ラストソング

関谷俊博

第1話

担任の熊江が、ぼくは大きらいだった。おまけに授業は、ぼくの苦手が数学。最悪だった。ぼくは、うつむいたまま、じっとさされないことを祈った。これが今日の最後の授業だ。もうちょっとすれば、ぼくは解放される。だけど、祈りは通じなかった。

「鈴鹿。わかるか? 立て」

 立ち上がったまま、ぼくは固まってしまった。

「わかりません」

 正直に言うと、熊江はうっすらと笑った。

「ぼく、何年生?」

「は?」

「こんな質問にも答えられないなんて、何年生かって聞いてるんだよ!」

「すみません」

「ぼく、わかりませーん。だって小さいんだもん」

 熊江が赤ちゃん言葉で言ったから、まわりがゲラゲラ笑った。

 はずかしさで体がふるえた。

「イン・イクザミネイションズ・ザ・フーリッシュ・アスク・

クエスチョンズ・ザット・ザ・ワイズ・キャンノット・アンサー」

 その声は、とつぜん、クラス中に響きわたった。

「ん? 誰だ? 立て!」

 熊江が怒鳴った。

 振り返ると、ひょろっと背の高い子が立っていた。

 ふだん無口な、荻くんという子だった。

「荻。なんだ、それは?」

 熊江が低い声で言った。荻くんは答えなかった。

「なんだと聞いてるんだ!」

 熊江がまた怒鳴った。

「オスカー・ワイルドですよ。意味が知りたいですか? 馬鹿なやつが、利口者の答えられない質問をする」

「なにっ!」

 熊江の顔がみるみる険しくなった。

 そのとき、終業のチャイムが鳴った。

「まあ、いい。今日はここまで!」

 熊江は言って、教室を出ていった。

 クラスのみんなも、次々と帰っていき、ぼくと荻くんだけが教室に残された。

「サイテーなセンコーだな」

 荻くんは言った。

「気にすることはないさ。教師なんて、みんなまともじゃないんだ」

「まともじゃない?」

「そうさ」

 荻くんは立ち上がった。スレンダーな荻くんは、自分の長い手足を持て余しているように見えた。

「この世界にまともなものなんて、数えるほどしかないんだよ」

「まともなものって?」

「たとえば、オスカー・ワイルド、スティーヴン・パトリック・モリッシー、ひと気のない美術館」

 荻くんの言葉に、そのときだけ、力がこもった。

「マイ・フェヴァリット・シングス」

「なに、それ?」

「お気に入りってこと」

 荻くんが伸びをして言った。

「さてと。俺たちも帰るか」


 翌日、荻くんは休みだった。

 休み時間、ぼくは隣の席に座っているキリコに、荻くんのことを聞いてみた。

 ぼくは、荻くんがキリコと話しているのを、時々見かけたことがあったのだ。

「ああ。荻くんね」

 キリコはうなずいた。

「あの子はいつもあんな調子よ。何年か前までイギリスにいたの」

「どうしてそんなことまで知ってるの?」

「荻くんと私は幼なじみだもの」

「えっ? 荻くん、イギリスにいたんでしょ?」

「荻くんがイギリスにいたのは、十四歳から十五歳までの二年間だけよ。学年で言えば中二と中三。おかげで荻くんは、その二年間をまた日本でやり直すことになった」

「じゃあ、荻くんは」

「いま、十八歳よ。私たちより二歳も上だわ」

 道理で大人びているわけだ。

「今日は休みだね」

 ぼくは荻くんの席を見た。

「ああ、そうね。東京へ行くって言ってたわ」

「東京?」

 ぼくは聞き返した。

「なんで東京へ?」

「好きなバンドのライブが東京であるんだって」

「一人で行ったの?」

「きっとそうでしょ。だからね。いつもそんな調子なのよ」

 キリコは肩をすくめた。


 その日以来、ぼくは荻くんのことが、どこか気にかかるようになった。

 荻くんは見た目は物静かな子だった。

