In old days episodeⅢ
In old days episodeⅢ
激動の夏を超え、体育祭という大きな節目を越えて、俺たちは一年の節目に時を進めていた。
季節は日本の大地が既に凍っているのではないかと思うほど錯覚に陥るような季節。
大地を踏みしめると思わず大地が氷を割った時のように半分に割れてしまうのではないかと思うほど寒い季節。
十二月――師走の時期の二十五日が今日。
世間はクリスマス一色であり、街中ではケーキの店頭販売や商業施設で賑わう人々、はたまた家で彼女や彼氏がいる人たちは楽しい時間を謳歌しているであろう日。
クリスマスなんてなくなればいいのに。
……思わず本音がでてしまったが、いつもの面子で二十五日の夜に寮内――男子部屋に集合していた。
世間には一人の人もいるようだから、恵まれているほうなのか知れないが……な。
やはり思春期の男子といえば恋人ぐらい欲しくなるものだろう。
俺もその一人ではあるが、今は遊べる仲間がいる……友達がいる。
それでいいのだと思う。
「それじゃークリスマス始めていきましょーうぇーい」
コタツに足を突っ込んで、完全に寒さを遮断した愛瑠さんの気だるそうな声が、六畳分ほどの室内に陰鬱と残る。
「どうしてそんなにテンション低いんですか……」
だってねぇって顔をしながら愛瑠さんは髪を流れるようにかきあげる。
どうでもいいが、この場にいる優衣と愛瑠さんと兎風はなぜか誰しも制服で来ている。
なんでも楽だからそうだが……何が楽なのだろう。
私服を持っていないということはないだろうし……あれか、衣替えが面倒だったりするのだろうか。
「だってあれよ? クリスマスよ? 陰謀なのよ? イエス・キリストの誕生を祝うって私たちに何も関係ないじゃない
なのに世間はクリスマスだなんだって……面倒じゃない」
愛瑠さんを除いた全員が思ったであろう一言が、それが本音か、だ。
「……面倒かもしれませんが、仲間内で集まって遊べる口実ってことでいいじゃないですか」
「確かにそれはいいんだけれどね……プレゼントとか、用意しないといけないじゃない」
「そうだ! プレゼントだ!」
優衣が突然大声を室内に響かせた。寮内に生徒がいないからいいが、普段なら注意されるだろう。
壁はあってもそこまで防音性はないからな……この寮。
「なによ、プレゼントがどうしたのよ」
愛瑠さんの面倒そうな声。どうしてあの人ここまで面倒そうなんだ。
そういえば愛瑠さんは冬の時期は寒さで色々面倒になるらしいと優衣から聞いていた。
寒いと思考が鈍って嫌なのだそうだ。
優衣が、歓喜に打ち震えた感じで、コタツから瞬間的に立ち上がって手を天にかざして胸に手を添える。
「だってプレゼントは必要だろ!? 折角のクリスマスなんだからさぁ……やれることやろうぜ!
折角みんな集まってるんだからさ、馬鹿馬鹿しくやろうぜ!」
今まで静観していた兎風までもが、加わり始める。
彼女も寒いのは苦手らしく、コタツには入ったままだ。
「そうだよ、ふーかちゃん。みんなで楽しくやろうって言ってるのに一人だけテンション低くてどうするの」
兎風、俺だってテンションはそこまで高くないんだぞ。
谷風はなぜか一言も発しないが、どうやらクリスマスまでに恋人を作る! と言っていたがそれは達成できなかったようで落ち込んで喋っていないようである。
そんな急に彼女ができるのなら年齢=恋人いない暦にはならないだろうに……な。
愛瑠さんは尚も気だるそうに、静かに声を出した。
「……まー……そうね。頑張ろうかしらね……まー今日はみんなお金だしあってピザ注文するんでしょ?」
「「「「えっ」」」」
愛瑠さんの放った一言に対して優衣と兎風と谷風と俺が異口同音として返す。
先ほどまで意気消沈していた谷風であっても、今の言葉は無視できなかったらしい。
「えっ」
その反応を聞いた愛瑠さんもどうして? という顔をしている。
「クリスマスといえば鶏肉だろ! チキンだろ!」
「いやいや、私はケーキが食べたいな」
「兎風、それは別で用意してるから問題ないぞ。俺は牛肉で焼肉がいいな」
「なーに言ってんだ! 豚だろ……常識的に考えろって!」
「「「「「なんで違うんだ!」」」」」
全員が自分以外に突っ込んだ。
まったく、クリスマスに食うものといえば焼肉に決まっているだろう。
様々な牛肉を用意して、それを焼いて食べる! シンプルだがそれが一番!
どうしてみんなピザだとか鶏肉だとか豚だとか言い出すんだよ……!
「核、お前の行っていることはさっぱりわからん! どうして鳥じゃダメなんだ!? あたしにはさっぱりわからねぇ!」
「むしろ焼肉のほうがいいだろぉが! 牛があってこそだ!」
「カサくんも優衣もわかってないわね……クリスマスはピザを食べるに決まってるじゃない」
「今回ばかりは愛瑠姉さんに反逆させてもらいます! ピザとかありえない! 豚だ、豚!」
「ケーキ……」
兎風のぼそっという一言に大仰に全員が兎風を向いて反応。
「「「「それは用意してるって言っただろ!(でしょ!)」」」」
「はい……」
「やっぱり鳥だろ!? 被りついた瞬間溢れ出てくる肉汁、あの触感がたまらねぇんだろ!」
「鳥はもさもさしてるからダメよ、やっぱりここはピザよ。あのとろけるチーズ……カサくんもたまらないでしょう?」
「チーズかぁ……たまらな――い、いや! 今日は何を言っても焼肉です、焼肉! 油のたっぷり乗った牛肉をですね……」
「だーかーら、豚だって! お前たちと俺でこんなに意識の差があるとは思わなかった……!」
「私……」
「いや、だから鳥ってあれだろ!? 人生の活力だろ!?」
「ピザこそ人類の生み出した究極の叡智の結晶だわ」
「いや、愛瑠さんカレー命でしょう」
愛瑠さんは分かってないわね、とでも言うように指を左右に振る。
あの人、カレー命じゃなかったのか、ピザが好きだなんて聞いたことないぞ……。
「私は美味しいものは全部好きよ」
「ぶっちゃけた! 普通の人なら言わないことをぶっちゃけたよこの人!」
愛瑠さんが「ふふっ」と笑った。
この人、仕掛けてくる気だ! 油断したら……やられる!
