第61話「ストーンゴーレム -ぺくてん(奈美恵)とマッカートニー-」

 今日CG制作に当てる時間は終わった。進み具合はまずいが、とにかく予定の時刻は来たのだ。

 マイク、カメラ、通話アプリ。全て準備OK。カメラは水槽に向けておく。

 狭い自室の中では大きく見える縦長の水槽が、パソコンの画面に映る。

 水槽の中では何も動かない。ただ、立っている。

 なみなみと満たされた人工海水の底に、泥が分厚く敷かれている。その中央に、ざらりとした質感の、わずかに末広がりな円筒が佇む。

 大きさはペットボトルの首ほど。側面には縦の深い筋と横の細かいうね、上面には放射状の筋。縁には隙間がある。

 岩をレイアウトしておいて何も生き物を入れていないように見えるかもしれない。しかし、この岩みたいなものこそを私は育てているのだ。

 こう見えて二枚貝。白亜紀の厚歯二枚貝、ヒップリテスだ。

 ヒップリテスが映る画面に、私の配信のタイトルロゴを重ねる。

 「行かないでオーウェン」の文字が画面にでかでかと躍る。

 生配信開始。

「あー、あー、聞こえてるかー」

 五人ばかりの視聴者から「OK」とのコメント。

「はいー、ぺくてんのマニアック古生物配信「行かないでオーウェン」のお時間ですよー……っと」

 いつもどおり淡々と進める。

「ゲスト呼ぶからな」

 映っていない部分で通話アプリを操作する。その間も一応コメントを横目で見ておく。

『初見 なんでハート』

「ハート?」

 ああ、ロゴの最後に付いてるマークのことか。確かにハートに見えるように配置したが。

「メガロドンだよ」

『メガロドン渦巻きなくね』

 二枚貝の属名を答えたらサメの種小名を思われた。

 メガロドンは、ヒップリテスの遠縁に当たる二枚貝である。あまりに分厚くて合わせ目のほうから見るとハート型に見え、ハートの谷の部分には巻いたようになった部分がある。

 確かにサメのオトドゥス・メガロドンと紛らわしいが、ここは私の生配信なのだから二枚貝屋の意地を張らせてもらう。

「君明日からフクイラプトルのことキタダニエンシスって呼びなよ」

 今回のゲストがなかなか呼び出しに応じない。先に紹介だけしておいたほうがいいか。

 また別のコメント。

『毎回何の変化もなく濁った水に立ってるマッカートニーに虚無を感じる』

 マッカートニー。それがうちのヒップリテスの名前になってしまっていた。

 名前はないのかと聞かれて「柱状だからポール・マッカートニーだ」と軽口を叩いただけだったのだが。

「今回のやつもそこそこ虚無いぞ」

『水槽から湯気出てる』

 マッカートニーのいる水槽の水温は35度ある。

「この部屋寒いからな。……あ、つながった」

「はーい、お待たせしまっした~」

 私とは対照的な、高く力のない声が聞こえてくる。

「はい今回のゲスト、座ヒトデ一筋の「座ヒトデ座」さんでーす」

 紹介とともに、画面を「座ヒトデグッズ作家 座ヒトデ座」の文字と座ヒトデの画像に切り替える。

 私が作った3DCGの座ヒトデは、押しつぶしたまんじゅうのように平たく丸い。

 表はタイルのような鎧で覆われている。漢字の「火」のような五本の筋に沿って、周りより小さなタイルが規則正しく並んでいる。ただ「火」の足の部分は内向きに曲がっている。

 『座ヒトデ?』『座ヒトデとは』『俺が今まで見てたのは立ちヒトデなのか』コメントがざわつく。『座デトヒ座』回文ではない。

「座ヒトデってのは……あ、これ私が説明しちゃっていいのかな」

「どうぞ」

「うん。まあ名前どおりヒトデに近いっちゃ近い生き物だけど、ヒトデが座布団に載ってるように見えるから座ヒトデだな」

『何の紋章かと思った』

 コメントに座ヒトデ座がくすくすと笑う。

「行かないでオーウェンなのに私でいいの?無脊椎なんだけど」

「ん?ああ、タイトルだけだし。この前キバが来てサメの話した回があったけど、その後ウミサソリとゴニアタイトだったから、後口動物な分マシになってる」

 座ヒトデ座が、今度はははっと声を出して笑った。どれだけコアなジョークを飛ばしてもここでは許されるのが有り難い。

「そんじゃあさっそく」

「はーい。これでいいのかな?」

 彼女の飼っている座ヒトデの映像がこちらに届いた。すぐに画面を切り替える。

 波打ってつるりとした質感のものに、先程のCGと大体同じ形の座ヒトデが三つ貼り付いている。

 しかし、今回のために慌てて作ったCGとはわけが違う。なにせ本物だから。

 鎧を構成するタイルは有機的につながり、心なしか脈打つように動いて見える。筋からは白くてひよひよしたものがまばらに生えて、水流に揺れている。大きさは一円玉ほどもない。

