イエスと言えなくて

「たまちゃ~ん」

「アヤちゃん、いつになく鬱々してるね……大丈夫?」

「後悔はしてないけど、体が2つ欲しいよー!」


 部屋に上がり込むと同時にアヤさんの悲痛な叫びがこだまする。俺と慧梨夏は年末年始の放置期間を終了して久々に自分たちの住む部屋に戻ったところだ。アヤさんの悲痛な面持ちはご愁傷様ですとしか言いようがなく。

 俺はいつものように紅茶を淹れて、話を始めようとする2人の前に出す。て言うかアヤさんて慧梨夏の部屋までどうやって来てるんだろ。車を持ってるような感じでもないし、ここは駅から近いってワケでもないし。


「アヤちゃん年末はどうだったの、例のライブ」

「それは非常に素晴らしかったです! ブラボーだよ! ピアノさんの挑発なんか、たまちゃん見てたら倒れてたと思うよ! それにね、ベースさんとMC的な合間にちょこちょこやりとりしてたんだけど、そのやりとりがまた」

「くーっ! 詳細を!」


 ――と、ライブに関する話をしていると、ここに来たときの鬱々したような雰囲気ではなくむしろ楽しそうな感じでいつものアヤさんと言うのが相応しい。だけど、何がどうしてああまで鬱々していたのか。まあ、パンピーにはわからないだろうな。

 例によって紙の上にはその当時の状況やら相関図やらかわーっと書き上がっていく。それを餌に慧梨夏も生き生きとし出すし、コミフェの戦利品だけではない生きたネタを得て息を吹き返したような雰囲気だ。


「――とまあ、そんな感じでライブは最高でした」

「よかったね。地元のお誘いを蹴ってまで行く価値はあったんだ」

「だから体が2つ欲しかったの~!」

「えっと、アヤちゃん?」

「地元の集まりに先輩がいたって聞いてー!」

「うそォ!? じゃあ、アヤちゃんそっち行ってたら」

「先輩と会えたのにー! ライブに行ったことを後悔はしてないけど先輩にも会いたかったー!」


 アヤさんが“運命”とまで言う先輩さんとニアミスしていたという事実に鬱々しい空気を醸していたようだ。ただ、ライブに行ったことも後悔していないということで、体が2つあればという表現になっているらしい。


「それでね、友達が言うには先輩、金木犀の木を気にしてたって。何か思い出そうとしてる感じだったって言っててウソーもしかして私のことだったらどうしよう的なことを考えてしまうんですよ!」

「ふむふむ」

「たまちゃん何メモってんの!」

「いや、オイシイネタだなあと思って」

「……いっそ本にしてください」

「アヤさんめっちゃ身ぃ削ってんね。ライフも削られてるし」

「カズさぁん!」


 程良く温くなった紅茶を一気に飲み干したアヤさんは、カバンの中から小さな缶を取り出した。その缶を開けば、ふわりと漂う花のような香り。えっと、これって。知ってるようで、言い当てることは出来ない。でも知ってる香り。


「向島の星ナントカ大学に先輩がいるって言うなら、これをつけて街を歩けばいつかどこかでテケテーン、ってなことがあるかもしれないですよね!」

「僕は死にましぇえん!」

「慧梨夏、元ネタが違う。それでアヤさん、これは?」

「研修先の先輩からもらった西京のお土産で、金木犀の練り香水なんですよ」

「あー、これが金木犀かー。でも随分強硬手段に出たね」

「研修先の後輩の子が言ってたんです。先輩っていうことは、部活にしてもサークルにしてももう引退してる可能性があるって」


 確かに、俺ももうサークルを引退しているし、他の大学の違うジャンルのサークルでも3年で引退するところがあるのかもしれない。慧梨夏はまだ現役だけど、確率的にはイーブンだろう。

 どうやら、アヤさんは意外と時間が残っていないということに気付いてしまったのかもしれない。先輩ということは就職を控えているワケだし、山羽の人ってことは地元に帰って就職するという可能性もあるから。


「とにかく、現場にいない可能性がある以上、街での偶然の出会いでもいいです! 舞台に来てもらうのがベストですけど!」

「アヤちゃんがんばれー」

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