「だって、そうじゃない。美味しいものを食べれば私もあなたも幸せ。
ラブアンドピース、よ。どう? ピザ。
私はもちろんチーズがオススメよ、五種のチーズを使ったピザが推奨だわ。
チーズの芳醇な味わいとそのチーズが引き立ててくれるハム。それにピザの生地が絶妙にマッチしているのよ。
我慢なんてできないでしょう?」
「「「くっ……」」」
俺と優衣と谷風の腹の虫が絶好調で狭い室内に鳴り響く。
なんとも間抜けな音だ。
今までの争いなんてなかったような、そんな気がしてくる。
それは他面子も同じのようで、全員口元を押さえていたが、それは谷口を基点に爆発した。
「あはははっ俺らばっかだよなぁー」
「ふふっそうね、私たち、ばかみたいだわ」
「そうだよなぁ~こんなことで言い争ってなぁ……」
「だな。それじゃあ……」
全員がこくっと頷く。
兎風も、愛瑠さんも、優衣も、谷風もわかっているんだ。
俺たちは分かり合えた。
だから――みんなで食べるご飯を決めよう、全員の目が物語っていた。
息があった瞬間から目で合図しなくても以心伝心でわかる。
「「「「「せーのっ!」」」」」
「鳥!」
「豚!」
「牛!」
「ピザ!」
「ケーキ!」
……。
…。
「「「「「戦争だ」」」」」
…
戦争は結局のところ今から買出しにいくのも面倒ということでピザに決定された。
愛瑠さんにピザの話を聞いた時からこれは決まってしまっていたんじゃないかと思う。
腹が減っているのにあんな禁じ手を使ってくるとは、さすが愛瑠さん、汚い。
ちなみに払いは全員が分割して持つので、案外安くすんだ。
ピザの宅配を頼んでから数十分後、ピザの宅配員が寮のインターホンを押した。
事前に話しを警備員に通しておけば学校への出入りは部外者でも可能である。
しかし、話を通していないものは厳重に警備されたこの学校にまず入れないと思ってもよい。
それほど警備の治安が高く、この学校創立以来から外部侵入者はゼロでありこれは驚異的数値である。
「ちょりーっす。お荷物これになりまーす」
「はーい」
「五千円になりまーす」
「はい、これで」
「五千円丁度頂きまーす。それじゃありがとっしたー」
両手が塞がっているので足で玄関を閉める。
後ろで見ていた谷風が、見たまんまの感想を述べる。
「随分。軽薄な宅配者だったな……」
「別に仕事はきっちりしてるからいいんじゃないか。俺は気にしない」
「あら、それはダメね。お客にあの態度はさすがに……ちょりーっすはまずいでしょう」
「いいんじゃね?あたしは好きだぜ、フランクで」
「まぁ……人によるってことで。とっととピザ食おう」
そろそろ腹の虫が限界だ……狭い室内であるため、芳しいピザの匂いが充満するのも一瞬。
なんともチーズの匂いが食欲をそそる。
机にピザ箱を乗せて、全員が円形机に座ったのを確認後、全員がシンクロして頷く。
ついに放たれるパンドラの箱……。
俺たちはついに分かり合い、たどり着いた。
幾多の言い争いという名の戦争を超えて、掴み取ったパンドラの箱、それを開ける時がきた!
ゆっくりとピザ箱の蓋に手をかける。
動作一瞬一瞬が、刹那のように流れ、写真の一コマずつ、一フレーム進んでいく。
パンドラの箱を開いた刹那――芳醇なチーズの匂いが部屋に広がり、俺たちの腹を刺激する。
刺激された腹は体内で戦争でもしているのかというほど苛烈に鳴り響き、周囲の声も何も聞こえない。
俺たちにもう他人は見えない、視線を虜にするのは眼前に広がるピザ。
何を取っても俺たちはこれを食べなければ負ける。何に負けるか知らないが負けるのだ。
だから、俺は八切りにされたピザの一角を取って歓喜に打ち震えながら口へ運んだ。
口の中を幸せの味にするのは芳醇なチーズの味。
チーズが引き立たせるカリッとしたピザ生地やハムは俺の舌を天国へ誘う。
それは全員も同じようで歓喜に打ち震えている。
そこからは――再び舞い起こる戦争であった。
人はなぜ、過ちを繰り返すのか……。
四枚のピザを巡り一人一人の主張を通す戦い! この世界(ピザ)を賭けた戦い!
誰がどれだけ多く食べれるのか、誰が腹いっぱいになれないのか……!
いま、第三次世界大戦が始まる……たぶん。
…
「うむにゃ……まだ食べれる……」
優衣、あんだけ食っといて、まだ食う気なのか!? どれだけ食う気だよ。
第三次世界大戦(ピザ争奪戦)が終了した後、体力を使い果たした優衣と谷風はこたつに丸まりながらダウンした。
二人の勝負は天下分け目の大決戦と呼ぶに相応しい戦いであった。ピザを二人で高速で取り合う様は、まるで獣。
その姿は俺たちを圧倒した。
谷風を負かし最終的に勝ったのは優衣であった。
愛瑠さんというとピザの食べすぎでダウン。愛瑠さんらしからぬ理由だが、どうやらピザは本当に好きらしい夢中で食べていた。
それでぶっ倒れてたら世話ないと思うがな……。
俺は食後に、寮のベランダにでて窓際に座る。
「おおっさむ……」
夜空を覆いつくすのは雲、雲、雲。何を見ても雲だらけで、満天の夜空なんて見れやしない。
車によるガスの蔓延、それに都会の家々による明るさにより星空は隠れている。
「おっ寒い……。こんばんは」
耳にかかる髪をかきあげながら、兎風が寮の部屋からでてきた。
「隣、いいかな?」
「ああ……」
「うん……」
ゆっくりと座った彼女は体育座りをして横顔が天を仰ぐ。
星空なんて見えない、なんてことない今じゃ、普通の空だ。
確か以前に――俺は約束をしてたはずだ。
誰に約束していたのか忘れてしまったのだが、俺はその子たちに一つの約束をした。
いつか――満天の夜空を見せるという約束。
たった一つだけの約束、俺が既に忘れているのだから、約束した人たちも忘れているだろう。
子供の頃のなんてことない一つの契約、今なら山にでもいけば満天の夜空を拝めるだろう。
そんなことすらわからなかった――本当に子供の頃の約束。
小さい頃の約束なんて覚えている奴なんていないだろうが、俺が覚えていたのがびっくりだ。
ふと兎風を盗み見ると体育座りをしながら何も見えないであろう空を眺めていた。
「楽しいか?」
「ん? なにがですか?」
「いまの空は何も見えないだろ? こんな空を見てて、楽しいか?」
兎風は空に目を据えながら答える。
「はい。私は楽しいですよ。満天の夜空が見えなくて残念ですけどね」
「どっかの山にでもいけばいいんじゃないか」
「山……ですか?」
「ああ。都会の光があるところじゃなくて、人口の光がないところにいけば満天の夜空なんて見放題だ。
こんなところで見るより、ずっといいんじゃないか」
「どうでしょうね……私は神風くんと夜空を見るのが楽しいですから」
思わず首をかしげる。
「なぜそうなる。俺はなーんもしてないぞ」
「それで、いいんです。なーにもなくても、それが幸せだって感じるから……私はみんなと入れれば幸せなんです。
このまま何もなければいいのになぁ」
「何もないのが幸せ……変化のない、退屈な日常が幸せ、か?俺はそうは思わないな」
「そう、かな……もしだよ、もし、何かあってその人に会えなくなって……その時、そんなことも言える?
