第109話 マジかよ

 母さんは、俺の出発を拒まなかった。


『それじゃあ、行ってくるから』

『…………うん』


 まだ小さな自分が背負うには、少し不釣り合いにも思える大きなリュック。それを背負って、俺は山小屋の前で、母さんと向かい合った。

 結局、朝までは家に居ることになった。だから、その旅立ちは夜明けだった。俺が出て行く事を承諾した母さんは、それきり俺に、何を言う事もなかった。

 俺が当時の魔導書に書かれていた魔法を全てマスターした事に、母さんは驚いていた。でも、どこか分かっている風だったのは、一体どうしてだったのだろう。

 扉の前で、俺は母さんに笑顔を見せた。


『母さん』

『なに?』

『手、出して』


 言われるがままに手を出す母さんに、俺は袋を握らせた。不思議に思った母さんは、その袋の中身を覗いた。

 そうして、驚いていた。


『セントラルで、稼いだんだ。魔法芸だよ、誰にも迷惑掛けてない。計算したら、全部で一セルと、二千トラルくらいあったからさ。馬車に乗るのに三千トラルくらいは掛かるから、六千トラルだけ、持って行くよ。母さんはそれで、ちゃんとしたご飯を食べて欲しいんだ』


 母さんは少し、泣いていた。


『…………行き先は、分かっているの?』

『うん。セントラルの西にある山に、本物の魔導士が住んでいるんだって。マックランド・マクレランって名前だって。教えて貰ったんだ、傭兵が集まっているところがあってさ』

『…………そう』

『ちょっと、変わった人みたいだけど』


 少し、行って帰って来るだけだ。

 俺は、そう考えていた。セントラル・シティの図書館で、ありったけの魔法を覚えた。もう、本に書かれている魔法で俺が使えないものは無かった。だから、そのマックランド・マクレランという魔導士に会ったとしても、きっと俺はすぐにマスターして、魔導士になれるはずだ。

 名実共に、魔導士として。


『それなら、安心ね』


 不思議な事に、母さんはそれきり、マックランド・マクレランという人間について、何も聞かなかった。俺は少し驚いたが、聞かれてもいないのに説明する内容じゃない。

 だから、俺は母さんに背を向けて、歩き出した。


『じゃあ、行ってきます』


 俺は、晴れ晴れとした気持ちでいた。母さんもすっかり、俺を認めてくれた。俺を頼ってくれた。…………だから今度は、俺が実際に、行動で示す番だと思った。

 今度はちゃんとした魔導士になって、俺が母さんを支える。母さんが俺にそうしたように。そうして、山小屋からちゃんとした家に引っ越して、美味しいものを食べさせてやりたい。

 ずっと、食べ物とも言えないようなものを食べて、生き延びてきた母さんに。


『グレン』


 呼び止められて、俺は振り返った。

 俺は少し、興奮していたと思う。



『…………ごめんね』



 そう言って、母さんはまた、苦笑した。

 俺は、興奮した感情が徐々に萎んでいくのを感じた。


『…………ううん。行ってきます』

『行ってらっしゃい』

『すぐ、帰って来るから』


 俺が笑うと、母さんも笑い返してくれる。だから、俺はそれを合図に、山小屋に背を向けて、それから振り返る事はなかった。

 その時は、どうして自分が気落ちしてしまったのか、分からなかった。希望に満ちた一歩が、どうしてか急に、遠くなってしまったような気がした。

 多分、俺は母さんから違う言葉が出ることを、期待していたんだと思う。



 ただ一言、『ありがとう』と。



 *



 山の麓までは、馬車を使ってあっさりと辿り着いた。でも、そこから先、山を登るのは一筋縄では行かなかった。

 息を荒げて、段差を登る。セントラル・シティで食料と水を買い込んだから、所持金は殆ど尽きていた。でも、セントラルで得た情報では、ここに魔導士が居ると色々な人が言っていた。

 ちゃんと下調べをした。登り切るまでの準備も整えた。名前も、風格も、写真も見た。

 だから、俺がこの山を登りさえすれば、きっと出会える。


『ハア…………ハア…………』


 膝の関節が笑う。子供には厳しい傾斜だ。まるで壁のような高さの石を、どうにか足を掛けて登らなければいけない場所もあった。そういう時は、リュックをまず上に投げて、リュックに括り付けておいたロープを頼りに、上へと登る。

