キセキの光

 口にタオルを当てて、少しばかりの咳払いを。まだ本調子と言える状態にないのは明らかな菜月先輩と、来る明日に向けた話し合い。今この状況では、1分1秒でも惜しい。重なった奇跡を最大限生かせるように働くだけだ。

 金曜日3限は課題で終わる。普段なら、わからん教えろとグズるヒロを見守りつつ待って一緒にサークルに行くけど、今日はそれどころじゃないのをヒロもわかっている。だから「課題はボク自分で頑張るからノサカ行ってええよ」と後押しをもらった。いつもこうならどれだけいいことか。

 そもそも、昨日の時点で初心者講習会まであと2日。そんな状態でプロ講師の人にドタキャンされ、絶望に暮れていた俺たちに射し込んだ一筋の光。菜月先輩が講師を引き受けてくださったという奇跡。風は吹いている。


「あの、菜月先輩」

「何だ」

「いえ。その、お体の方は」

「問題ない。明日には今日より良くなってるだろ。食べる物も食べれてるし、夜だって寝られるようになってる。うちのことは心配するな。お前は明日のことを考えろ」


 圭斗先輩に言わせれば恒例となっている菜月先輩の夏風邪。今週頭は寝込まれていて、水曜日のサークルには声が出ない状態で顔だけ見せに来られた。昨日になってようやくそれなりの生活を取り戻されたようだけど、やはり心配だ。

 だけど、風邪をひいていることをわかっていて頼んだのは俺だし、菜月先輩が大丈夫と仰るならその言葉を信じるしかない。現に、一番酷かったときより良くなっているというのは事実としてある。


「全体講習だろ、ミキサー視点では何が欲しい?」

「菜月先輩の思われるようにしていただいて」

「うちはアナだからな、ミキサーの欲しい物はわからない。うちはお前に聞いてるんだ、ノサカ」

「ええと、そうですね……」


 菜月先輩と講習会に関する話を進めていると、対話という当たり前のことがとても素晴らしいことのように思えて(例によって要経過観察をもらっている不整脈とは関係なく)胸がジンジンして、目頭が熱くなる。

 こちらが何を求めているのか聞いてくれるし、引き出してくれる。それでいて「これはこうだけどこうしたらどうなると思う?」などと話を広げてくださるのだ。アプローチは違うかもしれないけど、果林もきっと高崎先輩にこういう物を見ていたのだろう。


「よし、全体講習は大体詰めれたな。後は、明日現地で伊東にも聞いてみよう」

「そうですね」

「でだ、見本番組だな」

「はい」

「こないだの昼放送を基本に――」


 菜月先輩には見本番組もお願いすることになった。最初は伊東先輩に今からミキサーをお願いするのかと対策委員はざわざわした。実際伊東先輩ならキューシートさえあればぶっつけでも出来るだろうし過去に菜月先輩と組んだ経験もある。

 だけどヒロが「菜月先輩の番組なら昼放で相方やっとるノサカがミキサーやればええやん」と言ったことで話は収束。伝説となっている去年のファンフェスの再現もどきは見たかったけど、ご尤もなんだよな、ヒロのクセに。


「構成はキューシートの通りだし、番組に関してはお前に任せるぞ、ノサカ」

「えっ」

「場所とか状況とか、そんなものは忘れていつも通りに。そうすれば、うちもお前もいつも通りにやれる。いつも通りでいてくれさえすればいい。お前の緊張は伝染しやすいんだ」

「申し訳ございません」

「もしもうちが緊張してたら手のひらに人という字を書いてくれ。お前が緊張してたら背中に拳のひとつでもくれてやる」

「はい、ぜひ」

「あとは、うちもお前もしっかり寝ていい朝を迎える。それだけだ」


 いつも通りに。そして、しっかりと寝ていい朝を迎える。恐らく、俺が今まで聞いた菜月先輩のどの言葉よりも前向きだ。菜月先輩のお言葉はとても力強く、俺の心を覆っている暗雲の隙間から世界を照らしてくれる。

 知っていたけれど、やはり菜月先輩という人の大きさだ。俺の希望で、憧れで。だけど、時折垣間見る脆さや儚さ。いろいろな物が集まって出来ているけれど、今の菜月先輩は紛れもなく前向きで、その目はしっかりと明日を見据えている。


「議長、明日は間違っても電車で寝たりするなよ」

「はい、車内が空いていても絶対に座りません」

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