私は無理だよ……もう会えないなんて、私には耐えられないから……」
彼女が言うのは根本的なものだろう。
人の"死"という人が生物故に回避できない事象。生まれた時から決まっている絶対的な終末。
誰しも生きているうちに体験するであろう、絶対的な終わり。
森羅万象――生物が生まれたときから決められた定め。
おそらく彼女が言っているのはそのことなのだ。
「そうだな……辛いなって言いたいが、俺は味わったことがないし……
人は体験しなければ学習出来ない、本当の気持ちはできないから……酷い言いようだけど俺にはわからない
ここで俺が何か言えばきっとそれは、同情だ。そんなものは、兎風も望まないだろ?」
空を見ていた兎風が体育座りの膝小僧に顔を乗せる。
「うん……人に相談したときからきっと答えはその人の中ででてるんだと思うよ……でもね、やっぱり相談したくなる時はあるの
誰かに、聞いてもらいたい時があると思う……」
「兎風の言いたいことはわかるよ……
俺だって誰かに聞いてもらいたいって思う時がある。それを支えてくれるのが親友ってもんだけど、俺はこんな言い方しかできない」
「聞いてもらえるだけでいいんだよ、親友に。それだけで心が軽くなるから」
兎風の言葉には言霊が詰まっているように感じた。
未来の希望へ向かっているような声。彼女は会えなくなったと思った人と会えたのだろう、誰かは知らないが。
だから、この幸せが続けばいいって思っているんだろう。
俺だってそれは思う、でも変わらないものなんてない――だが、今はこの瞬間を大事にすべきだ。そう思った。
いつかは親友といえど離れ離れになるとしても、それを記憶としてとどめておくために今を精一杯大事に、生きる。
「親友……そうだな。聞いてもらって親友の心が楽に、軽くなるならそれは嬉しいことだな
すまん、何か色々言っちゃって……」
兎風は心の底からでてるであろう笑顔で見てくる。
「いいよ、神風くんがそういう人だっていうのはみんな知ってるし――それに話を聞いてもらえただけで満足だから」
「えっ? みんな知ってるって――」
「あっ……うわぁ! 神風くん、見て!」
俺の言葉は歓喜の言葉を漏らす兎風に遮られた。
空を見上げると、そこには白銀の世界を世に構築できる粉が降っていた。
白い――雪だ。それも中途半端な量ではなく、しんしんと降り積もるぐらいの量。二時間もすればそれなりに雪が積もるだろう。
兎風が雪を掴もうと手を伸ばし、雪を手に収める。
「ホワイトクリスマスだな。近年は全然雪なんて降ってなかったから今年は降らないと思ってたが……」
「へぇ……これが雪なんだ。冷たい……」
「雪なんだ、って雪を知らないのか!? 兎風の住んでる地域だって一回ぐらいは降ったことあるだろ?」
「私のところは雪なんて降らなかったよ、だから、これが始めて……雪って幻想的だね」
兎風の手に包まれた雪は、体温で溶けて水になっていた。
それでも尚、また雪を掴もうとする。
「幻想的だけど、儚い、これが雪なんだ……掴もうとしたらすぐに消えちゃう」
「そりゃ、こっちの体温が高いからな……でも、それが降り積もったら手で触ったくらいじゃ消えなくなるさ
それくらい溜まればいいんだけどなぁ」
雪は、思い出だ。
触れば消えてしまう、思い出も密度の薄いものはすぐに消えてしまう、でもそれを積み重ねていけばきっと人生の宝物にも、大事なものにもなる。
兎風が言った言葉、もし誰かともう会えなくなったらという言葉。
それは辛いけど、でも雪のように記憶を積み重ねればずっと消えない……思い出になる。
その思い出は会えなくなっても、ずっと残り続けるから……だから今を積み重ねるのだろう。
繰り返せない、刹那の一瞬を――ふと、意識を外界に傾けると騒がしい声が戻ってきた。
「おっ雪降ってるじゃねーか」
「なにやってるんだ、優衣、ダウンしてたんじゃないのか」
「あたしがあんなことでずっとぶっ倒れてると思うか?」
「思わないが、ずっとぶっ倒れてたらそれはそれで救急車とかを呼ばなきゃならんようになるぞ」
アホな会話をしているところに、さらにアホがきた。
「雪ですか、雪だ雪だ!」
谷風である。子犬のように突然現れて外で走り回っている。子犬のようにと言ったが子犬なんて生易しいもんじゃない。
もっと違う何かだ。
「あー、何……騒がしいわね……って雪……」
愛瑠さんはどうやら雪を見て騒ぐ気はないらしい。それ以前にピザが抜けてないようでかなり気持ち悪そうだ。
「大丈夫ですか、ピザの食べすぎですよ。太りますよ」
俺の太りますよ、という言葉に愛瑠さんはギョロッと顔を向ける。
なんですか、怖いですよ。
「あのね、カサくんは色々女性に気を使うべきだと思うのよ、太るとか言ったら悲しいじゃない」
「そーだそーだ。女の子にそんなこと言うなんて男じゃないぞー」
「うんうん、神風くんは考えるべきだよね」
なんで俺がフルボッコにされているんだ。
「いやでも、愛瑠さんとか優衣とか兎風が太ったくらいじゃ俺はなんとも思わないが……」
「それでもよ、そんなこと言うことにはこうよ!」
愛瑠さんがベランダに飛び出して降ってきた雪から雪玉を作り投げてくる。
避けきれずに俺は顔面に直撃を受ける。
「うおっ……」
「みんなやってしまいなさい!」
愛瑠さんの掛け声で、優衣や兎風や谷風が雪玉を俺に目掛けて投げてくる。
「よーし、やれー!」
「えいっえいっ!」
「おーらっ!」
「お、おい!? なんでぶつけられてるんだよ!?」
「お前は女の敵だ! 男の敵でもある!」
「そーよ! 女性に太るだなんて、禁句よ!」
「そーだ! 女性は太ったら価値なんてないんだぞ!」
どんな美的センスだ。谷風は全国の女性を敵に回したらしく、優衣に狙いを定められている。
「痛っ!? 愛瑠姉さん何するんですか!」
「女性にそんなこと言う谷風くんも敵よ!」
そんなこんなで、男性と女性で雪合戦することになった。
正直結末だけを書こう、俺たちは数敵不利で惨敗、負けた挙句、もう一個クリスマスケーキを買うことになってしまったのである……。
くそう、金が財布から羽を生やして飛んでいく……。
……
時は師走を越えて新しい年月へ。
去年は、春に愛瑠さんと優衣に出会い、夏には兎風に出会った。馬鹿騒ぎできる親友の谷風に出会ったりもした。
出会ってから一年や半年もたつとやはり以心伝心、何を言わなくても全員で初詣に行く流れになっていた。
冬の寒さがさらに強くなる一年の初め、外にはホワイトクリスマス以降、雪が降り積もり一面の銀世界が広がっていた。
最初の数日は全員で騒いでいたものの、全員さすがにやる気を削がされたのかもう騒ぐ気力すらないらしい。
むしろ目は雪ではなく、新年に向けられている。
「今年はどうなるんだろうなぁ……」
今年に対する不安を吐露するとコタツに入って正月特有のテレビ番組を視聴していた谷風が素っ気無く返してくる。
「どうせ勉強とかだろ……まっずっと遊ぶけどな」
「お前はそうだろうな……将来のこと考えたりしないのか」
「そうだな~、アレだ。力仕事になら行くかもな」
「大学に行くという考えは浮かばないんだな……」
「おっそれもそうだな、大学に行けば俺も彼女が――」
「無理だな」
「そんな悲しいこと言うなよ! お前だってできないだろ!?」
「あっ!?」
「あっ!?]
