第17話 食の楽しみ

 何時ものように満月の夜に開く「心の食堂」には来店を楽しみにしている者も多い。必ずやって来る満代と浩二もそうだし、その他にも数名が存在する。

 初老の若井林蔵もそのひとりで、実はこの者は生前のまさやの料理を食べたことがあるのだ。だがこの「心の食堂」の店主が、その者だとは気が付いていないのだ。この辺が面白い所で、カウンターでまさやの料理を食べながら、

「昔、これと同じような料理を作る板前が居てね」

 と語ってまさやとさちこを苦笑いさせている。

 その林蔵がこの夜もやって来たのだが、何故か表情が暗かった。

「どうかしましたか?」

 さちこが心配をして声をかける。それほど落ち込んで見えたのだ。訊かれた林蔵は最初は辛そうな表情をしていたが、ポツリポツリと語りだした。

「実は、この店に来るのも最後になるかも知れません。それで憂鬱になっていたのです」

「最後とは、どちらかに引っ越しでもなさるのですか?」

 まさやが厨房から出て来て問いかけると林蔵は苦笑いを浮かべて

「いえ、病になりましてね。来週に手術するんです。だから……」

「失礼ですが、その御病気とは命に関わるものなのですか?」

 まさやが、更に問いかけると林蔵は頭を振りながら

「いいえ、舌癌なんです。症状はステージⅡと呼ばれるもので、命の危険はありません。でも舌の3分の1から多いと半分近く切除してしまうのです。そんなに取られたら、もう食べる楽しみなんか無くなってしまいます。その後は病気しなくても、ただ、命を永らえる為だけの食生活になってしまうんです。当然ここへも来られなくなってしまいます。私は、食べることが一番の楽しみなんです。酒も多少は飲みます。でもそれは、より美味しく食べる為に飲むのです。それ以外の趣味はありません。ギャンブルだって嫌いですし、女だって妻以外には興味はありません。そんな自分に何故神様は楽しみを取り上げるようなことをするのか、理解に苦しみます」

 林蔵の言葉を聴いてまさやは

「では、今日、特別な料理をお出しします。それを食べて戴いて、来月、もう退院なさっていたら又いらして下さい。その時満足の戴ける料理をお出しします。その時にまた感想を戴けたら幸いです」

 まさやはそういって、厨房に引っ込むとレタスのサラダとハンバーグを作って来て林蔵の前に出した。

「今は痛みは如何ですか?」

「ええ、痛み止めを飲んでいますから今は治まっています」

 林蔵は出されたハンバークにナイフを入れると透明な肉汁が溢れ、ハンバークのソースと絡まって光っている。

「美味そうです」

 林蔵は更にナイフで切り分けその一つにフォークを刺して口に運んだ。口の中でとろけるような感触がして殆ど噛まずに飲み込めた。

「これは美味しいです。こんなハンバークは老舗のレストランに行っても食べられません」

「まあ、肉はいいものを使っていますからね。では、レタスのサラダを食べてみて下さい」

 林蔵はまさやに言われた通りにドレシングのかかったレタスを口に運んだ。

「薬で痛みを止めていますが、やはり繊維が多い食材は舌の痛い部分に当たって上手く噛めないですね」

 それでも時間をかけて林蔵は全てを自分のお腹にしまいこんだ。

「美味しかったです。でもこれが手術と何の因果関係があるのですか?」

 林蔵の質問にまさやは

「それは、手術後にここに来て戴いて、私が出すものを食べて戴いて判ると思います」

 そう言って疑問を持っている林蔵を更に不思議がらせた。


 翌月の満月の夜。林蔵は約束通りに「心の食堂」にやって来た。一見前と同じに見えるが、よく見るとやや老けたかも知れなかった。

「いらっしゃいませ。どうやら手術は成功なさったみたいですね」

 さちこが問いかけると林蔵はカウンターに座り

「3分の1ほど切りました。少ない方らしいですが、それでもラリルレロが言い難いです」

 手帳を出して、そう書いて見せた。

「言葉が出せないのですか?」

 驚くさちこに林蔵は

「あかちゃんことばにたいになるので、よそさまにははずかしくてね」

 そう言って恥ずかしがるとさちこは

「ここでは大丈夫ですよ。通じない言葉はありませんから、出来るだけ話して下さい」

「そうですか、わあかりゅました」

 上手く話せないながらも出来るだけ話す約束をした。

 早速、まさやが厨房から料理を運んで来た。見るとこの前と同じハンバークとレタスのサラダだった。

「先月と同じように食べてみてください」

 まさやに言われて林蔵は同じようにナイフでハンバーグを切り取り溢れる肉汁を滴らせながら口に運んだ。何回か噛んで咀嚼しようと試みるが以前のようには行かない。病院では最初は流動食だったし、家に帰ってからは妻が柔らかいものを中心に出してくれた。

 何とか飲み込んだが口の中のあちこちに肉のカスが残っている。正直不快な感じだった。次のレタスはもっと悲惨だった。まず上手く噛みきれない。咀嚼以前の問題だった。

「まったくだめれす。たべあっれません」

 上手く言えないながらも林蔵は正直にまさやに答えた。

「確かめるようなことをして申しわけありませんでした。今一度、以前と同じものを食べて貰ったのは現状を理解して戴く為です。これからの訓練で言葉も食べ物も前と変わらなくなると思いますが、暫くはどうしてもかかります。そこで、それまではこんな工夫をなさっては如何でしょうか?」

 まさやはそう言って新しい皿を出して来た

「今度はこれを食べてみて下さい」

 見てみると同じハンバーグとレタスのサラダだった。何処が違うのだろうか?

 まさやに言われ林蔵は同じようにナイフでハンバーグに切り込みを入れる。若干柔らかい気がしたが同じように肉汁が滴る肉片を口に入れた。咀嚼をしようとした時だった。肉片が口の中で蕩けてしまったのだ。手術以前の感覚を思い出させた。

「こ、こあは……」

「これはひき肉を二度挽きしてあります。普通は一度しか挽きませんが、子供向けの料理を作る時などには二度挽きをします。きめが細かくなり口当たりが良くなります。ハンバーグなどでは練るのも簡単ですが、今日は余り練っていません。だから口の中でほぐれるのが早かったのです」

「でも、そらあではかたまあないでしょ」

「そこは色々食材を足してありますから大丈夫です。サラダも食べてみてください」

 林蔵は言われた通りに今度はレタスを口に入れた。フォークを刺す時に前と感触が違っていたのが判った。今度もまさやが何か仕掛けをしてあるのだろうと思い慎重に刺したのだ。それを口に運ぶ……。

「かめる。くもなくかめる……」

 驚く林蔵にまさやは

「実はこのレタスは熱湯に一度くぐらせてあります。熱湯にくぐらせて冷水にさらしたのです。だから繊維が柔らかくなっていたのです」

「そうれあいたか」

「色々な調理のコツとレシピを書いて置きます。奥様にお見せ下さい。いずれは必要なくなるものですが、今暫くは必要だと思います」

「なにかあなにまで、ありがとうございます!」

「舌癌で舌を切除しても食の楽しみは捨てることはありませんよ」

「まあたくですね。ひかんしたじぶんがはずかしいです」

「言葉も直ぐに元に戻りますよ」

 まさやの言葉に深く頷く林蔵だった。

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