第2話 野菜の味
昌江は日課の散歩をしていた。立ち並んだビルの間をぬうように歩いて行く。脚は天気が悪くなる前は痛む事もあるが、概ね大丈夫だと思っている。
「本当にビルばかりになっちゃったね」
タオルで汗を拭いながら呟く。昌江はこの街にろくな建物が立って居ない頃から亡くなった夫と暮らして来たのだ。今は、住んでいた土地の上に立ったマンションに一人で暮らしている。
子供は既に独立して家庭を持っていて、そこには可愛い孫も居る。息子や娘が
「一緒に暮らしましょう」
と誘ってはくれるが、知人や友人の居ない街に引っ越す気にはならない。ビルが立って様相が一変しても、この街は自分の街だと思っているのだ。
昌江の散歩は夜が多い。それは朝や昼だと人通りが多いからだ。夜なら人にぶつかる心配は無いし、健康雑誌で『散歩は夜間が良い』と読んだからだ。それ以来夜散歩をすることにしている。幸い日本は治安が良く年寄りが夜散歩しても余り問題になる事は少なかった。
歩きながら、コンビニに寄るつもりだった。少し遅いが夕食を買って行こうと思っていた。量は要らない。一人暮らしだから自炊するのも面倒だった。夫に先立たれてからは炊事をする機会が少なくなったと思った。
コンビニに入りかけて、今夜が満月だったと思い出した。それならコンビニに行く必要が無いと思い、足を別な方角に向けた。
その方角には、不思議な食堂があり、昌江はこの店の常連なのだ。尤も満月の晩しか表れない食堂なのだが……
「今夜は何を食べさせてくれるかねえ」
期待に胸を膨らませて足を早める。その食堂が普通の食堂では無い事は最初に入った時から何とな感じていた。まるで時代がかった外観と店内。愛想の良い美人の女店員。どうやら彼女と調理場に居る背の高い色白のちょっといい男の調理人とは夫婦らしかった。でも、そんな事はどうでも良かった。その日出された定食の味に驚いたのだ。
昌江は北の生まれだ。今はサハリンと呼ばれている旧領樺太で生まれ、終戦まではそこで育ったのだ。その頃の樺太は内地からの出稼ぎの人間で賑わっていた、人口は二十数万人と言われていたが、実際はその倍近くの人が居たのだ。
樺太は米は出来なかったが、海の幸が豊富でその恩恵に住民全てが受けていた。春になると海が真っ黒になるほどニシンが産卵の為にやって来る。そして海岸は真っ白になるのだ。そのニシンを狙って漁船が出て行く。船に乗せられないほどの大漁だ。港に行くと漁師は只で幾らでも採ったニシンをくれた。それを持って返って母親に焼いて貰って食べたのだ。それが昌江の原点だった。
戦後内地に引き上げて来て、小さな会社に勤務した。そこで夫と知り合って結婚したのだ。それから五十年が過ぎていた。
出された定食は「焼き魚定食」だった。それもニシンだった。ニシンは春の魚だ。季節が違うと思った。外観からして期待はしていなかったが、それにしても季節外れの魚を出すとは……口には出さなかったが、そう思い期待しないで口にした。
だがその味は全く違っていた。あの頃――港で貰って食べていたニシンの味だった。戦後内地に引き上げて来てからは食べた事が無い味だった。子供の頃の楽しかった記憶が蘇った。
冬のスキーや炊きたてのご飯にバターや手作りのいくらの醤油漬けを山ほど乗せて食べた事。
嵐の過ぎ去った後に海岸に行くと石炭の塊が打ち上げられていて、それを拾ってストーブにくべた事……色々な思いでが蘇って来たのだった。
「どうして今時こんな鮮度の良いニシンが手に入ったのですか?」
思わず訊いてしまった。すると厨房から調理人が姿を表して
「独自なルートがあるのですよ。それは商売上の秘密ですからお教え出来ませんが、お気に召したのなら良かったです」
昌江は更に尋ねる
「でも、どうして私がニシンを好きだと判ったのですか?」
「あなたの言葉に北海道とか北の地域の独特な訛りと言うかイントネーションがありました。それからの推測です」
それが本当だとは思わなかったが、この不思議な食堂の事だ。色々と人には言えない事情があるのだと理解した。
