「やくそく」
守分結
第1話
あれは、わたくしがちょうど八つになった頃だったでしょうか。もう昔々のお話ですわねえ。
とても怖い思いをしたんですよ。
いいえ、怖いだけではなくて、美しくもありましたがねえ。
ええ、ほんとうに不可思議な出来事でございました。
桜の花が咲いておりました。まだほんの一輪、二輪。
そう、あれはお彼岸の入りの夕暮れでした。
***
そう語る銀髪の老婦人は、血色のいい頬に笑みを寄せ、ひと口、茶をすすった。
茶菓子代わりの萎びた瓜の漬物は、小皿に取り分けられ、僕の前にも置かれている。濃い目に淹れた煎茶の香りがふわっと鼻をくすぐった。
老婦人は、この山深い里に似つかわしくない上品な語り口調だったが、身に着けているのはくすんだ色合いのカットソーで、いかにも田舎暮らしの主婦でもあった。
昔話を聞きたいと突然訪れた客に、嫌な顔一つ見せず縁側に座布団を出して勧める仕草は、年齢を考えればずいぶんとシャンとして見えた。
昔からの農家らしく広く取られた庭には、季節柄、雪柳が真っ白な滝の花を咲かせている。雀に交じって尾長もちょんちょんと地面をつついていた。のどかな風景であった。
その中で、老婦人は笑みを絶やすことなく昔語りを続けていた。
***
その日わたくしは、一人でよもぎ摘みをしておりました。母が、よもぎを摘んできたら草餅を作ってくれると言いましたのでね。
大喜びで家を出たのは、夕方というにはまだ早いじぶんでした。
よもぎは探せばあちらこちらに生えておりますから、そんなに時間がかかるとは、母もわたくしも思っていなかったのですよ。
でも幼い子どものことですから、外に出ればいろいろなものに心を惹かれてしまって。咲き群れている菫の匂いをかいだり、瑠璃色の蝶を追いかけたりと忙しく遊んでおりました。
気がついたら、お宮さんの参道まで登ってきていたんです。
ほら、窓から古い鳥居だけが見えますでしょう? あそこは小さい様をお祀りしているお宮なのですが、当時から宮司様もおいででない、小さなお社ですの。
そうそう、なによりも小さい様は幼子をお守りしてくださる神様ですし、お庭の延長のようなものでしたわ。
ですから、お宮で遊ぶこともたびたびのことで、家から一人離れても、とくに怖いなんて思うことはなかったのですよ。
横の細い道からお宮の参道の階段に入りますと、両側に、点々とよもぎが生えておりました。春先の若芽が、いい色と匂いで。明日はお餅と一緒に搗いて、草餅を作るのだということを急に思い出して、わたくしは、勇んで芽を摘んでは、持ってきた籠に入れていきました。
ええ、それは楽しみでした。食いしん坊な子どもでしたから。
摘みながら少しずつ階段を登っていって、てっぺんまでくると、いつの間にやら夕暮れどきで、足もとの影が向こうの山の影に飲み込まれるような時間でした。
空は、まあ、燃えるように真っ赤で。どういうわけか空気まで赤く染まっているような気がいたしました。トラツグミががピピョー、ピョーと鳴いていたのを覚えております。
ああ、早く帰らなくてはと、思いましたよ。山は日が沈むとあっという間に暗くなりますからねえ。実際に、足もとは向こうのお山の影が伸びて、もう暗くなっておりました。
それでもせっかくだから、お社の前で手を合わせていこうと思ったのですよ。
だからね、赤い鳥居をくぐったのですけれど。いま思うとおかしなことでございますが、鳥居に影があったのですよ。
ええ、先ほども申し上げましたとおり、もう夕闇が迫っていて、足もとは暗かったはずなのに、です。
それなのに、そのときのわたくしは、あら、鳥居の影があるわと、なにも不思議に感じなかったのです。そして、その影を踏まないように、飛びこえました。
その頃のわたくしは、なかなかのお転婆でしたのよ? まだたった八つですもの。
ところが、影の鳥居を飛びこえますと、なんだかあたりが急に真っ暗になって……。
ええ、おかしいでしょう? だってついいましがたまで、桜の花だって見えていたはずなんですよ。それが、誰かに目隠しをされたみたいに何も見えなくなって。
怖くはありませんでしたよ。まだ、そのときは。
ただ、びっくりして立ち止まったのです。
もうツグミの鳴き声もしません。ただ籠の中のよもぎのにおいだけは感じました。鼻をつままれてもわからないほど真っ暗なのに。
どうしたのかしら、と思いました。急に目が見えなくなったのかしらって。
そう思ったとたんに、今度はずっと先のほうに明かりが見えたんですよ。一つ見えると、次々に見えてきて。わたくしは、何かに引っ張られるように明かりに向かって駆け出しました。
それは、提灯の明かりでした。お祭りのときのように、たくさんの提灯がお宮さんの境内につりさげられていたのです。
いいえ、真っ暗になったときほどは驚きませんでしたよ。ただただ、なんだろう? 今日はお祭りだったかしら? 楽しそう、とだけ。
だれか見知った人はいないかしらとぐるりと見渡すと、足もとから声が聞こえました。
「こりゃこりゃ、驚いたわい。生きた人の子がまぎれてきおった」
見ると、大きなヒキガエルでした。それも黄土色のイボイボの肌に青い裃と袴をつけているんですよ。おかしいでしょう?
