其ノ弐拾壱 ~鬼トノ対峙~


 琴音の部屋を後にし、一月は廃屋の仏間へと向かっていた。この廃屋に初めて足を踏み入れた時、鬼と成った琴音と遭遇した場所である。

 前回と違う事は二つ。

 今回は千芹が居る事、そしてもう一つは――廃屋の様子。

 雨粒が廃屋の屋根を叩く音が響き続け、雨漏りの水滴が落ちる音が、嫌でも一月の耳に入る。


「……」


 たかが水の落ちる音でも、不気味な廃屋の中では何故か、一月にはおどろおどろしく聞こえた。

 周囲の雰囲気に無意識に緊張を感じているに違いなく、言葉が発せない。


(……)


 彼の後ろに着いて歩く千芹、彼女もまた、無言で一月の背を追っている。

 その手には、古びた真剣が握られていた。道場で見つけた、鬼と相対する事の出来る霊刀――天庭が。

 程なく、一月と千芹はその場所に辿り着いた。恐るべき出来事に遭遇した仏間へと続く、襖の前に。


「っ……!!」


 襖を開けようとした手を、一月は止めた。

 彼が漏らした声が、雨音に混じる。


(この場所は……)


 一月は躊躇っていた。

 以前訪れた際、この襖の向こうの仏間で何を見たのか、どんな目に遭ったのか。

 一片も漏らさず、一月は覚えていたのだ。まるで解剖されたカエルのように腹部を裂かれた二人の女子高生。忘れようとしても忘れられない、吐き気を催すような恐ろしい光景を。

 他にも、鬼と成った琴音の姿や、彼女の体温を帯びていない手、彼女が自身に向けた殺意に満ちた瞳、一月は鮮明に覚えていた。


「いつき?」


 襖を開けることに躊躇する一月を見上げつつ、白和服少女が声を掛ける。

 千芹は一月の心中を察していた。


「……大丈夫」


 琴音を、鬼を止めなければならない。

 悲劇の連鎖を、ここで断ち切らなければならない。それは、自分にしか出来ない事。一月はそれを理解していた。


(そうだ、ここで終わらせる……!!)


 躊躇の念と恐怖を使命感で塗り潰し、一月は襖を開いた。


「っ!?」


 その瞬間、急に空気が重く、冷たくなった。

 まるで錘を背負い、冷風を浴びせられているかのような感覚が全身を覆い包む。


(死体が無い……!?)


 襖の向こう――仏間には女子高生の死体が無かった。

 代わりに、畳の床に巨大な黒い染みが出来ている。黒いインクをバケツに入れてぶちまけたかのような染みで、そこからは肉を腐らせたかのような腐臭が漂っていた。

 血塗れの肉塊と化した人間の姿を再び見ずに済んだのは良かったが、一月は死体が消えている事に言いようの無い不気味さを感じた。


「……!!」


 しかし、一月には鼻を覆う仕草を見せない。

 彼の視線は、仏間の中央に立っていたその少女に集中していた。

 居た――鬼と化した、琴音だ。


「いつき……!!」


 黒い霧に包まれた少女の姿を視認すると、千芹はその手に持っていた天庭を一月に手渡した。

 彼女は空いた両手で、印を結び始める。


「天庭を抜いて」


 千芹に言われるまま、一月は天庭の柄を握った。

 馴れない、真剣の柄の感触。


(……木刀とも竹刀とも違う)


 戸惑っている時間は、無かった。目の前の鬼が何時襲ってくるのか、分からない。

 僅かばかりの後、一月はゆっくりと真剣を鞘から抜いた。


(真剣……本物の剣)


 鞘や柄の部分は古びているものの、刀身は鋭利で鋭く、銀色の眩い輝きを持っていた。

 初めて間近に見る、本物の剣の刀身。

 少しの間、一月は好奇的な眼差しで天庭を見つめていた。しかし、今の状況を思い出し、彼は剣を構える。真剣をどのような構えで扱えば良いのかは分からなかったが、とりあえず一月は剣道で学んだ構えを取った。


