その2 Y坂の話
A男は小学三年生の男の子だ。この子の住んでいる町の外れには、Y坂と呼ばれる坂があって、その横に赤い鳥居のちょっとしたお宮がある。そのあたりの景観はごくごくのんびりとしたもので、一日の終わりに林に夕日が差しているさまなどはなんとも言えない穏やかなものだった。ただもしあなたがちょっと注意して観察してみるなら、人がほとんど訪れる様子がないことに気づくだろう。町はずれにあるために、住民にとって足を延ばしにくい場所だからかもしれない。
ある日の放課後、A男はいつものように友達と鬼ごっこをしていた。ところがその日はどういうわけか早々にみんな飽きてしまって、新しい遊びを相談しはじめた。そこでA男が提案したのが、
「Y坂に行ってみよう!」
ということだった。町はずれに徒歩で行くのは、小学三年生にとってはちょっとした冒険なのだ。はじめはみんな乗り気だったものの、話を詰めていくうちに非現実的なことに気づいてだんだんと意気消沈していったものだ。そんななか、A男の家の隣に住む幼なじみの女の子だけが一緒に着いていくと言ってくれた。長い黒髪と右目の下の泣きぼくろがチャーミングな、クラスでもマドンナ的存在の子だ。
A男は友達に勇気のあるところ、女の子には頼もしさを見せたいと思って、その子を伴って実際に行ってみることにした。目論見どおり、同級生たちはA男のたくましさに驚いていたので、彼は鼻高々だった。
「冒険だね!」
と女の子は言った。彼らは、キャプテン・ジャック・スパロウとかインディ・ジョーンズとかの気分だった。以前テレビのロードショーで両親が見ていたのをのぞき見したことがあるのだ。
そんなわけでふたりは、町をてくてく歩いていった。初めははしゃぎながら。あとには息を切らしながら。ずいぶん長い時間がかかって、Y坂に着いたころには夕暮れだった。あたりは高台になっていて、町を眺望できる。秋のことだったので、ススキが風に揺れ、カラスがわびしげに鳴いている。
Y坂は背後の山と、お宮の前の道路をつなぐ坂だ。オレンジ色の夕日が木々の黒い影を落としていた。右手側には赤い鳥居とお宮がある。神主はいない。
「ぼくたち来ちゃったな」
とA男が言うと、疲れてしょげていた女の子も、「えへへ」と言って笑った。冒険のゴールとしてはさびしい場所だったけれども、ふたりは満足感でいっぱいだった。
「登ってみようか」とA男。
「うん、でもどこまで?」
「わかんない。行けるとこまで!」
ふたりはキャッキャと声をあげて、坂を駆けあがっていった。
坂は舗装されてはいるものの、ずいぶん狭く、自動車一台がやっと通れるかというくらいの幅だ。きっと古い時代からそこにある坂なのだろう。
道下から見える部分は明るかったが、少し登ると、左右からせり出してくる木々が視界を遮り、いっそ夜のような暗さだった。A男は少し怖くなったけれども、女の子の手前情けない態度も見せられず、がまんして登っていった。
「どこまで行くのう」
女の子が泣きべそをかきそうな声で、うしろから着いてくる。A男は自分も怖いので、なぐさめる言葉もかけられなくて、ずんずん進んでいくしかできなかった。気がつくと足が自動的に進んでいるような感じだった。
「あっ、向こうが見えたぞ!」
A男は走り出した。前方に光が見える。木々がなくなって、町の景色が見える。坂を登りきったのだ。ふたりは転がるようにして坂を下りた。と、そこに見えていたのは――。
まるっきり、登る前と同じ景色だったのだ。右手に赤い鳥居とお宮。うしろをふりかえると、町の眺望。町の反対側の景色ではない。登る前に見たのと全く同じ景色なのだ。
「あれえ、どうしてこっち側に出るのかな」女の子も首をひねっている。しばらくふたりでうんうん悩んだが、結局途中で坂が曲がっていて、同じ方向に下りてきたのだろうという結論しか出なかった。ずっと真っ直ぐ進んでいたような気がするのだけれど。
とにかくその日は家に帰った。
そうしたらものすごく叱られた。まあそれは、帰ってきたのが八時を過ぎていたから仕方がないことかもしれない。ただA男のお母さんはいつもとても穏やかでおとなしい人なので、彼は少しびっくりしてしまったというだけだ。夕飯はコロッケだった。茶わんに盛られたご飯に、箸が垂直に突き立てられていたので驚いた。まだ小学生のA男にはその意味はわからなかったけれど、なにかふつうではない気がした。お父さんはいなかった。仕事で遅いのかもしれない。
その日は異様な夢を見た。