 休み時間になると、仲の良い友だち同士の輪ができて、ふざけあったりするものだけれど、荻くんはどこの輪にも加わらす、たいてい一人で本を読んでいた。

 授業のときも自分から手を上げることはない。だけど、さされれば、必ず間違いのない答えをした。

 そんなある日。授業が終わると、後ろから声をかけられた。

「鈴鹿」

 立っていたのは、荻くんだった。

「どうして俺のことばかり、そんなに見てるんだ?」

「どうしてって」

 気づかれていたのか。

 荻くんは、もうそれ以上聞かずに、ぼくに言った。

「なあ、鈴鹿。よかったら、今からうちに来ないか?」


 いったいどんなうちに住んでいるんだろう、と興味があったが、荻くんのうちは思っていたよりも普通だった。

 車を一台停めることのできる駐車場があって、小さな庭がついていて、ぼくのうちとたいして変わらない。

 ダイニングのすぐ横が、荻くんの部屋だった。

「鈴鹿。ちょっと待ってろ」

 荻くんがオレンジジュースを持ってきてくれた。

 机の上にノートが一冊、無造作に置かれているのに、ぼくは気がついた。

「変わったノートだね」

 それは黒い革のノートで、表紙には金の糸で天使が刺繍されていた。

「ああ、それか」

 ノートをちらっと見て、荻くんは言った。

「俺の詩集だよ。お手製の」

「詩を書いているの?」

「そうだよ。おかしいか?」

「そんなことはないけど」

 どんな詩を書くんだろう?

「見てもいい?」

「ああ」

 ぼくは、荻くんお手製だという、そのノートを開いた。

 冒頭にあったのは「ダンス」という詩だった。

「不器用なステップを踏んで俺は踊る」という文章で、その詩は始まっていた。

 大半は意味がわからなかったし、英語で書かれている箇所もあった。ぼくは、やっとのことで、その詩を読み終えた。その長い詩は、こう結ばれていた。


 不器用なステップを踏んで俺は踊る

 堕ちた天使が笑う

 二十一の歳まで


「どうして二十一なの?」と、ぼくはたずねた。

「二十一で死ぬと決めてるんだ」

「どうして?」

「詩人は二十一で死ぬ。そう決まってるから」

「わからないな。どうして死ななきゃならないの?」

「ほんとはさ」

 荻くんは、照れくさそうに、少し頬を赤らめて言った。

「死んだら母さんに会えると思うんだ」

「そうか。荻くん、お母さんいないのか」

「いるよ。一応」

「えっ!」

「だけど血はつながってない。母さんが死んだ後、父さんは再婚したんだ」

 荻くんは、机の一番上の引き出しを探っていたが、

「これが母さんなんだ」

 ぼくに一枚の写真を手渡した。

「母さんは、アインっていうバンドのヴォーカリストだった」

 全身黒づくめの女の人が、上目づかいにこちらを見つめていた。

「当時から結構騒がれてて、今じゃ伝説のバンドになっている。そんな人が、どうして父さんと一緒になったのか、わからないけどな」

「どんな人だったの?」

「ただひたすら優しかった」

 荻くんの顔が、そのときだけほころんだ。

「こんな人が世の中にいるんだと思うくらい。父さんと結婚して、バンドは解散したけれど、母さんは音楽に注いでいた愛情をすべて、俺に注いでくれた。俺は一生分の優しさを母さんからもらったんだ」

 もう一度、ぼくは写真をながめてみた。荻くんが一生分の優しさをもらったという、その人を。

「なあ、鈴鹿」

「うん?」

「俺はさ、人が一生の間に受ける優しさの量って、決まってるんじゃないかと思うんだ」

「今は優しさをもらってないの?」

 そうたずねると、荻くんは言った。

「俺は一生分の優しさを母さんからもらったから、もうそれでいいのさ」


 その日から、ぼくは荻くんのうちに入り浸るようになった。外国のアーティストのCDを聴いたり、一緒に画集をみたり。知らない世界が、こんなにたくさんあることを、ぼくは知った。