「おおー、生き生きとしている」

 分からんというコメントが来たが放置する。

「種類はなんつったっけ」

「イソロフス・シンシナティエンシス。一般向けに売られてる座ヒトデはイソロフスだけだよ」

 貝屋の性でついイソロフスが貼り付いている貝っぽいものが気になってしまう。見たところきっちり左右対称だが、これは二枚貝の特徴ではない。

「くっついてるのは腕足動物の殻?」

「あっ、これプラスチックの偽物なの~。本物の腕足動物にくっついてるのはすごく高いよ」

「腕足動物にくっつくもんなんだ」

「岩とか砂地でもいいんだけどね、そういう化石が多いの」

『何食べて生きてんの』

 いい質問だ。

「餌は自然だとプランクトンとか懸濁物でしょ。餌って今やれる?」

「うん、準備してある」

 画面右上からピペットの先端が現れ、イソロフス達に近付いていった。

 細かい粉を含んだ水が吹き付けられると、イソロフス達は筋から生えたひよひよを一気に増やした。もはや筋は真っ白だ。

 そしてそれをめいっぱい伸ばして、わさわさと動かした。

「おお、イソギンチャクみたいになった」

 イソロフス達はその場から集められる限りの餌を集めようと懸命になっている。

 さっきまでの自分はこの貪欲な動きを差し置いて、よく生き生きとしているとか言えたものだ。

「管足だっけ?」

「そうそう、棘皮動物だからね~。こうやって管足で細かい餌を取るの」

『観測?』

 管足という言葉を知らずに声で聞いたらそう思うだろう。

「ああ、ウニとかヒトデが歩くのに使う触手だよ」

 イソロフス達はしばらく管足をさかんに動かして餌を集めていたが、やがて周りの水がすっかり澄んでくると、管足を落ち着かせた。

 活発な姿を見てしまうと、管足を引っ込めたらもはや小石と変わらなく見える。

「管足以外動かないわけだ」

「完全に固着性だねえ」

「水槽全体って映せる?」

「は~い」

 カメラが引き、そう小さくもない水槽の全体が映る。

 真ん中にイソロフス達の付いている土台だけがぽつんとあるのが分かる。この裏寂しさ……。

『マッカートニーと変わらん』

 そのコメントのとおり、うちのと同じくあまりにも静かな水槽だった。

「やっぱ懸濁物食で固着性のやつ飼ってるとこうなるよなあ……」

「動くのと一緒に入れる気もないしねえ」

 魚やアンモナイトに気を取られて世話ができず、気付かないうちに水槽の隅で命のない飾りになっている、という話も聞くが、到底許せたものではない。

 とはいえあまりにも本当に動かないものだから。

「虚無を飼ってる感覚」

「えー、管理が細かいからそうでもないけど」

「ああ……、うち温度とか餌とか自動制御にしてて」

「ええ!?」

 思ったより座ヒトデ座に驚かれた。

「普段は管理アプリ見るだけなんだった」

「えーっ、そんなのって……なんか」

 座ヒトデ座も案外文明の利器を介した世話に抵抗があるみたいだ。

「うっかりミスをほぼ撲滅できるからな。ちょっとした暇に管理できるから全部手でやるよりは生き物のためにもなる」

「そう言われると~、まあ」

 やはりこれには弱いだろう。

「人が作ったもんなんだけど、結局マッカートニーが生きてるかどうかまで分かるセンサーなんかないからな。自分で見たり手を入れたりするのはどうしても必要だなあ」

「そうだよねえ」

「管理アプリのことはまあ、また今度」

「うん」

『そもそもマッカートニーが生きてるかどうか見て分かるのか』

 画面越しにしか見ていない視聴者としてはもっともなコメントだった。

「一応うちに来た時より何センチか伸びてるし、あと……、画面ちょっとこっちに戻すぞ」

 再びマッカートニーを映し、円柱形をした殻の、蓋と筒の合わせ目にズームしていく。

「ピントが厳しいかな……おっ、これでOKだ」

 合わせ目のごく近くで、細かな泡や粒子が急に向きを変えるのがかろうじて見える。

「ほら、角のところに水流できてるだろ」

「え?」