俺がキレた挙句、谷風も逆ギレ。
以前、俺はそこまで彼女が欲しくないと言った、しかし、やはり欲しくなる時はあるのだ……。
自分を分かってくれる相手、心と心でつながれる相手が――しかしそんな相手がいるわけもなく、だからこそ俺はこんな馬鹿なことやっているのだろう。
「お前は周りに女の子がいるだろう! 黙ってろ!」
「愛瑠さんや優衣や兎風のことか? お前もそうじゃねぇか、何言ってんだ!」
「俺はなぁ……俺はなぁ!」
涙声になりながら、言葉を紡ごうとする谷風。
テレビでは正月恒例の「ポロリはないよ! 全員集合!」がやっていて、水着をきた女性の第一走者がプールの上にしかれた浮きを走ってゴールまでたどり着こうとしている。
果たして、ポロリはないよ、と宣言する必要はあったのだろうか。
「どう転んでも楽しい友達ポジション止まりなんだよぉぉぉぉ!」
悲痛な叫びであった。俺の心に重く響き渡るような叫び声である。
「それは俺もじゃないか?」
「えっ!?」
「だって俺は愛瑠さんや優衣や兎風は好きだけど親友として、だぞ? あっちも同じなんじゃないか」
「男と女の友情は成立しねぇよ! 聞いたことねぇよ!」
そうだろうか、大抵の場合は、女側は親友と感じていて男側が惚れると言ったところで破綻するのであり、俺の場合に当てはまるかと言われるとNOだと宣言できる。
なぜかは知らないが、俺は愛瑠さんや優衣や兎風を女性として好きとは見れない。なぜか、などはまったくわからないがそうなのである。
心の中では、長年連れそった親友であり友であるように感じているのだ。
「あら、どうかしらね、成立するかもしれないわよ?」
話題に集中しすぎていて気づかなかったが、少し前から寒い空気が部屋を支配し始めた挙句、風がでてきていたが、なぜか玄関が全開でありそこにいたのは――。
「あ、愛瑠姉さん……それに優衣に兎風に……! イッヒャホォォォォー!」
途中からテンションMAXになった谷風に代わり現状をお伝えすると愛瑠さんが黒い振袖を着ていて、その姿はまるでこの世に現れた織姫。
白い肌に適合した振袖はまるで彼女のためにあるような振袖であり、美しさを演出している。
髪の間からちらちら見えるうなじが実によろしかった。
なんと言っても綺麗の一言であり、シミなどが一切ない白い肌や顔が綺麗である。
思わず時間を切り取って写真にしたい衝動に駆られる。
ずっと見つめていることに気づいた愛瑠さんが珍しい恥ずかしそうな瞳で見つめてくる。
「ど、どう? いつも制服だからたまには、って思ってきてみたんだけど……振袖とか来たことがないから少し胸がきついのよね」
思わずごくりと喉を鳴らす谷風。まだ年が始まったばかりなのに随分とお盛んな奴である。
俺の心臓はどきどきしっぱなしであり、男と女の友情なんて成立するのだろうかという疑念にかられながらも答える。
「え、えっとその……とても似合ってると思います。すごく、魅力的で……って何言ってるんだか」
「そ、そう、喜んでもらえて――」
「なんでお見合いみたいなことしてんの!? 核、あたしも見て感想教えてくれ!」
優衣が愛瑠さんとの間に入ってきたため自動的に視野がそちらに移動する。
長髪を頭の両端で結っているツインテールが動いた反動でぷらぷらと揺れる。
優衣が着ているのは静かに燃えるような紅の振袖で、なぜか腕まくりをしてすらっとした腕を晒している。
しかしあの細腕にはとんでもない筋力が備わっていることを俺たちは知っている。
鉄骨でさえ、拳によりへこむのではないかというほどの力を保有しているのだが、実際にそんなことはしたことがない。
優衣いわく、筋力はあるが骨などは強くないためもし鉄骨なんて殴ろうものなら自分の骨が砕けるようだ。
ただ一つが強くてもそれだけでは意味ないということだ。
さて、優衣の振袖の話に戻るわけだが彼女は活発な性格である、つまりそれほどごちゃごちゃしたものや動きにくいものは拒む。
つまりは、振袖の足部分が完全に外界に晒されていた。
下着が見えるか見えないほどまでに切り詰められた胴より下部分は健康的な足が支配している。
きめ細かに見えて、ましゅまろのような白い肌。
細すぎない健康的な足は、適度な太さが介在されている。
優衣の健康的な体型を紅の振袖が見事に表し、優衣の性格の活発っぽさを引き出していた。
「似合ってるよ、優衣って感じだ」
うーんと唸ってから優衣は何がそんなに気に入ったのか俺たちが直視できないほどの笑顔を浮かべる。
「そっか! じゃあよかったんだ。あたしはこんなもの着たことなかったし、似合ってるかな~って思ってたんだよ
正直可愛いものとか似合わないだろうし……」
優衣が可愛いものが似合わないなんて誰が思っているのだろう。彼女が自分で思っているだけではなかろうか。
彼女は、男性っぽく見られる性格をしていて、男友達も多い。それに友人関係も分け隔てなく人と接しているからスタイルの割に女と思われていないことも多い。
多い、とは言ったものの語弊がある表現だった。
男友達の中には当然、優衣に対して恋愛感情を抱くものは存在しているはず……なのだが、クラスのムードメーカーでもある優衣に手をだせるものは俺のクラスには存在しなかったのである。
臆病者の集まりかっ!
高校生にもなって恋愛に関して奥手だとか言っているのはやる気がないだけだろう。俺のように。
彼女は欲しい、でも動きはしない。
であれば、彼女なんてできるはずもなく……っと考えすぎて優衣が不安な顔をしていた。
目が物語るのは「あたしにはやっぱり似合わなかったのかな……」という乙女らしい言葉。
勝手に俺が変換しているものであり、優衣はこんなことは一切思っていない可能性があることをご理解いただきたい。
「優衣は可愛いものとか似合いそうだけどな……あれだ。カフェのウェイトレスさんとか」
「あら、カサくんはそんなのが好きなのね? 胸元が開いたタイプ?それとも乳袋タイプ?」
「俺は――って何言わせようとしてるんですかっ! 俺の信用が地に落ちますよ、信用問題ですよ」
「えっ……」
「その可哀想って顔で見るのやめてください。本気でへこみますから」
「まぁ、優衣は可愛いわよね。ふりふりしたもの似合いそうだわ」
話を聞いた優衣が顔を赤らめて上目遣いに見つめてくる。どうしてそこでそんなに赤くなっとるんだ。
「や、やめろよ……」
自分から話を振ってきたくせにやめろよと言ってくる辺り、この反応を予測していなかったようだ。
優衣を赤面させた愛瑠さんは頬に手をあてて恍惚とした表情をしていたが、目を合わせてきた。
アイコンタクト受信。
「(この辺で優衣を弄るのはおしまいにしましょ)」
愛瑠さんのアイコンタクトを正確に受理(?)
たぶんした。
きっとした。
もし間違っていた場合の罰ゲームがあるかもしれないが、きっと大丈夫なはずだ……。
アイコンタクト送信。
「(この辺で終わりにしないといけないでしょうね。これ以上したら拗ねるでしょうし)」
アイコンタクト送信完了。
「な、なんだよぉ、私に似合わないなら似合わないっていえよぅ……」
ツインテールをしょぼんと縮みこませて相変わらず赤面している優衣。
その様子を放置できなかった愛瑠さんが一言。
「おじさんといいことしない? あっちで」
「うん……」
おじさん(愛瑠さん)が優衣を連れて部屋の隅に向かった。どちらも振袖だからシュールな光景だ。
しかしおじさんって……変な人じゃないんだから、愛瑠さん自重してくださいよと眼力で送信。
こちらを見ていないため通じない!
