第60話「ジンベイサマ -千恵とキバとリオンとクララ-」
大津波を経験したこの町に、水槽に囲まれることになる水族館を建てるのはどうかという声もあったが、ここで私は働いている。
展示室は柱も床も天井も紺色で、二年経ってもまだまだ新しい。
奥まで長く続く広間に、標本ケースを運び込む。
演説で使う演台のように見えるが、マイクが置かれるべき面には手前に傾いたガラスがはめ込まれている。その中は浅い空間だ。
段ボールを開いて新聞紙をかき分け、ケースの主となる標本をそっと取り出す。
大きな煉瓦を割り欠いたような、黄土色のざらついた物体。傾いた正面には楕円が四つ同心円状に重なった模様がある。
一番外側の楕円は大きいので大半が欠けている。楕円の間には、放射状に並んだ出っ張りや、幾重にも重なって楕円を取り巻く筋など複雑なレリーフがある。
これは、この小さな水族館「さめのれきし館」にはまる重要なピース。ある生き物がこの気仙沼に遺した痕跡のレプリカだ。
どんな生き物か。それは目の前の、床から天井まである水槽で生きている。
スッ、と正面を横切る、長い陰、高い尾鰭。
奥に再び現れるその姿は、ほぼサメのものだ。
二億九千万年前の大魚、ヘリコプリオンの「リオン」。
少し尖った鼻先や頭の後ろに並んだ鰓穴のスリット、ぴんと立った背鰭、横に伸ばした胸鰭、筋肉の束であるたくましい流線型の体。これらはまるでサメのように見える。全長はすでに人の背丈ほどもあり大層立派だ。
しかし、泳ぎ方が変わっている。サメらしい体全体のうねりが小さく、むしろブリやマグロのように、尾だけを振る動きが大きい。尾鰭の形も上下対称のV字で、サメにしては珍しい。
背鰭と胸鰭には、細かく並んだ筋が透けて見える。腹鰭や尻鰭はなくシンプルだ。
何よりサメと違うのは、下顎が縦に平たく、円盤になっている。
あの中には、古い歯が抜けずに新しい歯に押しやられ、渦を巻いて収まっているのだ。ちょうど今手元にある化石のように。
リオンはついに明日から、痕跡のさらにレプリカとはいえ、この気仙沼で見付かった化石と向かい合うことになった。
多くの、本当に多くの人達の厚意の賜物である。
リオンは、帰ってきたクララを迎えるためのこの施設で、気仙沼の仲間として認められたのだ。
コンパクトデジカメで宣伝に使う写真を撮ったら、逆U字に並んだ水槽のターン部分に当たるリオンの水槽から振り返って順路を遡る。
リオンのものと同じくらい大きな水槽にいるのが、クララだ。
リオンに劣らない体格、よりサメに近い顔付き。背鰭は二枚だし腹鰭もあるので、さらにサメのように見える。
ただし鼻は出っ張っていないので口が顔の一番前にある。目の周りの鮫肌が大粒で、まるで長いまつ毛だ。
リオンと同じサメの親戚筋、もっと古い時代にいたクラドセラケのクララ。
せっかく帰ってきた彼女はもちろん元気いっぱいに泳いでいる。
クララは十年以上前から気仙沼の施設にいたのだが、一旦よそに預けられていた。クララを再び気仙沼に帰すために作られたのが、さめのれきし館である。
クララ以外の魚はリオンや、ネコザメやドチザメといった現在のサメも含めて、さめのれきし館ができてから新しくやってきた。
クラドセラケのいたデボン紀から進んでいくと、ナマズに似た淡水魚だがれっきとしたサメであるクセナカントゥス。クラドセラケの系統から生まれて石炭紀に栄えた様々な姿の小さな魚達。ヘリコプリオンの仲間だが下顎の先が長く突き出ているオルニトプリオン。
リオンの水槽を通り過ぎると時代が飛んで、陸では恐竜の栄えていたジュラ紀、いかにも中型のサメとして現在の海にいそうなヒボドゥス。二つの背鰭の前に長い棘が立っている。
三尾のうち一尾のお腹が大きい。産卵の兆候があるのだ。人手のあるときにバックヤードに引き上げたほうがいいだろう。
その隣の水槽にいるのはあの幻の深海ザメ、ミツクリザメ……ではなく、その先祖、白亜紀のスカパノリンクスだ。