 結構な量の食料と水があったから、リュックも相当、重かった。今思えば、ロープを垂らして俺の身体を支えられるという事は、俺の体重よりも重たいものを、俺は背負っていたという事になる。

 登っては休み、登っては休む。その繰り返しだった。


『あー…………!!』


 少し開けた場所に出ると、俺は芝の上に大の字になって寝転がった。


『くっそ…………なんで、こんな所に住んでんだよ…………!!』


 誰かに文句の一つも言いたくなる場所だった。その声は虚空に消えて、誰の耳に届く事も無かったが。

 それでも、寝転がっていれば落ち着いてくる。セントラルの道端で一日過ごして、朝になってから馬車に乗り、山に登る前に麓でまた一泊した。それでも、もう日は落ちかけていた。

 リュックから水筒を取り出して、水を飲む。


『早いなー、一日…………』


 山小屋で燻っていた時とは、明らかに時間の進み方が違っていた。

 再びリュックを背負って、上を目指した。…………だが、それなりに道は暗くなっている。焚き火をして、今夜はここで一泊するべきだろうか? 何日掛けたとしても、到達できればそれで良いのだから。

 その場所は広かった。俺は休む事に決めて、再びリュックを地面に下ろした。


『…………木の枝、集めるか』


 魔法が使える俺に、焚き火をする事など造作もない事だった。既にコントロールは完璧だ。目を閉じていたって、山火事なんか起こさない。

 もし火がどこかに燃え移りそうだったとしても、いつだって水の魔法が使える。だから、怖いものは無かった。

 散らばっている木の枝を集めながら、俺は楽観的に見ていた。山の中で野宿した事なんて、これが初めてだという事も忘れて。


『ん?』


 ふと、物音がした。したような気がしたのだ。

 木の枝を集め終える頃には、すっかり辺りは暗くなっていた。木々の向こう側は、闇に包まれていた。空気は冷えて、少し肌寒さも感じ始めていた。

 どこかで、蝙蝠の鳴く声がする。


『――――――――ギャオオオオオッ!!』

『――――――――うわああああああっ!?』


 俺が叫んだのと、闇から魔物が飛び出したのは、殆ど同時だった。

 小さくとも、当時の俺よりは二回りも大きい魔物。ゴブリンだった。棍棒を持って、俺に向かって殴り掛かって来た。


『【レッドボール】…………!! 【レッドボール】!! 【レッドボール】!!』


 俺は、魔法を放った。何度も何度も魔法を連呼し、飛び掛かったゴブリンに火の球を浴びせる。

 ゴブリンは悲鳴を上げて、その場に落下し、尻餅を突いた。俺が魔法を使ってくる事など、予想していなかったのだろう。どこか驚いたような表情で、俺を見ていた。

 だが、完全に俺の気は動転していた。倒れたゴブリン目掛けて、更に火の球を連続して浴びせる。ゴブリンは燃え、動かなくなり、辺りに炎が広がった。


『…………わ、わああっ…………!? えっと、【ブルーカーテン】…………!!』


 今度は水の魔法で、慌てて消火を試みる。瞬く間に燃え広がった巨大な炎に、水の塊が降り注ぎ、それは素早く鎮火した。


『ハア…………ハア…………』


 全てが終わった後で、俺は恐る恐る、先程まで炎が燃えていた中心地である、ゴブリンを覗き込んだ。

 …………ゴブリンは、黒焦げになっている。

 俺は脱力して、その場に尻餅をついた。


『ハア…………ハア…………』


 魔物と戦った事なんて無かった。初めての魔物討伐。噂にしか聞いた事のない存在を、俺は目にしていた。

 そうして、どうやら、俺が勝利したらしい。

 どっと疲れ、俺は歩いた。…………随分と火を怖がっていたように思える。焚き火をすれば近寄って来ないのではないかと、俺は考えた。

 今夜は眠れないかもしれないと、漠然と考えながらリュックのある場所まで戻り、そして――……


『…………マジかよ…………』


 何者かによって盗まれたリュックに、俺は既に探す気力もなく、その場に倒れ込んだ。



 *



 月が明るい。


 火を炊いて静かにしていると、魔物の気配はしなくなっていた。活動時間があるのだろうか――……夕刻だったから、たまたま俺が発見されたのかもしれない。

 俺を護る、巨大な火。それを目にしながら、気付けば俺は、うつらうつらとし始めていた。枕もないので地面と頭の間に腕を敷いて、俺はポケットに手を突っ込んだ。

 ポケットには、山小屋を出る時に持ち出した、小さなロケットがある。


『…………必ず、魔導士になって帰るからな』


 俺は、写真の母さんと約束し。そうして、眠りに就いた。


 次の日からは、食料と水を失った状態で山を登らなければならなくなった。また、岩を登るためのロープも失い、俺は素手で山を登った。

 想像以上に、事態は深刻だった。すぐに息は切れ、身体の限界が近付いたが、休憩しようにも食料がない。岩を登ろうとして落下すると、ダメージを受ける上に無駄な体力を使う。