むむむ、と唸っていると肩をちょんちょんと叩かれた。
振り返るとむすっとした兎風が睨みを利かせて、腕を組んでいた。
お前はどこのロボットだと言いたくなる風情をしていたが、凄みを利かせているわりに振袖なのでかわいらしいことこの上ない。
「何か言うことはありませんか」
ドスを必死に効かせようとしているのがはっきり分かる声質だ。
本人はいたって真面目なのだが、どうにも凄みかける可愛い声であるので、一切怖くない。
何か言うことはありませんかって今言ったか……。何を言えというのだろうか。
考える。
今日の晩飯何にするかな……冷蔵庫の中に何入ってったっけ。
トマト、ピーマン、ひき肉などなど。
ハンバーグとかどうだろう。トマトでソース作って――。
「ちょっと聞いてますか!?」
「へっ」
いかん。何も聞いてなかった。確かあれだな、言うことだったな……。
「あー、そうだな」
未だにむっとしている。すまなかったから許してくれと言っても許してくれなさそうな雰囲気に、思わずでてしまった言葉。
兎風は実際、モデル系の美人に入るような子である。
年相応の可愛い系の輪郭をした顔。ピョコピョコと滑らかに揺れるポニーテール。すらりと伸びた肢体は美しいものだ。
愛瑠さんや優衣のように胸は大きくないが、それ故に振袖が異様に似合っているのだ。
振袖自体も兎風に似合う白で統一されており、ピンポイントアクセサリーのように入っている桜の刺繍が可愛さを演出している。
人には触れられない、触れると穢れてしまうのではないかと錯覚する神秘の宝石。
まさしくそう例えるのが一番であろう。
考えていたら、自然と言葉がぽろっと流れ出た。
「可愛いな」
「へっ……」
兎風はこの反応を予想していなかったのか、茹蛸のように真っ赤になってしまった。
自分で振ってきたくせに何をやっとるんだ、この娘は……。
両手を左右にフリフリして、可愛い仕草の途端、指をもじもじしだした。
「そ、そんなことないよ。私なんてどこにでもいるみたいな子だし……」
そんな言葉を聞いた優衣と愛瑠さんが近寄ってくる。
まず谷風の第一声。
「それはないよなー」
続いて、優衣の一声。
「ねぇなー」
さらに乗って愛瑠さん。
「ないわねぇ」
全員が否定的な言葉を述べる中、俺も空気を読んで、喉から一声。
「ないな」
涙目になりながら、凛。
「えぇ!? 美風ちゃんみたいに健康的でもないしふーかちゃんみたいにスタイルも私よくないし……ね?」
「あのな、可愛いい奴はえてして自分ことを可愛くないって言うもんなんだよ」
「えー!」
「見てろよ」
いつの間にやら俺の隣にいた谷風を見る。
ぶさいくではない顔、整った、かっこいい顔をしている谷風ではあるのだが、学校ではモテない。
なぜか、それは露骨に女子を見ているからである。
あと教室で馬鹿仲間と女性のここがいいだの悪いだのと騒ぎ立てているから評価が悪くなっていく一方なのである。
「ふむ、ぶさいくじゃない」
「お前いきなり人の顔見て貶すのやめろよ!?」
「けなしてない。お前は自分がイケメンだと思うか」
この時、イケメンならある程度遠慮する者が多い。
自分に自信があるのはいいことだが、過度の自信は身を滅ぼすことを皆にも知っていただきたい。
自分のことを超絶イケメンだぜ?とかいう奴はなんというか。信用ならんだろうしな……。
「おう!イケメンだぜ」
……やはり予想通りの肯定。
「じゃあ、お前はなぜもてないか分かるか!」
「……」
押し黙って指を頬に当てる谷風。
その姿は男には似合わないと思うぞ。可愛い女の子がやってこそ映えるものな気がする。
「そうだな……んん……はっ! わかった! わかったぞ!」
「なんだ」
「性格が良すぎるんだ」
「はっ……?」
なんだと……予想外の答えだ。
誕生日のケーキが予想の斜め上をいくロールケーキだった時のような衝撃。
「なにせ、俺はぱしりが多い。それはきっと誘いやすい性格なんだ。だが、優しすぎるがゆえにそういうことを任されてるんだ! ありがとう、核! 今日はおらおらナンパするぜ!」
「どうしてこうなった……!」
とりあえず、と前置きしてから兎風を視界に捉える。
未だに茹蛸のように赤い顔は、異常に愛らしさを感じさせる。
「自分のことを可愛くない、なんて言ってる奴は大抵可愛いんだ。以上だ」
「えー」
納得していない兎風。
その瞳に影がさした。中々似合わない悪巧みの顔。
「じゃあ、核くんは自分ことをイケメンだと思う?」
「それは――ッ!?」
刹那的に気づいた。肉食獣に草食動物を差し出すかのように危険なことだ。
俺がこの状況でできることは、スルー一択である。
イケメンと言った途端、羞恥から俺のストレスゲージはMAXとなり死にたくなる。
イケメンと言わなかった途端、自身がイケメンと認めているということになり俺のストレスゲージはMAXとなり死にたくなる。
八方塞。
見渡すと全員が笑い顔で見守っていた。
笑顔なのに、天使ではなく悪魔のようだ……悪魔の笑顔だ……。
「あー……」
「はやく」
「はやく」
「はやく」
「はやく」
圧倒的! 圧倒的催促!
この後、俺の記憶は飛ぶ。
え? 飛んでないだろうって、そりゃ当然だろう……忘れるわけないだろう……。
いや、そういうことにしておいてください! 本当に!
……
学内寮での茶番を終わらせてから、冬の寒さが強まる街道を五人で歩く。
人が虫のごとく蠢く環境ではあるが、人によって大気が熱せられることはなく、暑さなど微塵も発生しないほどの寒さ。
単純な構造の部屋では暖かくなるのだろうが、地球という巨大な部屋では暖かくなろうはずもない。
ホワイトクリスマスから数日が経過しているせいで、雪の面影は感じられない。
人波の列は、道路を隔てて左右の街道にだんごのように連なっている。
左が神社に、初詣に行く人。右が初詣が終わって自宅に帰る人、となっている。
中々進まない列に愚痴を零しつつも神社に到着。比較的大きな神社で、かなりの人間を許容できる土地がある、由緒正しい神社。
年始めであるがゆえに、金に貪欲な人たちがここぞとばかりに屋台を出していて、種類も豊富。
定番物のたこやき、焼きそば、りんご飴、射的、からあげなどなど。
一風変わった屋台の看板では、ぷりん醤油寿司なるものが売られていたりする。
食べあわせで、うにと言われるものを集めたのではないかという突っ込みはなしなのだ。
みんな、年始めだから大らかのだろう、きっと。
「なぁ核! 射的やってる、射的!」
今すぐにでも飛び出しそうなほど手をぶんぶんと振り回す優衣。
「まずお参りしてからな。それと手振り回すと通行人に当たるからやめとけ」
「ちぇー……なんかあるかなーっと」
お参りへ進む道から外れない程度で優衣は所狭しと屋台を見回す。
「そんな珍しいものはないと思うけどな……」
「あら。どうかしら? ぷりん醤油寿司があるくらいだもの。梅干とウナギの食べ合わせがあるかもしれないわ」
以前ジュースで見た組み合わせだ。確か記念に一本だけうちの学校の自販機に配備されたものだったか。
優衣が歴戦(自称)を繰り広げて入手したものだった。とても美味しかったらしい。
今度チャンスがあれば飲んでみようと思う。
みんなも限定販売の商品とか買い逃したらアウトだからな! あとで興味がでても買えないんだからな!
