寝かせたタネの完成形

公式学年+1年


++++


「おい、バカリン」

「バカリン言うな」


 ゼミで駆り出されていた仕事が終わり、人もまばらになったその場所で一息つく。昼休み、広場で行われていたのはオリンピックに出る大学関係者の壮行会。もちろん、もう最終合宿や海外遠征に行っている人もいるから簡素な応援会なんだけど。

 目立つことが好きなヒゲが買って出たのか、それとも大学側から買われたのかは知らないけど、この壮行会には佐藤ゼミから何人かがスタッフとして駆り出された。司会進行のアタシと、あとはミキサーと映像撮影で何人か。


「何でお前があっち側にいないんだ」

「何でって。辞めたことは後悔してないし。それを言うならアンタもこっち側じゃん、ナギ」


 アタシにバカリンなどと失礼な呼び方をしてきたこの男は、中学からの腐れ縁の市川凪。中高は陸上部で一緒だった。ナギは大学でも陸上部だけど、去年膝をケガしてようやく今年トラック上に復帰できるレベルになったばかり。

 ナギの言う“あっち側”というのは壮行会で送り出される側、つまりオリンピックに出る側。壮行会の場にいたにはいたけど、アタシは送り出す側。ナギ的に、どっか引っかかったのかもしれない。

 でも、高校最後の試合の後、陸上を辞めるということは伝えていた。ナギはアタシにまだやれるって言い続けていたけど、アタシの気持ちが追いついてこなかった。やっぱり、アタシは失望されたままなんだなって。


「続けてれば、お前なら」

「それ以上はなし。言ってるじゃん、後悔してないって。それに、続けてても心や体が傷つかない保証はないよね。それはアンタもわかってるでしょ」

「お前の言うこともわからないでもない。リハビリをしていた間、心は何度も折れそうになった。戻って前以上の走りが出来るのか、怪我が再発しないか、とかな」

「確かに、アタシはナギみたくケガをして走れなくなったワケじゃないから見ようによっては確かに逃げだし、甘えだと思うよ。メディアに取り上げられて、調子に乗っちゃったね。その分、叩き落とされた時に粉々になっちゃった感じ。11秒台を出すだけなら今でも多分出来る。でも、競技の場にはもう戻れないし、戻らない。ごめんねナギ、アンタが思ってるような根性じゃなくて。うん、やっぱアタシ調子に乗っちゃうからダメなんだよね。驕りだよ驕り」


 急に、目の前が暗くなった。頭に何かがまとわりついている。必死にそれを潜って、剥がせば、顔にかけられていたのは大きなナギのジャージだった。それを返すと、また顔にかけられる。


「おい、バカリン」

「……バカリン言うな」

「後悔してないって言うなら泣くな」

「泣いてないし」

「ジャージかぶったまま聞け。お前が本当に逃げたと思ってるなら俺はお前と関わりを持たない。その分を自分の練習やリハビリに充てる。お前がメディアについて勉強するために推薦を全部蹴って一般で受験したのも知ってる。だからお前はバカリンなんだ。こうだと思ったら一直線で、独りで道を拓くから。粉々になったっつってる心も、水を加えてこねたらちゃんと丸まっただろ。お前が好きな……パンかうどんかは知らないけど、そんなようなモンだ。お前が死んでないって最初から知ってる。お前に走って欲しいと思うのは、俺のエゴだ」


 顔を見ていないからこそ。それはお互いに。今では顔を合わせることが少なくなったけど、どこかで腐れ縁が根っこを生やしてるモンなんだなって。でも、アタシの心がパンとかうどんのタネだったら今頃全部アタシに食べられて同化してると思う。


「ナギ、アンタズルイ」

「何がだ」

「ジャージかぶせたままにしとくとか。今アタシ涙腺我慢してて絶対変な顔じゃん」

「元々大した顔じゃないだろ」

「ぶっ飛ばす」

「お前の声はたまに聞こえてきてる。昼にラジオやってるだろ、あれで」

「あ、そうなんだ。どう? アタシのMCっぷり」

「向いてるんじゃないか? あのラジオやってる中では1番聞きやすい」

「アタシゼミのラジオは金曜不定期だから。あと、サークルでも食堂でラジオやってるからそっちも聴きに来てくれてもいいよ」


 過ぎたことはもうどうにもならないし、決めた道を歩くだけ。綺麗事だけど、陸上を辞めたからこそ見えるようになったことがあるし、出会えた人たちもいる。それに、自分はもうその舞台には立たないけど、陸上のことは今でも大好きなのだ。

 だからリハビリを乗り越えてまだ頑張るナギのことは応援したいし、密かに見守ってる感じ。アタシがどうこう出来るのは、縁起でもないけどナギの心が小麦粉になったときくらいだと思う。水を加えてこねこねって。


「いや、俺が言ってるのは食堂のラジオの方だ」

「え、そっち!? いやー照れちゃうなーMBCCの方を認知されてるとか」

「そろそろジャージ返せ」

「ダメ! ハズいから!」

「返せ」

「ダメ!」

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