ヒキガエルは、大きな目でわたくしを見上げて言いました。
「彼岸の夜の市場へようこそじゃ。十二年に一度しか開かれぬ、この市へ生きたままやってきた子どもは、拙者の知るかぎりは初めてのことじゃ。いやはやいやはや、こりゃ驚いたわい」
「おひがんの夜の市場って、なあに?」とわたくしは裃をつけたヒキガエルに尋ねました。
「知らぬで来たか、無理もない。ところでお嬢ちゃんは幾つのお子じゃ?」
「八つ」
「ほうほう、これはまた、びっくりじゃナァ」
ヒキガエルはクルンととんぼ返りを打ちました。普段はノソノソと歩くところしか見たことがございませんでしたから、わたくしは手をたたいて喜びました。ヒキガエルは何度も……そうですわね、三度ほどだったでしょうか。続けてとんぼ返りをしましたが、そのたびにわたくしも拍手をしたのです。
するとおかしなことに、わたくしはヒキガエルと同じくらいの大きさになっておりましたの。ええ、あなたの手のひらに乗るくらいのねえ。
「八年も生きたのならば、本来はここには来られぬはずじゃが、時が良かったのか悪かったのか、さてさて」
ヒキガエルが言うにはね、人の子は七つまでは神様の御子。魂もふらふらとこの世とあの世を行き来するのだそうですよ。それならばうっかりと二つの世の縁を踏み越えることもあるだろうが、八つにもなったわたくしが、その夜の市に迷い込むのは珍しいということでした。
そんなことを言われてもねぇ、わたくしにはなんとも返事のしようがございませんでした。
だって行こうと思って来たのではなかったのですからね。
「いずれにせよ、生きた人の子となれば同輩どももうるさかろう。悪さをするものも出ぬとはかぎらぬ故、お嬢ちゃんも小さきものとしておいたぞ。どうじゃ」
ヒキガエルは得意そうに言うのですよ。そうして懐からぱっと扇子を取り出して、トコトコと歩くと、もったいぶった様子で始まりの口上を言い立て始めたのです。それはそれは朗々と。
気がつけばあたりにはたくさんの見慣れたような、見慣れないようなモノたちが集まっておりましてねえ。
イタチは白いシャツを着ておりますし、テンはカラス帽子をつけているんですよ。
蝙蝠たちもおのおの小さな扇子を持っておりました。小さくてお腹に一筋の縞があるカナヘビなんて帽子をかぶって刀をさしていましたのよ? 面白いでしょう?