その次の日は、一日どうも妙な日だった。朝起こしてくれたお母さんが、エプロンを裏返しに着けていた。製品タグが見えていたから間違いない。
登校する途中いつもあいさつしている近所の犬がいる。今日は影も形もない。代わりに犬小屋の中から猫が出て来た。犬小屋で猫を飼う? A男は首をひねる。
小学校に着いて上履きに履き替えようとしたら、靴箱のなかに靴がない。困っていると、周りの子たちが土足で校舎に入っていくことに気づいた。制度が変わったのかな。でもそんな連絡なかったはずだけど……。こういった、小さな妙なことが繰り返し起こった。
教室に行くと、自分の席に別の子が座って読書している。「どいてくれない?」と頼むと、怪訝な顔で「きみの席はあっちだろ」と教室の反対側を指される。いじわるでもないらしい。席替えした覚えもないのに。どうも怖くなって幼なじみの女の子がいないか見渡すが、いない。そうこうしているうちにチャイムが鳴ってしまった。
先生も授業も、全体としては昨日までと変わりないのだが、細かい点でちがいが生じている。授業を聞いていても身が入らない。どうして突然なにもかもが変わってしまったのだろう。家族も、学校の人たちも、近所の人も、昨日までとなにかがちがう。自分の知っている人たちの皮をかぶった、なにか人間でないもの。そう、たとえば、鬼とか悪魔とか宇宙人とか……A男は考える。彼らはA男が自分たちの仲間でないことを知ったらどうするだろうか。取って食うのか。わからないけれど、とてつもなくいやな予感がする。
「たかしくんが人間を八つ裂きにしたら何個の肉片になりますか」
みんなが、はい、はい、と手を挙げている。正解は四十二らしかった。
女の子が隣のクラスにいることに気づいたのは、昼休みだった。校舎の中で彼女はA男の姿を見つけると、目を大きく見ひらき、涙を潤ませて駆け寄ってきた。A男もそういうふうにしたい気分だった。
「なにもかも変わっちゃったの!」
女の子が叫ぶと、周囲の子供たちがぎょっとした様子でふりむくのがわかった。目が光ったような……気のせいかもしれない。が、念のためA男は女の子を引っ張って、校舎裏の人目につかないところへ連れていった。
「きみも気づいてるんだね」
この言葉をきっかけに、ふたりは言葉をほとばしらせはじめた。どちらもひとりぼっちで心細かったのだ。女の子の話を聞くに、そちらもA男と全く同じ体験をしているらしい。小さな違和感が、何度も繰り返し襲ってくる。なぜこんなことになってしまったのか。ふたりは相談しあったけれども、答えは出ない。やがて女の子があることに気がついて言ったが、それはこの体験をひとことで言い表す言葉であった。
「まるで全部が逆さまになったみたい」
サカサマ。裏返し。それはふたりの見たり聞いたりしたことに、ぴったりの表現だった。自分たちの知っていること、守らなければならないと教えられてきたことが、すべて通用しなくなっている。
「みんなが逆さまになったのかな。どうして? 病気?」
A男が推測を言うと、女の子が首をひねる。
「もしそうだったら、あたしたちも逆さまにならないとおかしいはず。むしろ、あたしたちがおかしいんだったら?」
「どういうこと?」
「この世界では、みんながふつうで、あたしたちのほうがお客サマなの。あたしたち、元いた世界を抜けて、逆さまの世界に入っちゃったとか」
女の子の勘の鋭さにA男は密かに舌を巻いた。
「いつ入ったんだろう?」
「昨日まではいつもどおりだったでしょ。昨日の夜おかしなことなかった?」
もちろんあった。Y坂での体験。登りきったのに同じ場所に戻ってくる坂。ふたりはうなずきあった。
「こんな世界もういやよ」と女の子。
A男も同じだった。
「どうすれば戻れる?」
答えはひとつしかなかった。もう一度Y坂に行ってみよう。
昼休みが終わるチャイム(これもいつもはきれいなクラシック曲なのに、聞いたことのない物悲しい演歌になっていた)が鳴ったが、ふたりは教室に戻らず、Y坂を目指すことにした。
A男の家はY坂と小学校のあいだにあったから、途中家に寄って冒険に必要なものを準備することにした。昨日の何時間もの徒歩旅行で懲りたのだ。A男のお母さんは本当なら専業主婦のはずだが、この世界では働きに出ているらしく、家は留守だった。A男と女の子は無人の家に忍びこんで、コーラ、ビスケット、桃の缶詰などを見つけてリュックサックに詰めこんだ。
「よし、行こう!」
こうしてふたりは出発した。