「いやー、元気に水を吸ったり吐いたりしてるなー。タフガイだなーマッカートニーは」

 ほんのわずかに開いた蓋の隙間から、生きていくに充分な水の出し入れを行っている。生命の力強さを感じる。

「えーっと、他に動きは」

「ない。条件が良かったら放精するはずだけどうちでは見たことないな」

「座ヒトデよりよっぽど虚無なんじゃないの!?」

「そんなことはないぞー。ほーらこんなに力強い水流。あっ、座ヒトデに話を戻そう」

「もう」

 座ヒトデ座をおちょくっていても仕方がない。急いで画面をイソロフス達に戻した。

「座ヒトデに狙いを絞った理由っていうのは何なんだっけ」

「だって可愛いから」

「まあそれは分かるけど」

『いや分からん』

「分かれよ」「分かって!?」

 蒙昧なコメントに対し私達の声が重なった。

「まあ可愛いのは前提として。何かこう座ヒトデならではの、カシパンとかにない理念ってあるのかなって。座ヒトデ座ってキョクヒャーだけど、他の棘皮はあんまり認めてないじゃん」

 キョクヒャー、つまりウニやヒトデ、ナマコ、ウミユリなどの棘皮動物を愛でる人達は私の知り合いにも何人かいるが、座ヒトデ座の座ヒトデに対するぶれなさは独特だ。

「うん。座ヒトデこそ棘皮動物が五放射になった理由を体現してる生き物なの」

「ほう」

 五放射とは、棘皮動物の基本的な構造のことだ。同じ造りの部品をミカンの房のように五つ放射状に集めることで、ヒトデはもちろんウニやナマコも全身の構造を成り立たせている。

「昨日送った画像出せる?」

「ほいほい」

 配信用フォルダから座ヒトデ座にもらった画像を探す。

 砂らしき地色の上に、なにやら直線的な記号のようなものが書かれている。左から、やけに長いマイナス、バツ印、そして一点から五方向に伸びる線。

「えー、海の中にネットを立てて流れてくる餌を捕まえるとします」

「ああ、そういう図か」

 五方向のが座ヒトデ、ひいては棘皮動物に対応するのだろう。

「いっぱい餌を集めるにはネットを長くしたいけど、左みたいにずーっと長くネットを張ると、集める自分が大変でしょ」

「長い距離往復する羽目になるね」

「右の二つみたいに本拠地を真ん中に決めてそこから色んな方向にネットを張れば、ネットのどこに餌が引っかかってもあんまり歩かなくていいんだけど……」

「四つと五つでは違うわけね」

「そう!偶数だと後ろのネットが前のネットに丸かぶりになる向きがあるの!」

「うん?」

 水流の向きが書き込まれていないので一瞬ピンと来なかった。バツ印の、四方向のネットをよく見てみる。

「ああ、真下から来たら……」

「下の二つにしか引っかからないから上の二つは無駄になるの」

「奇数ならそういう角度はない、と」

 それが座ヒトデの「火」印なのだ。

「三つだとスカスカだし七つだと狭すぎで偶数なのと一緒、だから五つなの」

「あー、座ヒトデがすごい合理的なもんに見えてきた。それで座ヒトデの形に注目してるわけだ」

 納得のコメントがいくつか流れてくる。

「他の棘皮には五っていう数があんまり意味なくなってるのよ!だからね、他の棘皮は基本を忘れて惰性で五放射やってるの!」

 座ヒトデ座のテンションが妙に高くなってきた。他のキョクヒャーが聞いたらちょっと気を悪くしそうだ。

「座ヒトデに惚れ込んでるやつの言うことだから割り引いて聞くんだぞー」

 視聴者に一応こう言っておく。

「あっ、もう尺半分か。活動のことも言っておかないと」

「うん」

 座ヒトデ座に画面を返す。カメラはイソロフス達から、座ヒトデ座の部屋の床に並べられた、こまごまとした雑貨に移る。

 大はクッションから小はボタンやピンバッジまで、ポーチ、ブローチ、カンバッジ、布に真鍮にプラスチックに合成皮革に、どれも丸く、例の「火」印が入っている。

 座ヒトデ座とは、こうした座ヒトデグッズを制作して売るときの屋号なのだ。全て座ヒトデの丸い形を活かして、表面に座ヒトデの姿を描いてあったり、レリーフとして彫り付けてあったりする。