「行くよ……!!」


 全ての印を結び終えると同時に、千芹は一月に告げた。

 途端、千芹の体が青い光を纏う。病院で見た時と同じように、千芹の体が宙に浮き上がり、大きな青い光の玉と姿を変え――天庭に、千芹が一体化した。

 天庭の刀身に纏った青い光で、薄暗い仏間が照らされる。

 今、天庭に千芹の持つ精霊の力が宿ったのだ。ただの古びた剣が、鬼を倒す武器へと変化したのである。


《いつきお願い、ここであの鬼をとめて……!!》


 千芹の声が、一月の頭の中に浮かぶ。

 剣に乗り移っている状態でも、彼女は一月との意思疎通が可能なのだ。


「分かってる、止めてみせる……!!」


 青い光を纏った天庭を固く握り、一月は決意を確固たるものとする。

 彼の視線の先には、鬼と成った琴音が居た。


(これ以上、誰も鬼の犠牲にはさせない……)


 眼前に居る少女は、もう琴音では無く鬼。一月は自身にそう言い聞かせる。

 もう彼女は、琴音では無い。自らの怨念の捌け口として人を襲い、凄惨極まる悪夢と悲劇を齎す恐るべき化け物、鬼なのだと。


《殺してやる……》


 鬼と成った琴音は、一月を見つめつつ意思を発した。

 彼女は前髪の隙間から、恐ろしい目で一月の姿を捉えている。その体からは、まるで煙のように黒霧が瞬いていた。

 琴音は、鬼は本気で一月を殺すつもりなのだ。


《いつき、くるよ……!!》


 千芹の声が、一月の頭の中に響く。

 琴音が黒霧による攻撃を仕掛けたのは、ほぼ同時だった。

 鬼と成った少女は、その片手を一月に向ける。同時に黒い霧が、彼に向けて一直線に放たれた。


「!!」


 それに気づいた一月は、瞬きをするのも忘れる。

 この霧に捕まればどうなるのか、彼は身を以て知っていたからだ。

 不気味極まりない黒霧は、まるでそれ自体が命を持っているかのように一月へと向かう。


《振って!!》


 黒霧を避けようと考えた時、一月に千芹の声が聞こえた。


「えっ!?」


 一月は戸惑う。

 剣で黒霧を防げるとは考えにくかったものの、考えている余裕は残されていなかった。姿の見えない少女に言われるまま、一月は黒霧に向かい、薙ぎ払うように天庭を振る。

 千芹の霊力――青い光が、三日月のような形状の青い軌跡を作り出した。

 同時に天庭に黒霧が触れ、火花が散るような音と共に青い光の粉が飛散する。


(……防げた!?)


 天庭で払った黒霧が、消滅した。

 千芹の指示に従った一月は、正しかったのである。彼女の霊力が宿った天庭ならば、琴音が作り出す黒霧を打ち払う事が出来るのだ。


「……!!」


 一月は直ぐに、天庭を構え直した。

 真剣は木刀や竹刀よりも重く使い慣れないが、今はそんな事を言っている状況では無い。

 相手にしているのは、人智を超えた存在である鬼。一瞬でも気を抜いたり油断したりすれば、何をされるか分からないのだ。


《いつき、上!!》


 不意に、千芹の声が一月の頭に響く。


「はっ」


 天庭に宿っている少女に言われるまま、一月は視線を仏間の天井の方に向けた。


「っ!!」


 瞬間、一月は驚愕する。

 眼前に居た琴音が、いつの間にか一月の真上に居たのだ。

 瞬間移動でもしたというのか、と一月は思う。次の瞬間、琴音は一月に向かって落ちて来た。黒霧を使わず、直接彼を襲うつもりなのだ。


(くっ……!!)


