其ノ弐拾 ~再ビ廃屋二~
病院を後にし、一月と千芹はその足で廃屋へと向かった。秋崎の廃屋――生前の琴音が祖母と二人で暮らしていた家に。
「昨日よりも、気味が悪いな……」
灰色の空から降り注ぐ雨粒を傘で防ぎつつ、一月は廃屋を見上げた。
一月が初めて来た時は、雨は降っていなかった。雨の中に佇む廃屋は一層不気味で、悍ましく思えた。
「……行こう」
天庭を抱えて後ろに立っていた千芹に、一月は促す。
どれだけ不気味で悍ましくとも――恐れを抱いている余裕など、一月には残されていない。
彼に残された選択肢は、ただ前に進む事だけだった。
「うん」
千芹は頷くと、一月は廃屋の入口へ足を進める。
人の手が入らなくなり草木が繁茂する庭、そこ敷き詰められた敷石の水溜りが一月に踏まれ、小さな泥水のしぶきを上げた。
雨水と草木の織り成す独特の匂いが、一月の鼻腔に流れ込んでくる。
一月は引き戸を開け、廃屋へと足を踏み入れた。
◎ ◎ ◎
(ここは、初めて来た時のままか……)
廃屋の内部は、初めて来た時と同様に恐ろしく不気味だった。
至る所が剥げ、木目が剥き出しになった壁、天井の一部の腐り落ちた梁、至る所に張った蜘蛛の巣に、土やカビの匂いに淀んだ空気。
さらに今度は、雨水が屋根を叩く耳障りな音が加わっていた。
「っ!?」
突然、一月は首筋に冷たい物を感じた。彼は首筋に当てる。
何かの水滴のような物が、彼の手に触れた。
(……何だ、雨水か)
天井を見上げると、腐食が進んだ天井から雨水が滴っていた。雨漏りをする程に、この廃屋は荒廃していたらしい。
ポタリ、ポタリ、ポタリ……と、雨漏りの雫が滴る音が一定の間隔で響いていた。
「……」
前回同様、土足で廃屋内を歩き始めた一月。
琴音と遭遇した仏間へすぐに向かおうとはせずに、彼は向かって右側にあった扉の前で、足を止めた。
「いつき?」
千芹が呼びかける。彼女は鞘に納められた天庭を抱え、一月の後ろに着いて歩いていた。
一月は眼前の扉に視線を集中させつつ、応じる。
「……ちょっと、見て行きたい物があるんだ」
同時に彼は扉を開けた。扉の向こうは、琴音の部屋である。
以前訪れた際、この部屋で一月は琴音の日記を見つけたのだ。彼女が鬼に殺される原因となった出来事が綴られていた筈の、灰色の日記帳を。
前来た時に一月に突き放されたまま、投げ捨てられるように床に放置されていた。灰色の表紙にサインペンで『日記帳』、その下に『秋崎琴音』と書かれたノートだ。
一月は、日記帳を拾い上げる。
「それ……ことねの日記帳?」
古びた刀を抱えつつ、白和服少女は一月に問いかける。
一月は頷きつつ、日記帳のページを捲っていた。
彼が探しているのは、九月二十三日のページ。即ち、琴音が殺される前日の日記である。
「……」
千芹は、琴音の部屋の中を見渡していた。
風雨に晒されてボロボロになった、土まみれのカーぺット。散乱した筆記用具やプリントファイル。
琴音という主を失ってから、この部屋の物は長らく放置されていたのだろう。
「……!!」
千芹は、部屋の隅に視線を留めた。
窓と反対方向に位置する部屋の一角には、何かのプリントやノートなどが、まるでゴミの集積場のように溜まっていた。
割れた窓から侵入した風で、部屋の隅に飛ばされたのかも知れない。
と、その時。
「あった、このページ……」
灰色の日記帳のあるページを、一月は千芹に見せた。
日付は九月二十三日だ。
「このページにきっと、琴音が鬼に付け入られる理由になった出来事が書かれてたと思うんだけど……」
千芹は一度天庭を床に置き、一月が差し出した日記帳を受け取る。
書かれていた内容は、
『二○××年、九月二十三日。
今日、いっち×と×××を×た。
彼とこ×な風に×ン×したこ×は、今×で一度も無××たと思×。
××ちぃ、ひ×い事言×て』
汚れと傷みが酷く、断片的にしか読み取れない上、そこから先の部分が破り取られているのだ。
「…………」
無言で、千芹はそのページを見つめていた。
そして彼女は一月の顔を見上げて、問う。
「いつき、何かおぼえてないの? この日の事……」
千芹の問に、一月は首を横に振った。
「思い出せないんだ、どうしても……」
頭に手を当てつつ、彼は続ける。
「何だか、その日の記憶だけが抜け落ちているような感じで……」
琴音が殺された九月二十四日の前日、九月二十三日の出来事を、一月は病院で千芹の話を聞いた後に何度も思い返していた。
けれども、彼は思い出すことが出来ずにいた。
「上手く言えないんだけど、思い出せないって言うより、その日の記憶そのものが存在しないみたいな……」
一月は、千芹が持つ琴音の日記帳を指差した。
割れた窓からは、雨音が喧しく室内へ侵入している。
「その日記帳をもう一度見たら、何か思い出せるかも知れないと思ったんだけど……」
彼の期待は、空回りだったらしい。日記を見ても、一月は特に思い出せる事は無かった。
「無駄な寄り道だった。行こう」
千芹に促して、一月は琴音の部屋を後にする。
彼の後に続こうとした千芹は、部屋の隅のプリントやノートが落ちている一角で、足を止めた。
風雨や陽の光に晒されて、ボロボロに色褪せた無数の紙類だ。
その中の一枚の紙を、千芹は手に取った。
(……)
一枚の、破れたノートの切れ端だった。
彼女はそのノートの切れ端と灰色の日記帳を和服の袂へ仕舞い、先程床に置いた天庭を拾う。
そして少女は一月を追い、部屋から出て行った。
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