「このCD、悪くないよ。ナイン・インチ・ネイルズ」

 とんでもなく激しい音が、スピーカーから大音量で流れてきた。

「どう?」

「なんかわからない」

 ぼくは正直に言った。

「だけど、なんだかすごい」

「そうだろ」

 荻くんは満足そうにうなずいた。

 こうしてぼくらは、二人の間の距離を、少しずつ縮めていった。


「なかなかいい曲だろう? スミスってバンドの曲なんだ。歌っているのは、若かりし頃のスティーヴン・パトリック・モリッシー」

 荻くんは言った。

 その日もぼくは、荻くんのうちで、CDを聴いていた。

「なんて曲なの?」と、ぼくはたずねた。

「ラストナイト・アイ・ドリームト・ザット・サムバディ・ラブド・ミー」

「どんな意味?」

「昨日の夜、ぼくは夢をみた。だれかに愛される夢を」

「きっとその人は、愛されたことがないんだね」

「だろうね。だけど心の底では、みんなだれかに愛されたいと思っているのさ」

 荻くんは、指でボールペンをまわしていたが、ふと思い出したように言った。

「なあ、鈴鹿」

「うん?」

「おれさ、聞いちゃったんだ」

「なにを?」

「まあ、つまらない話だけど、聴いてくれ」

 荻くんは改めて、ぼくに向き直った。

「父さんとあの人が、まだ一緒になる前の話さ。父さんとあの人は、ダイニングで、ぼそぼそ話をしていて、俺は隣のこの部屋で布団に入っていた」

「あの人」というのは、荻くんの今のお母さんのことらしかった。

「父さんとあの人は、俺が寝てると思ってただろうね」

「だけど荻くんは、まだ眠ってなかったんだね」

「そうだ。あの人は言ったよ。他人の子どもを育てるのって」

 しばらく、ぼくらの間に、沈黙が流れた。

「その人のことがきらいなの?」

 ぼくはたずねた。

「べつに」

 荻くんは、ときおり見せる、あのかったるそうな口調で言った。

「だけど、なんだかつまらないなあって」

「うん」

「育てるの、育てないのって騒がなくても、こっちはちゃんと育ってるって」

「すごいな。そう思えるなんて」

「そうか」

「自分だったら、きっとショックだと思う」

 ぼくの正直な感想だ。

「ザ・ハート・ワズ・メイド・トゥビー・ブロークン」

「えっ?」

「オスカー・ワイルドの言葉だよ。心は傷つけられるためにある」

 窓の風鈴がしきりに鳴っていた。

「夕立になりそうだね」

 窓の外をながめて、荻くんは言った。


 そんなふうに、荻くんのうちで過ごしていたある日。キリコが、荻くんのうちに、やってきたことがあった。キリコは部屋に入ってくると言った。

「借りてたCD返すね」

「どうだった?」

「すごく良かった。格好いいね、パティ・スミス」

 荻くんとキリコが、話しているのを見るうち、もやもやした気分になった。忘れていたけれど、荻くんとキリコは幼なじみなのだ。こんなふうに話したって、別に不思議じゃない。それはわかっているのだけれど、二人が親しげに話しているのが嫌だった。ぼくら二人の世界を、キリコに邪魔されたような気がして、腹が立った。

「もう帰るよ」と、ぼくは言った。

「なんだ、もう帰るのか。いればいいじゃないか」

「いや、いい」

 ぼくは、この気持ちをどこへ持っていったらいいのか、わからなかった。


 その日から、ぼくは荻くんと、距離を置くようになった。荻くんの誘いを断って、まっすぐうちに帰った。そのかわりぼくは、貯めていたお金で、中古のギターを買った。教則本も手に入れて、ギターの練習を始めた。荻くんと対等になれる何かが、ぼくは欲しかった。

荻くんは、いつもひょうひょうとして、ぼくの前を歩いていたから。


 ぼくは、毎日ギターを引き続けた。さまざまに変化するコードの響き。軽やかなメロディライン。ぼくはすぐ、この楽器に夢中になった。そこにまた、奥の深い新しい世界が広がっていた。

