ようこそ転職の館へ!
天野 アタル
第1話 転職の館という名のハローワーク
1
なんとも顔色の悪い人だと、私はまず思いました。
続いて、ものすごく老け込んでいると。目の下のたるみ具合が酷い。頬も痩せこけている。此処何日も安眠できていないような肌の色は土色だ。
テーブルの上に握り合わせた拳と会話するように見つめて、その人は悲愴感漂う表情で深い溜め息を吐き出す。恐らく今日で七、八回目。
平凡そうに見えてなかなかシビアなこの社会、そりゃあ時には荒波に揉まれることだって誰にでも等しくあるわけです。
そうそう、どんな世界にもありますよ。悪いことがあるから良いことが引き立つんですね、幸せの味をヒトが噛み締めることができるのは、悪いことがあるからなんですよこれ。逆も又然り。甘いものばかりじゃ飽きますでしょう。
とはいえこの人の蓄積させた悩みのレベルは、こんな初対面の私なんぞがとやかく言って解決させられるようなものではない気がしますが。
さてはて。
「ええと。なにか召し上がられますか。軽食でよければ適当に作らせて頂きますが。――サンドウィッチ、ホットサンド、ああ、そう。最近エッグベネディクトに凝ってるんですよ、
「……」
おおっと。 恨めしそうな顔をされてしまいました。
残念。 食事はご所望ではないようだ。
というより、これは重症だ、食欲すらも湧かないのでしょうね、お気の毒に、はやくなんとかしないと。
「ええでは、お飲み物をご用意致します」
急がず焦らず立ち上がり、私はテーブルを離れ、応接室に備えてあるケトルに水を入れ。コンロのつまみを捻った。
戸棚から接客用のティーカップを二つ取り出し、砂糖とミルクの小瓶も出す。
「ジャスミンとアップル、ベルガモット、ダージリン、アッサム……お好みは御座いますでしょうか」
「……」
後ろから返事が返ってこない。
もしやお客様はコーヒー派?
困った、うちには紅茶しかないんですが。
テーブルに取り残された彼は、相変わらず、厳つい顔を萎れさせ、猫背のまま巨体を縮こませている。
どのくらい巨体かというと、まぁ。ベルベットの五人掛けのソファ が窮屈そうに軋しむぐらい、立ち上がったら天井のシャンデリアに頭をぶつけるくらい、私が用意しているカップの取っ手に彼の小指が入るかどうか疑わしいくらい、と言えば、だいたいは伝わりますでしょうか。
もう既に湯を注いでしまったティーカップ二つをぼんやり見下ろす私。
この場合、取っ手鍋に淹れて出したほうがそれはそれで失礼ではないのか、否か。
いやいや、カレー鍋の方が底は深いですし。この場合……は。
こういったスーパーサイズのお客様は稀に現れるのですが、見た目と比例して中身もそれなりだったりするので、扱いには特に気をつけなくてはなりません。
数ヶ月前、通常サイズのティーカップをお出ししたら、こんなんで飲めるかと投げつけられましたしね。
とはいえ、うちには通常サイズのカップしかありませんし、カレー鍋に紅茶を注いで出すなんて、お客様をおもてなしする側としてはどうにも気が進まないし。
いやはや接客というものは、さじ加減が難しい。
「あのぉ……」
控えめな低い声に呼ばれて振り返ると、物凄く申し訳なさそうな顔をした客人が挙手をしたまま。
「お気になさらず、特に気にしないので……」
カップを指さされ、私はほっと一安心。良かった。見た目どおりの人ではないみたい。
「お待たせ致しました」
赤、黄緑、水色のマカロンと、ダージリンティーをテーブルに置き、向かいのソファに私も浅く腰掛ける。
ああ、いけない、忘れていた。
「申し遅れました、私、ハナヤマダ――と申します」
スーツの内ポケットから名刺を取り出し差し出すと、彼は尖った爪のついた指を恐る恐る伸ばしてそれを受け取った。
「ハナ、ヤマダさん?」
「はい。長いのでハナダでもヤマダでもハマダでも、なんならハナちゃんでも、どうぞお好きにお呼びくださいませ」
「……………………はあ……」
沈黙、長かった。
眼鏡を押し上げにっこり笑うも、彼は心此処にあらずといった様子である。
実はこれ、自前の軽いジョークのつもりでして、大抵の人はここでクスッと笑うか、悪くて苦笑いしてくれるというのに、市場のマグロ並みに豪快に滑ってしまって、私の心は笑顔の下で氷漬けになってしまったということはあえて公言しないでおく。
紅茶に手をつける気配もないし、本題に入れ、ということですね、かしこまりました。
「本日はこの様な場所に御足労頂き誠に有難うございます。新規のお客様とお見受けいたしますが、こちらのご利用は初めてで御座いますか?」
「ええ、まあ」
「左様で御座いましたか。では、本日は転職をご希望ということでお間違いは御座いませんでしょうか」
「はい、そうです」
「かしこまりました。では、お客様の転職手続き完了まで、誠心誠意このハナヤマダ勤めさせて頂きたく存じます。ご希望がございましたら遠慮なさらずなんなりとお申し付け下さいませ」
「はい……どうも、です」
「手続きをするにあたって、少々個人情報の記載が必要になりますが、こちらの書面の米印のところに記入をお願いいたします。印の無い場所は差し障るようでしたらお書きにならなくて結構です」
万年筆の扱いには慣れているようで、自分の手に比べ小枝の切れ端のようなそれを器用に扱って、淀みなく書き進めていく。
「お綺麗ですね、字」
「え、……そうですか……まあ、字くらい上手く書けって言われて育ってきたものですから」
「ほうほう」
「……はい、できました。お願いします」
達筆で書かれた書面を今度は私が受け取り、ざっと目を通す。
「お預かり致します、ええと、どれど――」
そして。
突如襲い来る、本日最大の失態。
お客様の氏名欄、その隣の項目。現職業の欄を見て。
はからずも盛大に吹き出してしまった。
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