「こんなに作ってたっけ、座ヒトデグッズ」

「座ヒトデ座って名乗ってるくらいだから、もう星の数ほど作りたいね~」

 なかなかロマンチックなことを言う。

「今のところイベントだけで売ってるんだっけ?」

「通販もしたいね~」

 座ヒトデ好きって全国にどのくらいいるんだろうか。

「クッションもいかにもって感じだけど、ものにくっつくやつが特に座ヒトデっぽくていいね。カンバッジとか……、ああ、ピンバッジのほうが大きさがそれっぽいか」

「布じゃなくて本物みたいに固いところに貼り付かせてあげたいけどね~」

 なるほど、そこにこだわるものなのか。身に着けるグッズはどうしても布に付けることになりがちだが……、

「付属品としてなら座ヒトデ以外も作ってよくない?」

「え?」

「これは基質だ、本体は座ヒトデだ、って言い張って、なんか固い材質の腕足動物のグッズを作って、座ヒトデを取り付ける」

 ちょっとした思い付きを口にしただけだった。しかし、ふあああっ、という、座ヒトデ座の息を吸い込む音が聞こえてきた。

「それだあ~っ!固い革で腕足動物のがま口を作るとかしたらいいんだあ~っ!」

「おっ……、これでよかったのか」

「うんうん!ありがとうぺくてん!その方向で考えてみる!さすが色んなCG作ってるから視野が広いね!」

 ここまで喜ばれるとは思わなかった。

「あっ、そうだ。ねえ、ぺくてんは手に取れるグッズ作らないの?」

「ん、私か。あるにはある」

「見して!」

 画面をこちらに戻し、カメラを水槽から床に向ける。

 そこに、試作品の白いプラスチック塊を置く。

「厚歯二枚貝のカップ」

「え?よく分かんない」

「こうしたら分かるかな」

 円錐形のカップ本体を、台座から引き抜いた。

 厚歯二枚貝の殻を模したカップと、それが立っている海底を模した台座のセットなのだ。

「ああー、そっか海底に刺さってるから」

「台座がないと立たないから不便でなあ。殻の形のデータがあるからってそれにとらわれすぎたな」

「カクテルグラスみたいに途中で切って底に台を付けてもいいよね」

 全くそのとおりなのだが、他にもモチベーションの上がらない理由がいくつかあった。

「外側の形にこだわった割には内側は普通のカップらしくしちゃったしな」

 カメラに口を向ける。中には真っ当な円錐の空間がある。

「えっ、本物はどうなってるの?」

「ちょっと待ってな……、こう」

 今度は実物の死殻を持ってきて映した。

 その口にはネコの足跡みたいな形の、明らかに殻のごく途中までしかないくぼみがあるだけだ。ネコの指の間に当たるところには高い壁が立っているし、ドリルで開けたみたいな深く狭い穴まである。