 俺はやがて、疲弊し、動けなくなって行った。幸いにも、魔物に襲われたのはゴブリン一匹だけだったが。食料を奪われたのが何よりも大きかった。不思議なもので、食べずに動いていると、身体の方から動かなくなって行ってしまう。そこに、俺の意思は関係なかった。


『……………………』


 足が重い。筋肉痛は限界を超えて、既に一歩踏み出すのが億劫な程になっていた。足を上げようにも、両手で足を持ち上げなければ筋力が足りない迄になっていた。段差をひとつ越えるのに莫大な時間を消費し、目はかすんでよく見えない。知らず、呼吸は浅くなっていた。

 もう、言葉ひとつ喋るのでさえ、気力が湧いて来ない。


『…………さむ…………』


 両手で身体を抱き締める。エネルギーが無いと、人はこんなにも動けなくなるものだと知った。

 まさに、ほんの一瞬が命取りだったのだ。あの時、俺が食料を奪われなければ――――…………辿り着く事は、案外容易だったのかもしれない。だが、活動力を失ってしまえば、文字通りに動けなくなるものだった。

 無心のまま、俺は階段を上がり、そして――――…………その場に、倒れた。


『母さん』


 自分がどこに居るのか、分からない。


『グレン…………!!』


 どこかで、母さんの声がする。


『しっかりして!! グレン!!』


 煩わしい。既に、返事をする気力なんて無かった。どこか、遠い話のようにも感じていた。


『しっかりするんだ!! 目を開けろ!!』


 …………あれ? その声は、母さんのものではない。細く柔らかな母さんの声とは違って、強く、逞しいものだ。意思のはっきりとした、女性の声だ。

 どうして、俺は目を閉じているんだろう?

 眠ってはいなかった筈なのに…………。



『しっかりするんだ、少年!!』



 俺は、目を覚ました。


 暖炉では、炎が燃えている。俺は気が付けば、柔らかく清潔なベッドに寝かされていた。

 服も変わっている。家から持って来たぼろぼろのシャツとズボンではなく、新品だ。俺の身体にぴったりと合っていた。

 部屋の中には、暖炉と、丸テーブルと、椅子。…………の向こうには、鍋。新鮮な野菜の香りが、鼻をくすぐった。


『良かった、生きていたか…………!!』


 俺に声を掛けていたのは、どこか凛々しい顔をしている、黒髪の女性だった。


『…………あれ?』


 今更俺は、この不自然極まりない状況に、頭を悩ませていた。

 自分は確か、山に居たはずだ。魔導士に逢おうとして、山を登っていたはず――――…………それが、見知らぬ女性の部屋で目覚めている。ここは、どこだろう。


『あ、あの』

『いや、良かった。エネルギー不足で倒れたみたいだな。これを飲みなさい、身体が暖まるだろう』


 そう言って、女性は俺に器を寄越した。どうしようもなく、俺はそれを受け取る。

 …………野菜のスープだ。向こうの、あの鍋で煮えているものだろうか。

 一口飲むと、じんわりと身体が暖かくなった。暖かいスープなんて、俺は初めて飲んだかもしれない。記憶に無いだけなのか、どうなのか。


『どうだ? 私の手製だぞ。うまいか? うまいだろう?』

『…………うまい』

『そうか!! うまいか!!』


 俺がそう言うと、女性は嬉しそうに笑った。

 少し、気恥ずかしくなった。こんな風に人から笑い掛けられたのは、初めてだった。俺は価値のある存在にならなければ、誰からも、見向きもされなかった。


『あの…………あなたは?』


 俺が問い掛けると、女性は胸に手を当てて、言った。


『ああ、私は――……マックランド・マクレラン。奇遇にも、この山に住んでいたんだ。良かったな、私がいて』


 俺は、驚愕した。

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