そうそう、ヒキガエルの声なんて、都会に住んでおられたらあまりお聞きになられませんかしら。さぞ、しわがれているだろうとお思いでしょ? でも、そんなこともございませんのよ。クォッ、クォッて、案外よく響きますの。
ああ、でもその時のヒキガエルはなにしろ人の言葉を話しておりましたから、また違いますけれども。
「さてさて、皆の衆。今宵はあの世とこの世の境が揺らぐ彼岸の入りじゃ。暑さ寒さも彼岸まで。しかも十二年に一度しか開かれぬ夜の市の始まりの日。寒き間、土の中に眠りしモノはよくよく目を覚まし、凍えながらも下草に身を隠せしモノも花のあいだを飛び回らん。食うもの食われるもの、さまざまにおられましょうが、されども今宵のうちは手に手は取らぬまでも、おのれの身の内に備わる本性はちいっとばかり抑えていただき、市に売られるものたちをこそおのおのの糧とされまするよう。お願い申し上げまする」
どこからか太鼓や鉦の音も聞こえました。ヒキガエルの後ろには、お社が見えましたから、そこは間違いなく小さい様のお宮の境内なのですが、別の世界にいるようでした。
ヒキガエルの口上が終わりますと、数十もいた小さなモノたちが一斉に拍手をいたしましてから、ばらばらに分かれていきます。
見ると夜店の屋台がたくさん出ておりまして、あるものは店主となり、あるものは客となる。そんな風でございました。
「ねえ、あそこにはどんなものほ売っているの?」
わたくしの問いに、ヒキガエルはゴホンと咳ばらいをして答えました。
「いろいろですなあ。光る石、薬草、虫の羽、蛇の皮。それから……」
ヒキガエルはふり返って、わたくしを大きな目玉でながめました。
「市と言うからには、あそこで物を買うにはお代が必要じゃ。お嬢ちゃんは持ってはおらぬじゃろう?」
「お金? 持ってないわ。でもみんな、人のお金をつかうの?」
「いやいや。拙者らのことわりは人の世とは違っておるでナァ。米一俵がいくらと定まってはおらぬのじゃ。それぞれが見合ったと思うものを交換するのじゃが……」
ヒキガエルは困ったような顔で、手に持っていた扇子を開いたり閉じたりしておりました。
あら、ヒキガエルの困った顔の想像がつきませんか? そうですねえ。わたくしも今となっては、どうしてあのヒキガエルの表情がわかったのか不思議なのですが、その時はわかったのですよ。
「物と物を、こうかんするの? なにか持っていなかったかしら」
わたくしはパタパタとポケットをたたきました。
ポケットには、よもぎと一緒に摘んだ菫の花がありましたが、もうすっかりしおれておりました。他にはなんにも。籠の中に山盛りのよもぎがあるばかりです。でもこれは明日の草餅のために、ちゃんと持って帰らなければなりません。
よほどわたくしが困った顔をしていたからでしょう。ヒキガエルは大きな口からハァと息を吐いて首を振りました。
「今日は見るだけにしなさいナ」
「うん、そうする」
わたくしは首を伸ばして夜店のほうを見ました。たくさんの動物たち――いいえ、妖たちとでもいうのでしょうか、とにかくにぎやかで、ときおり笑い声も聞こえました。
ヒキガエルが案内をしてくれるというので、手を繋いで屋台の並びに向かいますと、まず一番端には竹で作った笛が売られておりました。
聞くと、その笛を吹くと、中から小さな狐が出てきて、なんでも御用をきいてくれるのだそうです。
「まあ! おもしろいふえ!」
わたくしは店番をしていた大きな狸に聞きました。狐を売っているのが狸だなんておかしいわねえ。でもあの焼き物でできた狸にそっくりだったんですよ。
でも狸はわたくしを見るなり首を振りました。
「悪いことたぁ言わないから、笛を買うのはやめときな」
「どうして?」
「そりゃあ、怠け心でいっぱいになって、笛の狐に頼りきりになるからさ。そうしたらあんたは、笛の主じゃなくって狐の言うなりになるんだぜ」
わたくしは首をかしげました。狸店主の言うことが、よくわからなかったのですわ。だってその笛から頭をのぞかせている小さな狐たちが、なんともかわいらしかったんですもの。
でもお代を払うことができないのですから、しかたありません。
次の屋台には、蝶や鳥の羽を織り込んだ錦の布が。
その次には、なにやら木の葉や草を乾燥させた束が。
「あれは、おくすりかしら?」
そっと尋ねましたら、ヒキガエルは喉を膨らませ、コッコッコッと笑い声をたてました。
「人に効くとは限らない。試してみたら毒だってこともあるじゃろナ」
そういうものかもしれませんねえ。でも、ちょうどばばさまが腰を痛めておりましたので、効くお薬があればいいなあと思ったのですよ。
それほど広い境内でもありませんのに、どういう訳が夜店はとぎれなく続いているような気がいたしました。わたくしが小さくなっていたからでしょうか。
そうこうするうちに、きれいな飴玉を売っている屋台の前に来ましてね。わたくしはすっかり夢中になって、その飴玉をながめたのですよ。
それは……なんといいますか、ビー玉のように透き通っていて、一つ一つの玉にいろいろな色が渦を巻くように描かれているものや、きらきらと光るものもあれば、全体が深くて濃い一色に染まっているものもありました。
