第94話 母親は飯を食べない
ヴィティアはテーブルに突っ伏して、紅茶のカップを指で弄っていた。
「思えば、リーシュが攫われたのも、私がリーシュを連れ出したから、なんだよね。…………ごめん」
すっかりヴィティアは自信を喪失しているようだったが…………何を言い出すのかと思えば、そんなことか。
「あれは事故だろ。ヴィティアのせいじゃないよ」
「そうかなあ。……私が固まらなければ、そもそもリーシュは逃げられていたかもしれないのに」
その時ふと、ある疑問が頭の中に浮かんできた。
「そういえば、その時って何があったんだ?」
「その時、って?」
「二人が居なくなった夜だよ。俺とスケゾーとトムディは朝方に発見したから、何が起きたのか知らないんだ。タリスマンで会った連中が、攻めて来たってとこか?」
ヒューマン・カジノ・コロシアムには、少なくとも三人は連中の手先が居たからな。
ヴィティアは俺の言葉を聞いて、記憶をどうにか辿ろうとしているように見えた――……やはり、当時の記憶は殆ど失ってしまっているのだろう。人差し指をこめかみに当てて、うんうんと唸っている。
当時、まだヴィティアは連中の手先だった可能性もある。記憶を操って来るような人間だ、ヴィティアがどうなっていても、おかしくはないとも思うが。
ヴィティアは暫くすると、目を見開いた。
「――――思い出した」
「おお、本当か…………!! 何があったんだ!?」
「マグマドラゴンの卵が孵化するまで無事な確率は、およそ六十二%と言われているわ」
「何を思い出してんだよ」
「…………あーっ!! もー!! 駄目!! 何も思い出せない!! 悔しい!!」
そう言いながら、再びテーブルに突っ伏すヴィティア。思わず、俺は苦笑してしまったが……周囲の注目を浴びるから止めた方が良いぞ。
頭を抱えたヴィティアは、唇をへの字に曲げて、眉を寄せていた。
「確か、私の知ってる限りでは一番首謀者に近い人間だったと…………思う」
首謀者…………!!
「そ、そうなのか!? そうだとしたら、これは大変な事だと思うんだが…………どうにか思い出せないのか、ヴィティア!!」
「せめて、あいつの顔くらい思い出してやりたい…………紙とペン持ってない?」
「おう、ちょっと待ってろ…………!!」
俺は魔法のポケットから紙とペンを実物大に戻し、ヴィティアに渡した。ヴィティアは何かを閃いたようで、素早くその紙にペンを走らせる――……!!
思わぬ所から、綻びが生まれたものだ。若しも、まだヴィティアがそいつの顔とやらを思い出せるのだとしたら、これは凄い手掛かりになるぞ…………!!
ヴィティアは何かを描き終えたようで、俺に紙を突き返した。
「どうよ!!」
本当か…………!? 俺は紙を確認して…………確かに、顔が描いてある。想像していたよりも遥かにつぶらな瞳、人を挑発しているとしか思えない口、まさか生えているとは思っていなかった髭、硬そうな鼻…………それから、耳…………?
「猫じゃねえか」
「あーっ!! もおおおおお!!」
テーブルにガンガンとデコを打ち付けるヴィティア。…………不覚にも、ちょっと面白かった。
「まあ、仕方ねえよ。そういう魔法だか呪いだか、掛けられてるんだろ。そんなもんだって」
すっかり赤くなったデコを押さえて、ヴィティアが顔を上げた。不甲斐ない自分に嫌気が差しているようだったが、少し涙ぐんで俺を見詰める。
…………タリスマンを出てからというもの、こいつの表情や仕草は、いちいち可愛い。…………俺が親バカなだけか。
ふと、ヴィティアは申し訳なさそうに俯いて、小さく呟いた。
「でも、リーシュを連中の所に連れて行こうとしていた訳じゃなくて…………私、逃げて欲しいと思っていたと、思うのよ。…………それだけは、信じて欲しくて」
曖昧な記憶が、ヴィティアの不安を更に増長させているようだったが。
俺はヴィティアの頭を軽くチョップした。
「痛っ…………」
「バーカ。そんな事、気にしてんじゃねえよ。今更そんなもん、どっちだって良いしな」
「ば、馬鹿って何よ!! 私はこれでも、一応…………」
テーブルを叩いて、思わず立ち上がるヴィティア。俺は腕と足を組んだ姿勢のままで、立ち上がるヴィティアを見上げた。
「疑わねえよ」
「えっ?」