長く突き出た鼻先といい後ろに伸びた尾鰭といい、ミツクリザメそっくりのシルエットだが、皮の色はずっと濃い。
飼っていても本格的な深海性のミツクリザメと違って丈夫だ。砂にじっと横たわっているのも、この環境に慣れることができたからだ。
水槽の中に大きな問題はない。飼育員としては一安心だ。
それから、飼育という意味では気にかけなくていいサメの展示が一つ。大人も軽々呑み込みそうな巨大なメガロドン……の、顎だけを発泡スチロールで再現したパネルだ。一応県内で見付かった歯の化石もあるにはある。
こうしてサメそのものやサメに近い魚が集まって元気に暮らしている一方、帰ってこられなかったものもいる。
逆U字に並ぶ水槽の谷間にあたる部分には、テーブル型の標本ケースが並んでいる。
化石もあるが、大半はいわゆる生の標本だ。
細かいハチの巣状のサンゴ。
一人用ソファーや、イチョウやシダの葉のように見えるおかしな殻。二枚貝のようだが全然違う生き物、腕足動物の殻だ。
小指の先ほどの三葉虫。米粒のように見えるもの。名前どおり植物に見えるウミユリ。そして、小さなアンモナイト……。
以前の施設で飼われていた生き物そのものの標本だ。
さめのれきし館ではサメに手一杯で来たので、こちらまで飼う用意ができていない。
しかし彼らもヘリコプリオンと同じ、気仙沼で発見された生き物達だ。今はホタテが育つ冷たい海になっている土地が、かつては暖かいサンゴ礁だったなんて驚くべきことではないか。
私はきちんと覚えているのだ。私がまだ学生で、前の施設があった頃。丸い紅色の殻を背負った小さなアンモナイトが、いくつも水槽の中を漂っていたのを。
スタケオセラス。それがこの可愛らしい殻の主の名だ。
サメを展示する施設としての展示は、ヘリコプリオンの化石で完成した。しかしいつか彼らのような小さな生き物も戻ってこられれば……。
展示室でやることを終え、帰り支度をするつもりで事務室に戻ると、館長が席から手招きしてきた。
「よく分からんメールが来てよく分からんのだけど」
「よく分かんないっすね」
誘われるまま、館長のデスクに近寄りディスプレイを覗き込んだ。
差出人の名は「ぺくてん」。明らかにハンドルネームだ。詐欺めいたものだったら逆にネット利用の安全について館長に注意するところだったが。
本文の内容に目を通すと、要点はこうだ。
さめのれきし館の展示室内を、展示されている生き物も含めてVRチャット上に再現し公開したいので、許可をいただけるか、と。
「VRチャットって何?」
館長はSNSも動画配信サイトもよく分かっていないので、ネット広報を主に私に丸投げしている。
VRチャットとは、様々なキャラクターのCGモデルを自分のアバターとして操作し、そのキャラクターの視界をVRゴーグルで得ながら他のユーザーと歓談したりCG空間を散歩したりするものだ。
そのCG空間の背景として、これまた様々な地形や建造物のモデルが作成されている。そうしたCG建築の一つとしてさめのれきし館を作成しても良いか、というメールなのだが……、
館長に全て理解させるのは難しいので、こう答えた。
「すごいリアルなゲームにうちを出したいそうです」
「ゲームの中でうちが見れんの?」
「そういうことですね」
すると館長は妙に苦々しい顔になった。
「本物のうちに来るお客さん、減らない?」
限られた説明では当然の心配だった。しかしVRチャットユーザーとうちのお客さん、どれだけかぶっているだろうか。
「逆にそのゲームやってて気仙沼に来れない人が見れるようになりますよ」
「んー、そうかあ」
館長は数秒だけ考え込んでから、
「業務と営業に支障がないなら、小野寺さんに任せるよ」
短文SNSでの広報を始めたときと同じことを言った。
そこで私も素早く返信した。
非営利目的であれば許可する。館内の寸法測定まではできないが、通常の利用範囲の協力ならできそうだ、と。