「うわあ、ちょびっとしか飲み物入んないね……」

「しかも洗いにくい。もっと問題なのは」

「うん」

「3Dプリンターで作ったものを食器にすると体に悪い」

 正確には、その可能性がある、だが。とにかく売り物にならない。

「あーっ……あ、じゃあレジンか何かで複製……するほど、出来に納得してるわけでも」

「ないんだよなあ」

 テンションが一旦落ち着いて、放置していたコメントを見返すことができた。

『殻の標本も持ってたのか』

『殻を加工して何か作るのは?』

「厚歯二枚貝で殻細工を作るのはもったいないなあ」

「アンモナイトだとよく見るよね」

「あれはもっと殖やしやすい種類もあるからな……現生の貝だったらガンガン加工するもんだが」

 引き続きコメントを見る

『以前手に入れたというキルンも見せてほしい』

 キルン。その言葉にわずかに胸がざわめいた。

「物好きだな。なんでそんなこと覚えてる」

「キルン?」

「うん、今出してくる」

 本棚の奥から小さな厚紙の箱を取り出し、開いてカメラを向けた。

 一見何の変哲もない、ハマグリそっくりの殻が映る。

 色がすっかり抜けていて、見栄えする標本ではない。

「ぺくてん、キルンって何?」

「戦後すぐくらいに絶滅した貝だよ」

 座ヒトデ座が息を呑むのが分かった。

「沖縄のある浜で今でも殻だけ見付かる。それをある人に譲ってもらったんだ」

「今のコメントの人?」

「違うと思う。まあ……化石でもない貝殻でも、こうやって過去の時間を語るんだぞ、って言われたな」

 コメントが静まる中、ありがとう、と一言だけ流れてきた。

 キルンの殻に深い意義が感じ取れる人に違いない。ありがたい視聴者を持ったものだ。

「そうだ。座ヒトデの時計を作ろう」

「ああ、固い壁に取り付くしな」


 配信を終えてからも私はキルンの殻を見ていた。

 さっきキルンを見せてほしいと言った人は沖縄に住んでいるのかもしれない。もちろん、そうではないかもしれない。

 厚歯二枚貝、白亜紀の貝の再生飼育は、私のような個人にまで行き渡るほど進んでいる。

 その一方で、こんな地質学的にはたった今絶滅したに等しい貝の再生が進まない。

 キルンだけ再生したところで、帰る浜の再生が進まなければ……。

 貝達は人間的な時間と地質学的な時間に振り回されている。

 マッカートニーの殻を見つめれば、ここで過ごした時間が少しずつ刻まれているのが分かる。

 私がネットやCGを通して触れ合う人とも、マッカートニーのような飼われている貝とも、せめて良い時間を分かち合えるといい。




[ヒップリテス・ラディオスス Hippurites radiosus]

学名の意味:放射状の筋がある馬の尾の石

時代と地域:白亜紀後期(約9000万年前)のヨーロッパ(フランスなど)

成体の全長:数十cm

分類:軟体動物門 二枚貝綱 異歯亜綱 ヒップリテス目 ヒップリテス上科 ヒップリテス科

 ヒップリテスは、厚歯二枚貝と呼ばれるヒップリテス目の貝の中でも、さらに狭義の厚歯二枚貝であるルディストと呼ばれる、ヒップリテス上科の代表的な貝である。

 厚歯二枚貝はシルル紀から白亜紀末まで生息していた、厚さが幅に匹敵するか上回るという非常に分厚い殻を持つ二枚貝である。厚歯というとおり、二枚貝の殻で蝶番の役目を果たす歯という器官が発達していた。分厚い殻の中はあまり空洞がなく、軟体部分は少なかった。

 メガロドン上科はハマグリに似た形の殻を単純に非常に厚くしたような形のものだったが、ヒップリテス上科のものは一方または両方の殻を円錐形や円筒形、または牛角状に分厚く発達させた。

 ヒップリテス上科のものはさらに殻の形態と、そこから考えられる生態により、リカンベント、クリンガー、そしてヒップリテスの属するエレベーターの3つに大別される。

 リカンベントは海底に横たわり、海底面上に水平に弧を描くように殻を成長させた。この形状により強い潮に流されずに済んだようだ。

 クリンガーは片方の殻を基質に固着させて円錐形に成長させ、もう片方の殻を蓋として扱った。

 エレベーターは、片方の殻を円錐形または円筒形に、垂直に成長させることで、泥質の海底に埋もれないように立っていた。他の2タイプと比べて潮流が穏やかな環境に生息していた。

 これらのタイプは分類だけを反映したものではなく、成長の過程でクリンガーからエレベーターに変わるようなこともあった。

 白亜紀後期には厚歯二枚貝が非常に反映し、当時衰退していたサンゴに代わって密集して生息し「礁」のようなものを形成していた。ただしこの「礁」はサンゴ礁のように固い土地を形成するというより、泥の海底の上にただ厚歯二枚貝が密集して立っているというものであった。

 当時サンゴではなく厚歯二枚貝が繁栄していたのは、水温が高くなったことと塩分濃度が高まったために、適温の環境が必要で骨格が方解石で出来ているサンゴに不利になり、高温に適応できて殻がアラレ石で出来ている厚歯二枚貝に有利になったためと考えられている。

 褐虫藻と共生し光合成するサンゴと入れ替わったことや、エレベータータイプの厚歯二枚貝が蓋となるほうの円盤状の殻を真上に向けていたこと、蓋となる殻に光を通すような孔が開いていたことから、特にエレベータータイプの厚歯二枚貝は藻類と共生して光合成していたのではないかという説がある。