あの時、確かにヴィティアはリーシュを連れ出したのだろう。全ての荷物を持って、そこから出て行くつもりだった。それは確かだ。
だが、俺にはこんな風に他人を思いやれる人間が、誰かに脅迫されるでもなく人を貶めるとは、どうしても思えなかった。
「ヴィティアは、そんな事はしないよ。あの時に仲間だったかどうかは分からないが、友達だとは思ってたんだろ?」
「…………うん」
「だったら、しないって。大丈夫だ。…………お前は、大丈夫」
そう言って、俺はヴィティアの頭を撫でる。
ヴィティアの肩に伸し掛かっていた重みが、これで少しでも軽減されると良いんだが。
呆然と、ヴィティアは俺の腕を見詰めていた。相変わらず、その目は少し涙ぐんでいたが。少し微睡んだような顔で、ただ、俺の手を受け入れる。
きっと、こいつの後悔はリーシュを救うまでか、或いは救った後も、残り続けるのだろう。それが自分にはどうしようもない出来事だったと理解していても、知らずの内に心の奥底に絡み付いて、離れなくなってしまっているんだ。
まあ後悔の念なんてものは、多くはそんなものだ。少なくとも、その時はどうしようも無かった。そう思わなければ、「あの時ああしていれば」なんて言葉ばかりが、頭の中に渦を巻いてしまうもの。
大切なのは、これまでじゃない。これから、なんだ。
「…………へへっ」
ヴィティアは力無い笑みを浮かべて、俺の手を握った。ついでに、俺の頬も緩んでしまった。
「おいご主人、チョロインの管理はちゃんとやれよ」
同時に背後から聞こえた声に、俺は思わずゾッとしてしまった。
「…………スケゾー? どうした?」
亡霊のように俺の肩に現れたスケゾーは、眠そうな目を擦りながら、とんでもなく不機嫌になっていた。腕を組んで、肩に座る。
「確かにオイラは人とは違って、寝る時間は短えっスよ。でもね、その分睡眠時間ってのは大切なんスよ。誰にも邪魔されちゃあいけねえ時間なんですよ」
「あ、ああ、知ってるよ。だからこうして、起こさなかったんじゃねえか」
何だ? 何だかよく分からないが、随分と不機嫌だな…………と思った次の瞬間、『赤い甘味』の扉が勢い良く開いて、中に居た人間は驚いて、扉の方を見た。
「ここに居たかこの泥棒猫がぁ――――――――!!」
ああ、なるほどね。これか…………。
遂にセントラル・シティまで来てしまったキララ・バルブレアが…………いや、一応俺が呼んだのだが…………小柄な足で喫茶店の床をどすんどすんと踏み鳴らしながら、俺達の方に近寄ってくる。俺の肩に居たスケゾーをむんず、と掴んで持ち上げると、被っている髑髏ごと、すりすりとスケゾーに頬ずりをした。
「ああ、偉いぞグレンの使い魔よ!! お前には後で褒美を取らせてやろう!! よーしよし!!」
「オイラはハムスターじゃねえって言ってんだろうがこのロリババア!! このスケルトン・デビルの末裔を、舐めて掛かると痛い目見るっスよ!?」
「愛い、愛い奴よのう!! 妾もこんな使い魔が欲しかったっ……!!」
「聞いちゃいね――――!!」
まあ、髑髏を被っている以外は確かに、ハムスターに見えなくもない…………が。それ以上はスケゾーが本気でキレるから、止めておいた方がいい。
スケゾーは青い顔をして、キララのされるがままになっていた。…………すまん、スケゾー。でも、スカイガーデンに行くためのアイテム『昼の顔』『夜の顔』が揃った段階でどうしても、その行き方とやらをキララに教わらなければいけなくてだな。
セントラル・シティまで連れて来るのが、最も手っ取り早かった。
連れて来なければ俺があの城を出られなかった、という問題もあったが。
「貴様…………!! こんな、オサレなキッサッ…………!! 喫茶店なんぞに入りおってっ…………!! も、もしやこれは『でーと』…………!? 噂に聞く『でーと』とやらなのか…………!?」
キララは歯を食い縛って、今にもヴィティアに殴り掛かる勢いだ。キララの城では、まだキララに怯えていたヴィティアだったが…………今となってはすっかり慣れた様子で、真正面からキララの凶悪な視線を受け止めている。
いや、ヴィティアは既に余裕の笑みまで見せていた。
「言っておくけど、これはグレンの方から誘ってもらったんだからね」
「グレ――――――――ン!!」
