心の食堂

まんぼう

第1話 鯖味噌定食

 後から考えると浩二は本当に偶然だったと思った。それは、浩二が転勤させられて、この大都会の片隅に配属になって、幾らも経たない時期だった。

 覚えたばかりのお得意先に寄って営業をして時計を見ると既にかなり遅い時間になっていた。社に戻ろうか迷ったあげく連絡すると。

「ご苦労さん! 今日は直帰していいよ。俺もこれから帰る所だから」

 課長が直接電話口に出てくれた。

「じゃあ、このまま帰ります」

 ほっとして携帯をしまうと、お腹が減っている事に気がついた。

「何か食べて帰ろう。駅に行けば近くに何かあるだろう」

 そう思って地下鉄の駅に向かって歩き出した。そうしたら、駅に行く道が夜間工事になっていて、通行止めになっていたのだ。

「まいったな……仕方ない回り道をするか」

 そう独り言を呟いて、別な道を歩き出した。『迂回路』と書かれた看板を見て方角だけは確かめたのだ。特別に込み入った地域では無い。迷うはずが無かった。

「おかしいな。こっちのはずなんだがな?」

 浩二は自分が道に迷ったと感じていた。スマホを出して地図アプリで現在位置を確認する。間違ってはいない……だが浩二の目の前にある景色は地図のそれとは全く違っていた。それにさっきから同じ場所を回っている気がした。時計を見ると更に時間が経っていた。お腹がかなり空いていて、どこか適当な食堂でも見つければ、そこでも良いとさえ思い始めていた。

 何回目だろうかと思って辺りを注意深く見渡して見ると、空には満月が輝いていて、今までとは違って見えた。今歩いている先に食堂らしき立て看板を見つけた。それはよくある道路の隅に立てられた蛍光灯が内蔵された立て看板で、そこには『心の食堂 まさやとさちこ』と書かれていた。

「おかしな名前の店だな」

 そうは思ったものの、背に腹は代えられないとも言う。黙ってその店の暖簾をくぐって中に入った。

「いらっしやいませ!」

 三十代後半とも見える女性が迎えてくれた。その笑顔を見るとなにか癒やされる気がした。

「空いてる席にどうぞ」

 四人がけのテーブルが二つとカウンターが五つばかりの狭い店だった。狭い店内に比べてカウンター越しに見える調理場は大層広く、そのアンバランスが何か気になった。

「何にしましょう?」

「随分遅いですが、何が出来ますか?」

 浩二はテーブルに置かれたメニューを見て驚いた。メニューに書いてあるのは食堂のメニューと言うより日本料理店のそれだったからだ。

「定食みたいなものは……」

 そう訪ねると女店員は

「勿論出来ますよ。『本日の定食』で良いですか?」

「あ、はい、内容は何ですか?」

 浩二に尋ねられて女店員はカウンターの奥に声を掛ける

「今日は定食何ですか?」

 すると、今まで人の気配が無かったのに、いつの間にか、少し背の高い四十前後と思われる色の白い男が立っていた

「今日は、鯖味噌定食だよ」

 それを聞いて浩二は

「じゃあ、それお願いします」

「かしこまりました」

 女店員がそう言って水を置いて立ち去って行った。その姿を見ながら、店内を良く観察してみる。まるで昭和からやって来た感じの店内で、壁は薄汚れてはいないものの新しいと言う感じはしない。壁の隅の端には今時珍しくブラウン管テレビが置かれていて、今は何も映っていない。デジタルチューナーに接続されていなければ、何も映る事はあるまいと思った。

 他には何処か見たことも無い美しい景色のポスターが貼られていて、その景色には思わず、何時迄も見つめて居たいと思ってしまった。

「お待ちどうさまでした」

 ポスターの景色に見とれている間に定食が運ばれて来た。

「あ、すいません」

 そう言って、付いて来た箸を見て驚いた。何と杉箸だったそれも「利久」と呼ばれる高級な箸だった。別名「夫婦利久」とも呼ばれるもので、このような定食屋で使う箸では無い。

 驚きながらも箸を割って湯気が立っている鯖をほぐして口に入れた。その瞬間、浩二は驚いた。鯖は好きな魚で、良くあちこちで鯖味噌を食べるのだが、今口にした鯖味噌は次元が違っていた。油が乗っている鯖が味噌の味に馴染んでいる。その為、濃厚でありながらさっぱりとしているのだ。それに、味噌も複雑な味をしていた。僅かにゆずの香りもすれば、味醂の風味も感じる。浩二は、この定食を作った料理人の腕がとてつもない腕だと感じた。

 豆腐と和布に葱が入った味噌汁に口を付けるとこれも信じられない味がする。何より豆腐が正四角形に切られていて、小さいが全て同じ大きさに揃えられていた。

 味噌も鯖とは違っていて、これも色々な味噌が使われていると感じた。それに出汁が素晴らしかった。

『生まれて一番美味しい味噌汁かも知れない』

 口に運びながらそう思っていた。こうなれば御飯も、お新香さえも期待してしまった。結果、それは裏切られる事なく、浩二を心の底から満足させてくれた。

『だから心の食堂なんだろうか?』

 全部たいらげてから、そんな事を思った。

「お勘定お願いします」

「はい、ありがとうございます! 五百円になります」

「え、そんなに安いんですか?」

「はい、ウチは利益は追求していませんから。元値でよいのです」

「はあ……そうですか。なら」

 浩二は五百玉を女店員に手渡すと、奥から調理人が出て来て

「お客さんは、ミネラルと蛋白質が足りない感じでしたからこの献立にしました。お口に合ったでしょう!? 忙しいからとファストフードばかりじゃ、体を壊しますよ」

 そう言って笑っていた。

「そんな事まで判ったのですか?」

「はい、あなたの顔色を見て気が付きました。これでも栄養学を修めましたからね」

 料理人はそう言って奥に消えてしまった。

「ご馳走様でした!」

「ありがとうございました!」

 女店員の声に送られて表に出て暫く歩き、浩二は

「明日も来よう! 通うだけの価値がある店だよ。今まで知らなかったのが損をしてしまった」

 そう思っていた。店の名刺か、何か貰っておけば良かったと思ったが、また明日来れば良いと思い直した。

 何故か、帰りは迷わずに地下鉄の駅にたどり着いたのも不思議だった。

 翌日、仕事が終わり急いで昨日の場所に戻ったのだが、浩二はその日はとうとう見つける事が出来なかった。

「おかしい……どうして昨日あった店が今日は無いのだろう?」

 浩二は夜の街に佇むばかりだった。

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