「また来ても良いですか?」
「どうぞいらして下さい。満月の晩なら何時でも開いています」
「満月の晩だけですか?」
「そうなんです。それ以外は、それを必要とする方だけに開いているのです。お散歩しているなら又寄って見て下さい」
多分女将さんだろうと思われる女店員がにこやかにそう言ってくれた。
「じゃあまた、寄らせて貰います」
昌江はそう言って代金の五百円を払ったのだった。
それから、確かに翌日も行っても、食堂は見つけられなかった。その次の日もそうだった。見つけられたのは次の満月の晩だった。
「やっと見つけられました」
「いらっしゃいませ! 見つけられ無かったと言う事はこの食堂が必要では無かったと言う事ですからね」
女将さんに言われて、そう言えばこの一月近くは気分的に充実していたと思った。こうして昌江は「心の食堂」と言うかなり変わった店の常連になったのだった。
「こんばんは~」
昌江は今夜が満月だと思い出して、この店にやって来た。
「いらっしゃいませ!」
何時ものように女将さんが愛想よく出迎えてくれた。
「今日は何を食べさせてくれるかしら」
昌江の声に厨房から
「今日は、野菜を食べて戴きます。最近コンビニ弁当ばかりでしょう。良くないですよ。ちゃんとした野菜を食べて貰いますよ!」
そう言って来た。それは自分の事を本当に心配してくれると感じる言い方で、そんな点も昌江は安心出来るのだった。
「お待ちどう様」
出された定食は野菜づくしだった。茄子の焼き物は丁寧に皮をむかれ三等分に切られて、上におろし生姜とかつお節が乗せられていた。
小鉢には里芋の煮物が入っていて、上にひき肉の餡が掛けられていた。味噌汁はじゃがいもに和布。香の物は白菜だった。
味噌汁も美味しい。昌江はじゃがいもの味噌汁は樺太の頃に良く母親が作ってくれたので食べて、自分でも良く作るが、これは絶品だった。味噌の香りにじゃがいもの甘さが絶妙で合っていて、食材ごとに味噌汁の味噌も変えているのが判った。
白菜も良い、何より白菜そのものに甘みがあるのだ。だから浅漬になった味が引き立っていた。
茄子も良かった。味の薄い茄子だが、焼きたてなので僅かに茄子の香りが残っている。どうすればこんな事が出来るのだろうかと思ってしまった。
だが、里芋を口にした時にそれらが細かい事だと思ってしまった。そんじょそこらに売っている里芋では無かった。土の香りが残っていて、それでいて濃厚な食感、そして何より里芋そのものの甘味が凄かったのだ。また、それを完全に活かしてる煮方も素晴らしいと思った。やはり、今夜も来て良かったと思った。
「今日も美味しかったわ」
昌江がそう感想を言うと厨房から主の料理人が出て来て
「あまり、コンビニのお弁当ばかり食べていては良くないですよ」
「でも、便利だからつい買ってしまうのよ。一人暮らしでしょう」
「まあ、仕方無いのですが、あれには良くないものを使っていますからね。基準値以下なので直ぐに体に害はありませんが、野菜なんか美味しく無いですよね。それにサンドイッチやおにぎりなんか、手作りと比べて『何か違う』と思いませんか?」
確かにそれは感じていた。カットされた野菜は何処か無機質で、野菜本来の味が抜けている感じがした。それに、サンドイッチもそうだった。昌江は一度買って食べてやはり自分が作ったものとは『何か違う』と感じてからはサンドイッチは買わなかった。食べたい時は近所にあるベーカリーで買う事にしていた。
「そうねえ。たまには自分で作らないと駄目でね。でも本当は毎日ここが開いていれば良いのだけどね」
昌江はそう言って笑った。
「ごちそうさま! また次の満月に来るわね」
五百円を置いて、昌江が去って行って数分後だった。顔色を変えて青年が飛び込んで来た。
「はあ、はあ、やっと見つけた! 俺、毎日探していたんですよ!」
それはこの前の晩に「鯖味噌煮定食」を食べた浩二だった。
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