 そんなある日。インターフォンのベルが鳴った。だれか来たらしい。母さんがぼくを呼んだ。ぼくはかまわずギターの練習を続けた。早く荻くんに追いつきたかった。

 ふと顔をあげると、荻くんが部屋の前に立っていた。

「何をしてるかと思えば、こんなことをしていたのか」

 荻くんは言ったが、そのままぼくはギターの練習を続けた。

「鈴鹿。ギター始めたんだ」

 ぼくは答えなかった。

「なあ、どうして黙っている?」

 荻くんが、ぼくの肩をつかんだ。ぼくはその手を振り払った。

「なんだよ!」

「だって、荻くん。どんどん先に行ってしまうんだもの!」

 ぼくは叫んだ。

「どんなに追いつこうと思っても、追いつけない。いつも荻くんは、ぼくの前を歩いている。ぼくも荻くんみたいに、強くなりたかったんだ」

 いつのまにか、涙があふれていた。

「なあ、鈴鹿」

 荻くんが、ぼくの肩に、そっと手をまわした。

「俺は強くなんかない。おまえの前を歩いてもいない。おまえの方がすごいんだよ。鈴鹿」

「どうして?」

「俺は音楽は聴いても、ギターを始めようなんて思わなかった」

「だけど、詩を書いてる」

「詩? ああ、そうだよな。俺は自分には何もないと思っていた」

 荻くんはつづけた。

「だけど鈴鹿。これで対等だと思わないか。おまえは、こうしてギターを弾いて、俺は詩を書いている」

「うん」

「鈴鹿。少し歩かないか? 話があるんだ」

 荻くんは言った。


 季節は夏から秋になり、冬へと向かおうとしていた。

 ぼくらは、ただ黙って歩いた。プラタナスの落ち葉が、足下で音をたてた。

 やがて、荻くんは、ぽつりと言った。

「俺、オーストラリアへ行くことになった」

 とっさのことで、声も出なかった。

 しばらくして、ぼくは「そう」とだけ言った。

「父さんの仕事でね。俺もついて行くことになったんだ」

「いつから行くの?」

「一週間後だよ」

「そんなにすぐ」

「お笑い草だろう?」

 荻くんは肩をすくめた。

「イギリスから日本に戻ったと思ったら、こんどはオーストラリアだ」

「遠いね」

「同じ英語圏なのが救いだけどな。これがジンバブエかどこかだったら、俺は断固拒否するぜ」

 そのとき、荻くんは、何かを思いついたようだった。

「うちへ行こう」

 荻くんは言った。

「鈴鹿に聴いてもらいたいものがあるんだ」


 ダイニングのすぐ隣にある荻くんの部屋。ここに来るのも久しぶりだった。荻くんは、部屋に入ると、まっすぐ机の上のパソコンに向かった。やがて、パソコンから、音楽が流れ始めた。

「これは母さんの最後の曲なんだ。ラストソングさ。たぶん、音楽関係者だと思うけど、だれかがネットに流したんだ」

 暗くもない。明るくもない。力強く激しく、それでいて不思議な静けさをたたえた曲だった。

「父さんと別れたあと、母さんはアインを再結成しようとしたらしい。だけど、曲づくりを始めた矢先に、母さんは倒れた」

「とても不思議な曲だ」

「ああ。生ギター一本の、とても完成したとはいえない曲だけど、この曲は俺にとって、奇跡みたいな曲なんだ。こんな奇跡みたいな曲をつくって、母さんは逝ってしまった」

 ぼくらは、しばらく黙って、その曲に耳をすましていた。

「この曲は荻くんの宝物なんだね」

「そうさ。かけがえのない、俺の宝だ」

「ありがとう」

 ぼくは言った。

「荻くんの宝を、ぼくに聴かせてくれて」


 それから一週間がたち、その日の朝がやってきた。ぼくは、学校を休んで、荻くんを駅まで見送りに行った。ぼくはそこで初めて、荻くんのお父さんと、荻くんが言うところの「あの人」に会った。

「うちの子がずいぶん親しくしていただいたそうですね」

 荻くんのお父さんは、ぼくに深々と頭を下げた。

「あの人」は、どこにでもいる、普通の人に見えた。

 そして三人は、電車に乗りこんだ。

「鈴鹿。最後に一つだけ」

「なに?」

「ビー・ユアセルフ」

「うん?」

「エヴリワン・エルス・イズ・オールレディ・テイクン」

「オスカー・ワイルドだね? どういう意味?」

「自分らしくあれ。他人の席はもう埋まっている」

「覚えておくよ」と、ぼくは言った。

「よけいなお世話かもしれないけどな。おまえはもう十分におまえらしいから」

 発車のベルが鳴った。

「じゃあな、鈴鹿」

「うん」

 やがて、電車はゆっくりと動き出し、ぼくらの別れがやってきた。

「鈴鹿。俺、おまえのこと」

 荻くんは何か言ったようだったが、それを聞き取るには、ぼくらの距離は離れすぎていた。それに答えるかわりに、ぼくは思いきり手をふった。荻くんも、窓から身を乗り出して、最後まで手をふっていた。


 こうして、ぼくらは別れた。荻くんから連絡はない。きっとそれが、荻くん流の別れ方だったのだろう。荻くんは、ぼくに連絡先を教えなかった。

 荻くんの詩の一節が、頭をよぎる。

 不器用なステップを踏んで俺は踊る。

 ラストソングは、今でも荻くんの心に響いているだろうか。

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ラストソング 関谷俊博 @Tomoki3389

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