「あっー!」
「なんだ、谷風。うるさいぞ、人の迷惑になるだろう」
「なんでお前はいつも俺にだけ厳しいんですかねぇ!?」
「そりゃ、だってな。厳しくもなるだろう。授業中も飯食うわ、寝るわで勉強に追いつけてねぇってのに」
「ははっ!」
自覚があるのだろう。さらっと笑い飛ばす谷風。
「で、だ。見つけちまったようだぜ」
聖徳太子でも本当にすごいものを見つけてしまったのではないかと納得しそうなドヤ顔スマイル。
「何をだ。まーたつまらないもんじゃないのか……?この前はーなんだっけか。エロ本が置いてある自販機だったか?」
「え、えろっ……」
エロという単語を聞いた兎風が思わず真っ赤になる。
下ネタとかそういう話は苦手らしい。愛瑠さんと優衣は気にせず会話参加。
「トリちゃんはエロい話は苦手よ」
「どの口がそういいますか」
「なによ、カサくん? 私はみんなのお姉さんよ? エロい話ぐらい余裕よ」
ほんのり朱色に染まった顔が、見下げてくる。
このまま追撃すれば、ほんのりどころの朱色ではなく、茹蛸のように真っ赤になるのは目に見えている。
「てかさー」
優衣が俺と愛瑠さんの間に侵入。
「とっとと参拝して屋台回ろうぜ!」
「ああ……核心だな。とっとと行こうか」
「えぇ、そうね。屋台で話したほうが面白そうだわ。カサくん、あとで射的で対決でもしてみる?」
「おっ、いいんですか? 俺強いですよ。谷風を負かすぐらいには」
「あれは偶然だって言ってるだろ!? 次は負けねぇ!」
「ほー、じゃああたしもやってみるか! 射的やるぜー!」
振袖で腕まくりした挙句、走り出そうとする優衣を手で阻止。
「なんだよー、はやく射的やろうぜー」
「お前が参拝とっととしようって言ったんだろ……?」
「そ、そうだったな……よし、まず参拝だ!」
優衣、谷風、愛瑠さんが歩き出す中、それを"死んだような目"で見送る兎風を見つけてしまった。
彼女は誰も見ていなかった。空ろな目を浮かべたそれは、まさしく死人の目だ。
誰も彼女を見ていなかった。虚無のような存在感を放つ彼女を気にするものはいない。
彼女一人だけ、時間が止まったかのように動かない。
風が揺らしていた木々が鳴き止み、はっぱは舞い散ることをやめる。
風は寒さを運ぶ仕事をやめていたかのように静まり、刹那の時間であると感じられた。
なんとなしのきっかけもなく、ふと、彼女は瞳を生者の目に戻す。
「神風くん、いかないの?」
俺は言葉を発することができなかった。
今まで陽気で、整然としていた彼女がつい数秒前まで死んだような目をしていた。
それが信じられないほど綺麗な目をして見つめてくる。
「さ、いこう?」
「あ、あぁ……」
俺はその光景に生返事しかできず、兎風にいつの間にか人混みの中、手を引っ張られていた。
……
「あ、やっと追いついてきたわね。なにしてたの?」
「ううん、なんでもないよ」
兎風に連れてこられて、愛瑠さんたちと合流。
連行されている間、俺は口を開かずにいた。
なぜ、兎風はあのような目をしていたのか、それは聞いてはならないことな気がした。
いま、この場で聞くとすべてが音を立てて崩れそうな、そんな予感がする出来事。
兎風は俺から離れ、優衣と谷風の輪に入っていく。
少し離れたところを歩く俺に、愛瑠さんが歩行の速度を緩めて近づく。
「カサくん、元気ないわね、どうしたの? トリちゃんに何かしたりした?」
「……俺は何もしてないですよ。なんだか、兎風が遠い場所に行ったように一瞬感じて……」
「何もない、大丈夫よ。トリちゃんがそんな、遠い場所に行くわけないわ。現に目の前にいるし」
目の前で談笑している彼女は明らかに、さっきの"死んだような目"をしていた彼女ではなかった。
いつもの、どこか抜けていて、妙なところで意地っ張りで、クラスでは委員長をしていそうな優等生に感じられた。
一言一句確かめるように俺は呟いた。
それは、どこかそうであって欲しいという願望をも含めていた。
「……そうですね。いつもどおりの兎風だ。何も変わったところはない。兎風 凛だ」
愛瑠さんが珍しく見せるとびきりの笑顔が目の前に現れる。
「心配することなんて何もないわ。この時間は永遠に続く」
この時、俺は"永遠"という言葉に、疑問を抱かなかった。
ただ、そう続けばいいと思ったのだ。
「ずっと、続けばいいですね」
「続けるわよ。みんなが居ればずっと続けられるわ」
「はい」
全体の列から少しずつ遅れているのを感じたのか、優衣が振り返り手を振る。
「おーい、早くこいよー!」
「おう! 愛瑠さん、ありがとうございました」
「いえいえ、お安い御用よ」
この時、愛瑠さんの顔を見ずに俺は前進し、優衣と合流した。
……
もしかしたら、この時、古風 愛瑠はどうしようもない絶望から抗うためにとびっきりの笑顔を作っていたのかもしれない。
でも、気づけたとしてもそれは意味のないことだっただろう。
俺はこの時点で気づいても何もできなかった。
少なくとも、この彼女たちにはまだ希望が見えていたのだから、俺にすがる理由もなかった。
絶望が見えていても、希望が見えていれば人はそこに進むことができる。そんな風にできているのが人間であり、知的生命体なのだから。
だからこそ、全てが絶望に染まってしまった時、希望が見えなくなってしまった時、人は生きる意味を失うのだ。
重要なピース。
いつの間にか、絶望に包まれていた彼女たちのことを忘れたのだ。
兎風 凛の絶望の瞳、古風 愛瑠のとびっきりの笑顔、美風 優衣の空元気。
記憶の隅の隅、パズルのように合わされば思い出せる記憶の一ピースを失った。
ピースのない記憶は完成しない。完成しても、それは欠落した記憶。
その記憶では意味がない。
……
屋台を抜けた先、境内には人が押し引きしており、一つの波のようになっていた。
しばらく波にもまれたあと、誰も欠けることなく賽銭箱に到着。
「よし! みんなの一年の祈願なんだ!?」
全員が「そうだなぁ」と言った途端、ちゃらちゃらん、と硬貨を投げ入れた音。
優衣が賽銭箱と邂逅し、そして一番乗りで、賽銭箱に硬貨を投下したのだ。
「早いなおい!? お前が祈願聞いてきたってのにッ!?」
「えー、早くちりんちりんって鳴らそうぜ。それに人の祈願なんて聞いてもしゃーねーし」
既に鈴を鳴らすための紐を持ちながらであるため、我慢しきれないことをかもし出している。
「まったく人の話を聞いていない……!」
この女、いつも以上に他人に声を貸さないのである。
優衣らしくない、どうしたんだと怪訝に思っていると心底楽しそうな笑顔を浮かべる愛瑠さんから一言。
「優衣はこういうの、やったことなかったのよ。許してあげて、カサくんッ」
最後のカサくんッは♪マークがつきそうなほどのハイテンション。
続いて、圧倒的ハイテンポで兎風が続く。
「そうだよ神風くんッ今は楽しまなきゃ!」
なんだこいつら……。
妙にハイテンションな小娘三人組を真似て谷風までテンションをあげてきた。
「よーっし、やるぜー! 祈願するぜ、俺は彼女を作ることだ!」
「「「「ないわー」」」」
思わず息のあった冷静な容赦のない突っ込みが谷風の心を抉る。
ハイテンション伝染病とも言うべきものがこの中で散漫していた。
「おいおい、やめろよ! そもそも優衣が祈願とか言い出すからだな……」
「お前、自分に恋人ができるとでも思ってるのか」
「なんでお前は鮮烈な言葉を浴びせてくるんだよ!? 俺だって彼女欲しいんだよ!
