫌いではなくても好きという子はほとんどいない気がする。
でも、好きなのだ。
「別に変じゃないですよ。普通の虫が何にもしないことわかってるのに怖がってる僕は情けないけどね」
嫌いじゃなくて、怖いのか。
「それこそ、仕方ないんじゃないの。そういうのって根源的なものだし」
「じゃ、お互いさまだね。どこが好きなの?」
「話を聞くのは平気なの?」
怖いものの話をあえて聞きたいものだろうか。
「好きな人から話を聞けば、少しは怖さも薄れるような気がするから」
そういうものなのかなぁ。
「別に詳しいわけじゃないんだよ。単に眺めてるのが好き。さっきのトンボだと、翅の模様がきれい。光に透けてキラキラしてる」
蝶々の羽色も見ていて飽きないし、甲虫やクワガタはぴかぴかでかっこいいし。
「本当に好きなんだね」
こんな話、聞いてくれる人なんていないから、思う存分に語ってしまった。
いくら向こうが聞いてきたからって、限度というものがあるだろう。それも苦手にしているものについてだ。
「ごめんなさい」
「なんで? 聞いてて楽しいよ」
笑顔のまま、青年は続ける。
「好きっていう気持ちは強いよ。だから、ほら。引き寄せられてくる」
青年が空を指差す。
その指に先を見るとひらひらと薄紅色が舞う。
「え?」
掌くらいの大きさだろうか。
現物はもちろん、図鑑でさえ見たことのない蝶々が一頭。
木漏れ日にあたると色が濃く、薄く、変化してみえる。
その幻想的な蝶にただただ目を奪われた。
まやかしの蝶は空に溶け、少女のように目を輝かせて見入っていた幽霊も消えてしまった。
死んだことに気付かず、躰を失った後もなお好きなものを楽しんでいただけの純粋なものを、こちらの都合で完全に消滅させた。
心配して、声をかけてくれた優しい気づかいも、虫が好きだという気持ちも、全部利用した。
視界の端をトンボが横切り、思わずしゃがみこむ。
でももう、声をかけてくれる人はどこにも、いない。
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