 琴音からの不意の攻撃、一月には回避する余裕も、天庭を構え直す猶予も無かった。

 落下する形で落ちて来た琴音は、そのまま一月に圧し掛かる。


「がはっ!!」


 初めに一月は、腹部に強い衝撃を感じた。

 落下の速度も加え、琴音の膝が彼の腹部にめり込んだのだ。仏間の床に仰向けに倒れ込み、背中が畳に着く。

 次の瞬間、一月は琴音に首を締められた。


「ぐっ!!」


 仰向けの体制で仏間に伏す一月の体に、琴音は馬乗りの体制で圧し掛かっていた。

 彼女は縺れた前髪の隙間から覗く恐ろしい瞳で一月を見下ろし、両手で彼の首を締め上げる。


《殺してやる……》


 投げ付けられる殺意の言葉。

 人間の体温を感じさせない冷たい両手が、徐々に一月の首に食い込んでいく。


「ぐう、う……っ……」


 琴音の手をどうにか振りほどこうとした時、一月は気付いた。

 彼の手から、先程まで握っていた天庭が離れ、側の畳敷きの床の上に落ちていたのだ。

 一月の手から離れてもなお、天庭は千芹の霊力により、青い光を帯びている。


《いつき、拾って!!》


 首を圧迫される息苦しさに耐えつつ、一月は天庭に向かって手を伸ばす。

 指の先が天庭の柄に触れたが、もう少しの所で届かない。


(あと……少し……!!)


 一月の上に圧し掛かる琴音は、一月の首を締め続ける。

 彼が天庭を拾おうとしているのも厭わずに、一月の息の根を止めようとしていた。


「がっ……!!」


 さらに琴音は、両手に力を込める――無意識に、一月は口を開いていた。

 首を締められる時間と比例し、一月の苦しみも増大していく。

 そして、一月の苦しみが極限にまで達した瞬間、


「!!」


 一月の右手が、仏間の床に落ちた天庭に届いた。

 喉を襲う苦しみを押し留め、彼は青い光を纏った天庭を握り直す。

 そして、苦しげだった表情を凛とした面持ちに直し――。


「っ……あああああっ!!」


 空気が漏れるような音が混じった叫び声と共に、彼は天庭を横向きに振り抜いた。自身の上に圧し掛かり、首を締めていた琴音の腹部を切り付けたのだ。

 千芹の霊力を宿した天庭の刃が、琴音に触れた瞬間。


《ギャアアアアアアアアッ!!》


 青い火花が瞬き、琴音の体が後方へ弾け飛んだ。

 一月の首を締めていた手も離される。天庭で腹部を一閃された琴音は、まるで化け物のような悲鳴を上げた。


「ぐっ!! ごほっ……!!」


 首絞めから解放された一月は、咳き込みつつも立ち上がる。

 右手にはしっかりと、天庭を握っていた。


《いつき、大丈夫!?》


「ん……っ……大丈夫、首を締められるのには、少し慣れた」


 一月が鬼と化した琴音に首を締められたのは、これで三度目だった。

 呼吸を回復させると、彼は青い光を纏った霊刀を片手に歩み寄る。

 腹部を天庭で切り付けられ、千芹の霊力によって多大なダメージを負った、琴音に。


《…………!!》


 鬼と化した琴音は、まるで地を這うカメレオンのような態勢で仏間の床に伏していた。

 自らに歩み寄る一月に気付き、彼女は前髪の隙間から覗く目で、彼を見上げる。

 立ち上がろうとはしなかった。一月の目から見ても、琴音が相当な痛手を負った事は明白である。


「鬼……!!」


 険阻な眼差しで、一月は琴音を見下ろした。今、自身の足元で伏すこの鬼は、琴音や多くの罪無き人間を殺し、取り込んだ。

 そして、多くの悲しみを生み出したのだ。


(ここで……!!)


 天庭を握る一月の手に、力が籠った。ついこの前まで、戦う事を躊躇っていた自分自身が恥ずかしくなる。

 そう、姿こそ琴音でもこれは鬼。琴音を殺し、その姿形を奪い取った化け物なのだ。


「全部……終わらせる!!」


 一月は、足元に伏す琴音に向かって天庭を振り上げた。剣に纏った青い光で、仏間が淡く照らし出された。





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