俺の胸倉が掴まれ、涙ながらに振り回される。…………視界が。かくかくとキララが俺の胸倉を揺らす度、俺の三半規管がマグマドラゴンの上だ。
そういや、あのマグマドラゴンは元気かなあ…………なんて、少しばかり現実逃避してみる俺である。
「そなたは何か!? 妾よりもそこの、女としての魅力が欠片も感じられない小娘が好みか!? そんなに洗濯板が好きか!?」
いや、お前は全く人の事言えないだろ。とは流石に言えないので、黙っておいた。
ヴィティアが完全に勝ち誇った表情で、キララから俺を奪い取る。
「時代が違うのよ、引っ込んでなさい年増幼女!!」
「ぐぐぐ…………くそう、蛇のように狡猾な女だっ…………!!」
…………だから、蛇はお前だって。
*
たまに、自分が夢を見ているのだと分かる時がある。
大抵そういう時は、母さんの夢を見る。別に過去を変えられるとか、そんな風に都合の良い展開になる訳でもなく。ただ、起こった出来事を再生しているだけの映像が、何度も繰り返される。
その日も俺は、夢を見ていた。遠い日に毎日を過ごして来た、埃とカビだらけの、剥き出しの木造。誰かが作って捨て置いたのだと思われる、山奥の小さな小屋だ。
俺は小さな椅子に座って、母親が出してくれる、パンと切った野菜だけの不味い飯を、特に感想もなく食べている。火を使わず、買って来ただけの物で飯を済ませようと思ったら、それ位しかやれる事が無かったのだろう。
食卓と言うには程遠い、少し体重を掛けるとガタガタと音の鳴るテーブル。その上に置かれた皿は、一枚だけだ。対面では、母さんが微笑みを浮かべて俺を見守っている。
やがて、俺は少し不安そうな顔で、母さんに問い掛ける。
「どうしてお母さんは、晩御飯を食べないの? …………三食ちゃんと食べないと、身体に悪いよ」
――――くそ。昼間に、ヴィティアと呪いの話なんかしたからだ。
薄暗い部屋の中。母さんは微笑みを浮かべたまま、予め決めていたであろう台詞を口にする。
「お母さんはいつも、夜に食べているのよ」
それは、嘘だ。いや、本当だったのかもしれないが、それなら何故、俺と一緒に食べる事をしなかったのか。
俺よりも遥かに食べている量が少ないからではないか。…………後から考えれば、そうだったのだろうと思う。だけど、当時はそんな事には気が付かなかった。
まだ年端も行かない子供の俺にとって、日常を俯瞰して客観的に考える視点など持たない。精々、『うちは貧乏』位の認識だった。
ただ、そんな子供の俺にも、理解できていた事がひとつ、ある。
母さんの足が、どういう訳か歩くのが大変な位に悪かったことだ。
「お母さんは足が悪いから、料理ができないんでしょ」
そう言うと、いつも母さんは苦笑して、それで終わりにしてしまう。何故足が悪いのか、いつから悪いのか、治る見込みがあるのか。そんな話を、俺は聞いた事がない。
きっとそこには、深い理由があったのだろうとは思う。
「セントラル・シティに行くと、子供はみんな、晩御飯の話をしてるよ。うちはパンばっかりだし、量も足りないよ」
「…………ごめんね」
謝って欲しい訳ではなかった。
別に、母さんを責めようと思った訳ではない。ただ、俺は当時、ずっと考えていた。
こんな所で生活していては、いつか母さんは死んでしまう。
やつれた頬。すっかり痩せていて、風が吹けば飛んでしまいそうな身体だった。俺も、人の事を言える状況では無かったと思う。それでも、母さんよりは幾らかマシだった。
セントラル・シティに出て、普通の家族のように、暮らしたい。それが、俺の細やかな願いだった。
「お母さん、こんな所、もう出ようよ」
だけど、俺の問い掛けに対する母さんの回答は、いつも同じだ。
「ごめんね」
ただ、どうしようもなく、苦笑するだけの母親。その言葉を聞く度、俺は燻っていた。母さんは、今の状況を改善する気が無いんだ。自分がどれだけ大変な状況にあるのか、分かっていないんだ――……当時、俺はそう思っていた。
今だからこそ、分かる。
あの時の母さんは、それこそ魔法か呪いかで、足をやられていた。
その最低の生活は、俺達親子にとって、きっと最善の生活だったに違いなかった。
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