 しかし、厚歯二枚貝の生息していたのは濁っていて塩分濃度が高く、またそれほど貧栄養ではない環境だったため、共生藻類を持つのに適さなかった。また、厚歯二枚貝の殻の成長は早かったが、これはサンゴの骨格やシャコガイの殻よりもカキの殻に似ていた。このことから厚歯二枚貝が光合成を行っていなかったとすると、多くの二枚貝と同様に殻の隙間から水を出し入れして懸濁物を濾過していたことになる。

 ヒップリテスは典型的なエレベータータイプの厚歯二枚貝のひとつで、ところどころに垂直な谷間のある、円錐形から円筒形の右殻と、その蓋となる円形で放射状の筋のある左殻を持っていた。花束状に寄り集まった礁を形成していた。


[イソロフス・シンシナティエンシス Isorophus cincinnatiensis]

学名の意味:シンシナティで発見された揃った天井

時代と地域:オルドビス紀後期(約4億5000万年前)のアメリカ(主にオハイオ州)

成体の直径:約2cm

分類:棘皮動物門 座ヒトデ綱 イソロフス目 アゲラクリニテス科

 イソロフスは、代表的な座ヒトデのひとつである。

 座ヒトデは古生代に特有の棘皮動物で、膨らんだ円盤状またはほぼ球形の体をしていて、いずれも直径数cm程度であった。

 体の上面には、棘皮動物に特有の歩帯という器官があった。

 歩帯とは管足という吸盤状の触手を繰り出す器官で、管足の収まる溝とその蓋からなる。現生のウニやヒトデの場合、体の口がある側の面の歩帯から管足を出して歩く。座ヒトデでは口のある面を上に向けていたので、歩帯から出した管足で水中の懸濁物やプランクトンを捕えていたと考えられている。

 棘皮動物の基本体制である五放射構造にならって、座ヒトデの表面にある歩帯も5本放射状に並んでいた。このうち3本は同じ向きに曲がり、2本は肛門を囲むように曲がっていた。

 また座ヒトデの表面は他の棘皮動物と同様に骨片で覆われていたが、反対の面には骨片がなく基質に貼り付くようになっていた。生きていたときも貼り付いた場所から移動しなかったようだ。棘皮動物全体がこうした固着性で懸濁物食のものから始まり、後にウミユリのような茎と腕を持ち立ち上がるものや、ウニやヒトデ、ナマコのように自由生活を送るものが現れていったと考えられる。

 イソロフスは座ヒトデの中でも後に現れたイソロフス目の座ヒトデで、わずかに膨らんだシンプルな円盤状をしていた。肛門を囲まない歩帯は反時計回りに曲がり、歩帯を覆う骨片(歩帯板)は歩帯溝の両側から溝を覆う大きな歩帯板の間に2つ小さな歩帯板が挟まっていた。

 イソロフスの化石は腕足動物の殻に貼り付いた状態で発見されることが多い。腕足動物も懸濁物食性であり、懸濁物の得やすい環境にどちらも生息していた結果、イソロフスが腕足動物に貼り付くことになったのかもしれない。

 イソロフス・シンシナティエンシスはシンシナティ市の「市の化石」に選ばれている。


[キルンと呼ばれているハマグリ属の一種 Meretrix sp.]

属名の意味:娼婦

時代と地域:現世(約70年前まで?)の沖縄本島

成体の全長:約10cm(より大型のものの記録もある)

分類:軟体動物門 二枚貝綱 異歯亜綱 マルスダレガイ目 マルスダレガイ科

 キルンは、沖縄本島の中城(なかぐすく)湾佐敷干潟や与那原(よなばる)海岸に1940年代まで生息していた、ハマグリ属の沖縄固有種または地域個体群である。キルンという名前はハマグリ属の現地名である。

 チョウセンハマグリM.lamarckiiに非常によく似ているが、やや直線的な姿をしていて、ハマグリM.lusoriaに似た特徴もある。これらハマグリ属同様、砂浜に埋もれて生活していた。ハマグリやチョウセンハマグリと別種なのかこれらの地域個体群なのかは不明である。

 かつては盛んに漁獲され、琉球政府への献上品にもされた特産品であった。昭和初期に激減し、他の地域から当時区別されていなかった他のハマグリ属が移入・養殖された。1940年代にはキルンは絶滅したようだが、本土復帰頃(つまり1970年代初頭)まで採集できたという住民の証言もある。

 現在でも佐敷干潟ではキルンの死殻を拾うことができる。また金城湾沿岸の貝塚からも発見される。

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