予想では日が落ちる前にはたどり着くはずだった。ところが不思議なことが次々に起こって、なかなか順調に進まないのだ。昨日は通れたはずの道が工事でふさがっている。目の前で車同士が正面衝突し、交通封鎖になってしまう。ある四辻では、真っ直ぐ歩いているはずなのに、三回も同じところを通ってしまった。まるで冬山で遭難しているように同じ道をぐるぐる回っていたのだ。
何者かが彼らを前に進ませないようにしているかのようだった。
「大丈夫、きっと着くって!」
ふたりはお互いを励ましあい、力を合わせて困難を乗り越えた。問題の四辻では一度立ち止まってコーラを飲んで休憩してからもう一度挑戦すると、今度はすっと通り抜けることができた。
そうしてふたりがY坂に着いたのは、やはり昨日と同じ夕暮れの時間帯だった。ひんやりした風が吹き抜け、お宮はしんと静まりかえっている。人の気配はない。それなのに、A男は誰かに見られているかのように感じた。お宮の閉じられた戸の奥に誰かがいるのでは……そんな不気味な想像を、頭をふってふり払った。
「どうする? また登るの?」
女の子がA男に訊いた。Y坂は昨日とちがった感じはない。だが、木の鬱蒼と茂る様子を見ていると、ためらう気持ちを抑えられなかった。今日一日の体験をふりかえると、坂が意志を持っているかのようだ。坂は彼らを正常な世界に帰すまいとしている。そんな気がした。それで彼らの道行きを邪魔する障害を次々に用意したのではないだろうか。
この坂はなんなのだろう。鬼の棲む世界への入り口なのか。A男はいまもってわからないが、理科の時間に習った、人体の食道を食物が通るさまを思い描いて身震いした。食物は胃に到達する。そして――消化される。
赤く燃える日は落ちようとしていた。消化される前に出なければ。
「行くぞ!」
A男は力強く女の子の手を引いて、勢いよく坂を登りだした。
ふたりは息を切らしながら坂を駆けていた。想像以上に長く、きつい道のりな気がする。こんなに長かったろうか。そうしているうちに、背後から声が聞こえた。
「A男……A男……」
「なに?」
「ふりかえっちゃだめ!」
A男よりうしろにいるはずの女の子が泣きそうな声で遮った。しっかりつないだ手が震えている。A男は、なぜかとは聞かなかった。ただ女の子の言葉に従ってふりかえらず、前だけを見据えて走った。木々が道に黒い影を落とす。走るにつれて景色が上下にぶれる。ただ、いまは、走らなければ。
「A男……A男……」
いつの間に追いついてきたのだろう。声の主は生臭い息をうなじに吹きかけてくる。
「うわあ誰がいるんだ、教えてくれ!」
「ふりかえらないで走って!」
ひたすら走った。走り続けた。そしてついに視界がひらく。
光――。木々がなくなり町の眺望が見える。真っ白い真昼の光。
「ああ、やっと戻った」
A男は背後の女の子を見ようとした。
「ありえないっ! いまはお昼じゃない! まだふりかえっちゃだめ!」
女の子の悲痛な叫びがあがった。
突然、巨大な黒い靄が爆発的に広がる。靄は女の子の体を巻きこんで、彼女の姿はどこにも見えなくなってしまう。靄はA男にも襲いかかった。A男は悲鳴をあげる。が、リュックサックに触れたとたん、靄は瞬く間に雲散霧消してしまった。残ったのは夕暮れの坂。眼下に町。
A男は気を失った。
それから三日後、A男は病院で意識を取り戻した。三日前の夕方に、A男は行方不明になったのだという。友達の証言によってY坂に行ったらしいことが判明し、その夜に警察が坂で倒れていたところを見つけたそうだ。目を覚ましたのをお母さんとお父さんは泣いて喜んでくれた。A男のよく知っているふたりだった。全ては意識を失っているあいだに見た夢だったのだろうか。
持っていたリュックサックが病室の棚に置いてあった。もし三日前というのが、A男が初めてY坂に行ってみようと言い出した日なら、リュックサックは持っているはずがないのだが。中を確かめてみると、気の抜けたコーラ、かじりかけのビスケット。それになぜか桃の缶詰がひしゃげて破裂していた。
退院してからA男は、本当にもとの世界に戻ったのかを確かめるために方々を訪ね歩いてみた。仲良しの犬はいつもどおり小屋にいたし、学校の上履きもあった。
最後に、隣の家の幼なじみに会いに行った。以前と同じように笑顔で出迎えてくれたので、心底ほっとした。左目の下のかわいい泣きぼくろも健在だった。
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