この、なんていうんだ」
ぽりぽりと頭を掻いて、照れながら言葉を紡ぐ。
「青春に……さ」
「谷風……」
なぜかしんみりする俺たちに谷風が遠慮しがちに肩を叩いてきた。
「お、お前らといるのが楽しくないって言ってるんじゃないんだぜ……! でも、やっぱ彼女くらい欲しいわけよ
青春、だしさ」
自然に顔を下げ、肩を小刻みに振るわせる。
その光景を見た谷風が心底安心した、信頼の笑みを浮かべる。
「おお……俺のために泣いてくれんのか……なんていい友達だよ! まったく、お前らみたいな奴が近くにいるんだ、青春なんて言って――」
「ぷっ!」
最初に耐え切ることができず、思わず息を吹き出してしまったのは愛瑠さんだが、それを火つけにして谷風以外が我慢していたものを吹きだした。
当然、俺も例外ではない!
「「「「あははははっー」」」」
「な、なんだ!? どうした……!?」
何が起きたのか把握できていない谷風がおろおろと周囲を見渡す。
「はははっいきなり青春とか言い出すからだろ」
あんぐりと口を開けて一言。
「……また俺はだまされたのか! 泣いてなかったのか!」
「なんで泣くことがあるよ!? 青春なんて言葉使うからだろう……」
あくまで彼女に関しては否定しない俺。
ま、男なら誰でも考えることだからな……しかし、いまどき青春と言い出すとは、こいつ随分、恋人というものに対して憧れを持っているようだ。
「だ、だってな!? 青春っつったらやっぱり甘酸っぱい恋とかだろ!?」
「普段モテたいとか言ってるくせにこういうところは随分ピュアなんだな」
「そうねぇ、谷風くんならハーレムとか言い出すかと思ったんだけど」
愛瑠さんの言葉を聞いた谷風が意外にも男らしい一言を口にする。
「モテたいですけど、やっぱり一人の人に思ってもらいたいですから! ということで愛瑠姉さん……!」
「お友達で」
「……優衣!」
めげない男代表、谷風。
「興味ないからパス」
「ふぼぉ……! と、兎風!」
最後にすがりつく先は兎風だが、彼女は優しい性格をしていると外見からは想像しやすいのだが、同情など一切ない言葉を浴びせる。
「お友達で」
「玉砕だな」
谷風の肩をぽんっと二回叩く。
「くっそぉぉぉぉぉ! 俺は……俺はどうしてももてない、三枚目キャラから脱しようとしたのによぉぉぉ!」
「そんな目標があったのか……まず、その軽口をどうにかしないといけないだろうな……」
「いいさ、どうせ俺の人生こんなんだ……」
悟るの早過ぎないか、お前。
「さ、茶番はやめて、とっとと祈願しましょ」
この間、わずか30秒の出来事である。
「ちゃ、茶番……」と衝撃を受けている谷風を置いて、祈願の内容、俺はそれを最初から思い浮かべていた。
全員で、来年もここに集まれますように――それが自然と心からでた一つの願いだった。
誰も欠けることなく、ここでまたこうやって馬鹿みたいに集まれること――それを一番望んでいた。
谷風が青春と言ってそれで笑ってしまったが、俺も同じみたいだな……だからこそ、みんな一緒に居られる親友なんだろう。
……
参拝後、しばらく人波に揉まれながら屋台散策を存分に楽しんだ俺たちは、一度帰宅し、夜になって町の高台に来ていた。
その際、女子陣の服装はなぜか制服に変更されていた。
一言で言い表せない虚無感と共に、男の夢、振袖は無情にも泡のように消えた。
「よし、こんなもんかな」
レジャーシートを設置するための中腰から姿勢を戻して、立つ。
眼前に広がるのは、夜の街の営みを映したミニチュアのようなビルや家々。
周囲を見渡しても居るのはまばらな人たちだ。見る限り学生が多くいて、イベントを今か今かと待ち焦がれているようだ。
「なぁ……空はなんで暗いんだろうな」
俺だけにレジャーシート設置作業を押し付けていた谷風が夜空を見上げながら意味のわからないことをほざいていた。
当たり前のことを言ってやることにする。
「そりゃ、夜だからな」
相変わらず生気のない顔が夜空を見上げていた。
「だよなぁ……」
俺も夜目では色が見難い緑色のレジャーシートに腰を落とし、夜空を見上げる。
満天の星空とは言いがたい都会の星空。
二酸化炭素が充満している都会では、星は本当の姿を現してくれない。
そんな星空を男二人で見上げている姿は他人から見たら、さぞ滑稽だろう。
いつの間にか思ったことを口に出していた。
「俺たち、二人で何してんだろうなぁ」
「だよなぁ……」
「兎風たちは買いだしに言ってくるっつって戻ってこないし、じゃんけんでもするか?」
「だよなぁ……」
「じゃんけん!」
「だよなぁ……」
「ぽんっ!」
「だよなぁ……」
……ダメだこいつ何も話を聞いていない。
何事が起ころうと上の空である谷風に何も言っても無駄なようで、またしばらく星空を見上げ続けるとなぜか、頭にふと、にょきっとキノコが生えるかのようにでてきたのは冬の記憶だった。
俺は確か、こんな風に星空を見る約束をしたんだっけか……誰と見る約束をしたかまで覚えていないけれど、約束をしたことは鮮明に覚えている。
俺とほとんど同じくらいの女の子たちと確か――ん? たち……? 俺は複数の人と約束を結んだ……。
もっと、こんな明るい場所じゃない、もっと暗いどこかで俺は彼女たちと約束したんだ。
いつか、みんなで満天の星を見ようって……でも、満天の星空なんてスポットさえ分かっていればどこでも見れるものだ……なんだ? なぜ、約束した子たちと星空を見ることができなかったんだろう。
頭に疑問符が浮かぶたびに謎は深まり、いつの間にか俺は長考していた。
「お――か――ん!」
よく考えれば、おかしい。
俺は過去に複数の女の子たちと関係を持ったことはない。いや、そんなに仲が良かった子はいなかったと言うべきだろう。
何かが、引っかかる。
しかし、喉から出そうなほど近づきつつあった引っ掛かりは突如肩に置かれた手によって中断させられた。
「神風くん!」
思わず閉じていた目を開いて周囲を確認する。
大きくくりくり開いた目、綺麗な形をした鼻、整ったピンク色の唇。
その顔は見覚えがある顔で、瞬時に理解できた。
「なんだ、兎風」
「なんだ、じゃありませんよ。何度も呼びかけてたのに」
膝を折って、スカートの中がぎりぎり見えない角度で維持していた兎風が俺の肩から手をどけて、そのまま両手でスカートを抑えながら足を立たせた。
「いや、すまん、ちょっと考え事しててな」
「考え事? どんな考え事ですか?」
兎風は笑顔で見てくる。見るものの全てに笑顔を与えそうな笑顔だ。
その笑顔を見ながら、さっきまで考えていたことを口にしようとするが、それは魚が餌を手に入れるようにぱくぱくと口を動かすにとどまった。
「……あれ? 俺、何考えてたんだろ。何か、大切なこと考えた気がするんだけど……」
「忘れるってことはそれほど重要じゃなかったってことじゃないですか?」
この時の俺に、兎風の言葉に疑問をはさむ余地はなかった。なにせ、違和感すら覚えなかったのだから。
「そうだな。きっとなんでもいいことだったんだろうな。ところで、愛瑠さんと優衣は?」
言った途端、「ここにいるぜ!」「ここにいるわよ」というなんとも二人の言葉だと分かりやすいものが聞こえた。