一つとして同じものはなかったのですよ。それはそれは見事なものでした。
そして、どこか甘い香りもいたしましてね。わたくしは夢中になって並んだ飴玉を見つめました。
「おやおや、お嬢さん。買っていきますかい?」
声をかけられて顔を上げると、その飴屋の店主は大きくて真っ黒のカラスでした。そういえば、カラスは光るものが好きですわねえ。だからでしょうか。
「いやいやいや、このお嬢ちゃんはお代をもっておらぬでナ」
わたくしの代わりにヒキガエルが答えました。
「それは残念ですなぁ」
カラスは黒い目をわたくしに向けて、羽をばさりと広げました。なんだか急にはだざむく感じて、わたくしはぶるりと震えました。
「生きた魂ならこの飴百個分の値打ちはありますがねえ」
「いかんいかん。市の立つ間は、人の子に手出しできぬじゃろう?」
「それはそうですがね」
それは一体どういうことかと首をかしげておりますと、大きなニシキヘビがするするとやってきて、自分の抜け殻をカラスに差し出しました。カラスは羽と嘴を器用に使って、それを丹念に広げて、それから満足そうに一つうなずいてニシキヘビにこう言ったんですよ。
「これならば、飴玉五つにはなりますよ、錦の旦那。お好きなものをお選びください」
ニシキヘビは、細長い舌をチロチロ出しながら、鎌首をもたげて飴を一つ一つ選びましたわ。とても熱心に。
わたくしの手首くらいの太さのヘビです。本当ならば、怖くてとても近寄ることなどできないはずなのに、そのときのわたくしは、ただヘビが飴を買っていくのがうらやましくてしかたがなかったんですよ。
「このあめ、どんな味がするのかしら?」
わたくしはカラスの店主に聞きました。するとカラスはカァカァと笑いながら、それはなめてみなけりゃわからないと言うのです。
「あら。売っているのにしらないの?」
「お嬢さん、この飴はねえ、砂糖を溶かして固めたものじゃないんですよ」
「じゃあ、あまくないの?」
「甘いのも中にはあるでしょう。もしかしたら苦いのも、酸っぱいのもあるかもしれませんが」
意味が分からなくて、わたくしはヒキガエルを振り返りました。ヒキガエルは手に持ったままの扇子を開いたり閉じたりして、なにか考えごとをしているように見えました。
「どのあめがどんな味か、わからないの?」
もう一度聞いたわたくしにカラスの店主は嘴を大きく開いてカァカァと笑いました。
「欲しければお代を頂戴しませんと」
「なにをはらえばいいの? お金なんて持ってないもの」
お小遣いなどというものをもらったことがなかったわたくしは、目の前の飴が欲しくてたまらなくて悲しくなりました。するとカラスはまたカァカァ笑いました。
「人間のお金なんていりませんがね。そうですねえ。その籠に入っているヨモギ。それは餅にするんですか?」
「そうよ。かあさまが草餅作ってくれるの」
「ほう。それならば、草餅一つで飴玉一つ。いかがです?」
「それでいいの?」
「ええ、ただし一つに一個ですよ」
わたくしは大喜びでうなずきました。草餅だって大好きですけれど、この不思議な飴はここ以外では口にはできないのですから。
草餅はたくさん作りますから、一つ二つ持ち出しても見つかりはしないでしょうしねえ。
わたくしは、大きな口をへの字に曲げたヒキガエルに聞きました。
「ねえ、あしたもこられる?」
「そうですナァ」
ヒキガエルは喉を膨らませてから、ふぅぅと長い息を吐きました。それからパチンと扇子を閉じて、それをわたくしに渡してくれたのです。
「今日のような偶然は、そうそうあることではありませんヨ。どうしてもとおっしゃるなら、明日これをもってらっしゃいナ」
わたくしはヒキガエルの扇子をしっかりと胸に抱きしめました。
するとどうでしょう。みるみるうちに小さかった体が元のとおりに大きくなって、にぎやかな市のたつ境内は、誰もいないいつものお宮になっておりました。
そして、ヒキガエルと境内の市でだいぶ時間を過ごしたような気がしましたのに、まだ空は夕暮れの赤いままでした。
***
そこまで語って、老婦人はぬるくなった茶を一口すすった。
「お疲れではありませんか?」
「そうですねえ。ひとさまにお話しするなんてずいぶん久しぶりのことですので」
そういって浮かべた口元の笑みは、まるで幼い少女のように邪気がなかった。
「もう八十年近く昔のことですのに、お話ししだすとまるで昨日のことのように覚えているものですわねえ」
それだけ印象に残る出来事だったのでしょうと言うと、彼女はふふふと笑って、きれいな歯で古漬けをぼりっとかじった。
「子どもっておかしなものねえ。本当ならもっと不思議がったり、怖がったりするものなのでしょうけれども、そのときのわたくしは全然怖いとは思わなかったのですよ」
お話の翌日に怖いことが起きたのでしょうかと尋ねた僕に、さあどうかしらと微笑んで、老婦人はまた、翌日の出来事を語り始めた。
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