あのオルタナ事件、真相。

木沢 真流

第1話 プロローグ

  ——はあ、はあ、はあ……

 

 荒い息づかい、練習ではない、夢でもない。心臓が今にも口から飛び出しそう、とはこのことだ。彼女の命はまさに風前の灯火、死が目前に迫っている。 


 女性はパジャマ姿だった。白をベースに、小さなバラの花が可愛らしく散りばめられた寝巻き。いかにもぐっすり眠れそうだ、にでもならなければ。今の彼女は入眠どころか、次に目を閉じたらもう二度とそのまぶたが再び動くことはないだろう、そう永遠に。


 額からの冷や汗がぽつり、膝の上に垂れる。そこは先ほどからの冷や汗で水たまりができていた。

 唾を一つ飲み込んでから、再びはあはあ、と過換気が始まる、あともう少しで手足がしびれて来そうだ。 

 ソバージュのかかったブロンズの髪にぱっちりとした青い目と、先の細いあご。40代そこそこだろうか、その整った美しい眼鼻立ちのせいか、その実年齢より若くみられるだろうその金髪の女性は、かれこれ数時間かき続けた冷や汗のせいで、髪全体がしっとりと鈍い質感を呈していた。


 もう一度つばを飲み込んでから、改めて自分の首元を確認してみる。

 状況は変わらない、やはりアレは自分の首元に巻き付いたままだ。

 アレのせいで、立ち上がることもできない、ここ数時間ただひたすら膝を折って地面に座り込んだままだ。


 視線を上にあげてみる。

 その先には、壁掛けテレビサイズの大きなデジタル時計があった。

 そしてそれはタイマーのように少しずつ時間が減っていく。


 ちょうど10分をきる時だった、突如鼓膜が破れそうなけたたましい音が、ワンルームほどの空間に鳴り響いた。

 そして機械音のアナウンスが、無機質に喋りだす。


『強制ログアウトまで、10分を切りました。直ちにオルタナからログアウトしてください。直ちににログアウトしてください』


 虚しいアナウンス。

 本来なら、警報とはこれから来る危険を避けるために存在するべきなのだろうが、この状況ではただ単に彼女の恐怖心を煽る以外の何物でもなかった。


 無情にもタイマーは5分を切ろうとしていた。

 さらに警報ブザーは激しく鳴り響く。


『リミットまで5分を切りました。ただちにログアウトしてください。これは訓練や演出ではありません。最終通達です。直ちに……』


 女の息づかいはさらに荒くなった。

 息のしすぎで、喉は完全に干からびていた。

 もう一度、首元を見る。


 ——ある……やはりまだアレはある。


 彼女の首元。そこにあるのは、自分の首など一瞬で切り飛ばす事の出来る「鎌」だった。


 そしてそれを持っているものは……。

 ゆっくりと自分の背後に大きく立ちはだかる黒い陰を見上げた。


 ——死神。


 黒いヴェールに二つの光る目。口元はドクロのような笑い顔を浮かべ、女性の後ろに寄り添うようにその黒い影は立っていた。

 そして彼女の首に鎌をあて、微動だにしない。


 彼女は知っている、ログアウトするには目の前のスイッチを押せば良い。

 そうすれば現実世界に戻り、全ては何とかなるはずだ。


 しかし全く動けない。ただただじっとして、まるで死神に命を食われるのを待っているようだ。

 これは一体何? いたずらなのか、それとも悪い夢?

 もしこれが夢なら早く覚めて欲しい……


『強制ログアウトまで1分を切りました。緊急事態です、強制ログアウトされた場合、脳に障害が残る可能性があります。直ちにログアウトしてください。緊急事態です』


 最後の力をふりしぼって、手を伸ばす。


 ……まったく動けない。

 死神の鎌を首にかけられた女は、だらりと冷や汗をたらすばかりで、彼女の命を繋げるための成果は何一つ得られない。


『5、4、3、2、1。強制ログアウトを実行します』


 死を確信した女は心の中でこう呟いた。


——ヨシュア、ごめん。母さんはもう駄目みたい。せめてあなただけでも……


 ビー。


 激しいブザーとともに、女は目と口を大きく見開いた。

 そして弾丸が脳天を貫通するような衝撃を受けるとともに、辺りはまばゆいばかりの光に包まれた。



 その日、緊急速報が流れた。

 内容はオルタナクラッシュ。被害者がまた一人増えたとのことだった。

 オルタナ利用者による原因不明の死。これはここ数日続いている一連の現象と酷似しており、警察はこれら事件の関連性を調査しているとニュースは伝えた。


 犠牲者はこれで3人目。

 一方でオルタナの管理会社であるアプリコット社は、この一連の事件と当社の関連性を否定している。


 しかし彼女の死こそ、これから始まる大いなる惨劇の序曲となることに、この時誰も気づいていなかった。


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