どうやら、谷風の隣にいるらしく、ここから見えていなかったのだ。
谷風は未だに生気のない目で空を見上げている。
一体何がこいつをここまでにさせたんだ。大方予想するところで言えば振袖が消えてなくなったことなのだろうが……十分堪能しただろう。
夢は終わりだ、谷風と心の中で呟く。どうせ言葉にだしても谷風には届かない。
「あっ、そろそろ始まるみたいですよ」
兎風が嬉しそうな声をあげると周りからも歓声があがった。
なんのためにここに集まったか、今思い出したのだ。
「花火大会だったな、そういえば」
「もうっ忘れてたの? 花火大会見るからって全員でジュース買いにいってたのに。はい、神風くん」
膝を体の前面に出して、手で膝を抱え体育座りの姿勢でレジャーシートに兎風が座る。
その動作中に俺に缶ジュースを手渡してくれる。
中身はコーラ。
「お、コーラか。ポテチもあると……」
「はい、ここにあるよ。みんなで食べようね」
「ああ」
プルタブを開ける。カシュッと多少の炭酸が抜ける音が聞こえてきて、我慢できずにコーラをまずは一口。
「ぷはー、生き返るなぁ」
そんなことを言いつつポテチをむさぼる俺。
「おじさんみたいだよ、神風くん」
そんなことを言ったそばから、隣の隣から同じく「ぷはー!」という言葉が聞こえる。
「やっぱ冬の日に飲むアクエリアスは最高だぜ!」
「それ、冬の日と何か関係あるのかしらね、あなたの場合いつもじゃない?」
「なにおう! 愛瑠さんだっていつも同じのばっか飲んでるじゃねーか!」
「だってこのお茶美味しいのよ、ほのかな苦味が適度に喉を刺激してくれるのよ。あなたも飲みなさいな」
「いや、この前飲んだから遠慮しとく」
「ふーん? 感想は?」
「苦かった」
「まだまだ子供ね」
「あんだけ甘口のカレー押す人もどうか――」
「何か言ったかしら」
「な、なんでもない!」
「そう、よかった」
ふふっという愛瑠さんの笑顔から来る言葉が冬の空に残った。
やっぱり、愛瑠さん怖いよ……。
「そろそろ一発目があがるみたいだよ、神風くん」
愛瑠さんと優衣の会話を集中して聞いているうちにどうやら、発射体制は完了したらしい。
レジャーシートから町並みを見上げながら、遠い川から花火は上がる。
冬の澄み切った空に木霊するのは花火の火薬が炸裂する音。そして、色とりどりの花火の数々が空に舞い上がっては幻想のように消えていく。
「わぁ」
「すごいな……」
「おっ花火か」
「谷風、復活したのか」
花火の音を聞いた谷風がいつの間にやら復活していた。
「落ち込んでたんじゃないのか? 振袖が消えて」
「そうだけどな、それで立ち止まってられないだろ!」
その結論を出すのに所要した時間、約一時間である。どれだけ無駄な問答をしていたんだ、こいつは。
「まぁいいけどよ……あんまり騒ぐと迷惑に――」
「おおー!すっげぇー!」
優衣の驚きと歓喜を含んだ声が周囲に木霊する。
「お前もちょっとは落ち着け!」
「だってさー花火って見るの初めてなんだよ、綺麗だなー」
「そんなこと言ってもできるだけ静かにしとけよ……?」
「わーってるわーってる! お、なんだありゃ!? どんどん花火の色が変わっていく……!」
「ああ、あれはね――」
「たーまーやー」
それぞれが、それぞれの楽しみ方をする中、俺はふとしたことを思い出していた。
「そういえば、兎風」
「なんですか?」
花火を真剣に見ていながらもこちらに耳を傾けているらしい。顔まではこちらを向かない。
なら、俺も幻想のように変化する花火を見ながら言うことにする。
「いま、幸せか?」
前にこのままの停滞を望んだ彼女に問いかけてみる。
彼女は言った、このまま何も変わらなければいいと言った。
「……えぇ、幸せですよ、とっても――」
幸せ、その言葉は今も変わらなかった。
だが、後に続く言葉は違った。
「――ずっと、このままが続けば……よかったのにな」
……
この時から、すべては始まっていた。
俺と凛、優衣、愛瑠さん、全てを取り巻く運命の歯車は音を立てて進み始めて、いつしか、運命の歯車は脱線し、それぞれの運命を分けてしまっていた。
もう止まれない、それだけを示すかのように、歯車は周り続ける。
……
タタミ一畳分のスペースに本がぎっしり置いてある部屋。
そこの中央で彼女は止まることのない涙を川のように流していた。
「うぅっ……うぅぅ……あぁぁ……」
彼女を攻め続けるのは彼女自身。
停滞を望んだ彼女に対して現実は否応なく時を進めることを強制した。
彼女が望めば、もしかしたら永久の時間は手に入るかも知れなかったし、親友を消さなくてもよかったのかもしれない。
一人になった今、彼女を停滞させるものはない。
進むしかないのだ。ここまで言ってしまった以上、最初に歯車を狂わせたのは、美風 優衣。
次に歯車を狂わせたのは、古風 愛瑠。
そして――彼女は狂ってしまった歯車を戻す役割を持っていた。
扉が旧い木の音を立ててギィィと開いた。
そこにいたは、憮然としている父。
「お父さん……」
「ここで何をしている」
「少し資料を見ていました」
父の目は明らかに、自分の娘を見る目ではなかった。
狂信者の目でも――無感情な目でもない。
ただ、それが当たり前であるという目を見るたびに彼女――兎風 凛は胸をえぐられる。
「資料を見ている暇があればとっとと地上へ行くんだな」
「はい……分かっています。行ってきます」
誰に言ったわけでもない行ってきます。
当然、父はその言葉に耳を傾けなかった。
反応がないのは知っていたとばかりに無表情の凛は父の横を通り過ぎる。
それが、この二人の親子の姿。ただの当たり前。
しかし、父は通り過ぎた凛を見ることもなく、別の言葉を言った。
「緊急事態、B-01が発令された」
「えっ……」
B-01、緊急の命令だ。
凛にはそれを聞いただけで、それがどれだけ自分に"大切"なことか分かった。
「それ……って……」
無表情だった凛の目が潤む。力が抜け、膝はかくんと人形のように崩れる。
「そうだ。ブラックボックスに選ばれた能力者でお前は一番能力が高い、存続できるエネルギー量も多いだろう。だからお前が生贄になるのだ」
「……」
目の焦点が定まらないと同時に、凛は「ああ、やっぱりか」と思った。
ここで拒否すれば、きっと優衣や愛瑠が代わりにされるのは分かっていた、それにここで拒めばきっと――。
(私はいらない子になる……)
父と話す理由すら取り上げられるのだ。
だから、拒否する理由など、微塵もなかった。
絶望に瀕した凛の顔を見てか知らずか父は提案を言った。
「それか、神風 核をとっとと融合させればいいのだ」
それを聞いた凛が首をあげる。必死な顔で父に擦り寄る。
「ダメっ……それだけはっ……やめて、ください……彼はっ何も……知らないからっ……」
「だったら、できるだけエネルギーを与えられるようにしておくんだな。お前の代わりなどいくらでもいるのだから」
「は、い……」
絶望する凛を置いて、父は――兎風 彗は無感情のまま、去っていく。
In old days episodeⅢ 「END」
third episode:rewriteへ続く
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