そのときは、それほど大したものはできまいと高をくくっていたのだが。
翌朝、「ぺくてん」氏からの返信で案内された動画を見て息を呑んだ。
うちの水槽の中で特に小さいものの一つ、石炭紀のエキノキマエラの水槽がすでに再現されていたのだ。
エキノキマエラは、頭が大きくて尾が後ろに真っ直ぐ伸びている、金魚ほどしかない魚である。背鰭とそれを支える棘がヨットの帆のように立っている。クラドセラケやヘリコプリオンの含まれる系統で、現在のギンザメにとても近い。
迫力ある大きな魚が目立つうちの中で、エキノキマエラは可愛らしい存在だ。
CGの水槽もエキノキマエラもそこまで細かく作り込まれているわけではない。
にも関わらず私はつい、どのエキノキマエラも元気そうでよかったな、と思ってしまった。
つまり、私が驚いたのは、動きの再現度だ。
体を真っ直ぐに保ち、胸鰭を羽ばたかせる。ただ上下に動かすだけでなく、ひねりやたわみを加えて巧みに水を操って進む。
角で頭を上げ、壁を駆け上がる。仲間や水面にぶつかりそうになったときは、体を曲げてターンする。
その動作が完璧に表されていた。
ぺくてん氏いわく、CGによる外見の再現には限界があるし、チャットに参加するユーザーのパソコンのスペックによってはあまり細かく作り込むと負担になる。それより仕草にこだわったほうがよほど生き物らしく見える、とのこと。
全くそのとおりで、CGのエキノキマエラには、本当に水を切ることで推進力を得て進んでいるような実在感があった。
また、実際の細部を観察したければ、どうぞうちで実物をご覧ください……という方向にも持っていける。
CGの出来栄えを絶賛する返信をしつつ、メールにリンクされていたぺくてん氏の短文SNSをフォローして、朝の通常業務に戻った。
ぺくてんさんは短文SNSの中で、うちを再現する許可が得られたことやエキノキマエラにお墨付きをもらえたことを大喜びしていた。
そしてその後も、彼もしくは彼女は作業の進捗を公開し続けた。
直接寸法が測定できなくても特に支障はないらしく、館の外観や大まかな内装は数日で出来上がった。
次に出来上がった魚はハルパゴフトゥトルだった。
これもクラドセラケの系統でなおかつエキノキマエラと同郷だが、細長い体をくねらせる様子はだいぶ異なる。オスには長い角があり、まるで龍の子供だ。
鰭を振るのではなく体のくねりで進むハルパゴフトゥトルの泳ぎも、ぺくてんさんは見事に再現してみせた。
続くベラントセアは、タイのような高い体と丸く大きな鰭を持っている。鰭をはためかせて砂の上を滑っては石の陰に隠れるという、習性まで表現された。
私のほうでも乗り気になり、広報でこれら特徴ある魚達の解説をするために動画を引用したり、ぺくてんさんに積極的に資料を送ったりしていた。
やり取りをしているうちに、ぺくてんさんのSNS上に不思議な名前が現れるようになった。
「キバさんも喜んでる」「今のところキバさんのお気に入りはエキノキマエラ」「早くキバさんに遊んでもらいたい」……。
はて、キバさんとは。いかにもサメに関係ありそうな名前だが。
注意して見てみると、ぺくてんさんの書き込みにその本人からの返信があった。
正式な名前は、「バーチャルサメスクリーナー・三角(みすみ)キバ」。
バーチャルスクリーナーといえば、動画配信サイトのユースクリーンに、CGのアバターの姿で演じた動画を公開している人のことだ。
つまりキバさんとは、サメに関する動画を公開しているバーチャルスクリーナーということか。
あるとき思い立って自宅のパソコンで本人のプロフィールに進むと、そこですでに動画が公開されていた。
バーチャルスクリーナーの動画をちゃんと見るのは初めてだった。
自己紹介用だという動画を再生。
「おっす、哺乳類共ー!バーチャルサメのキバさんだぞー!」
可愛らしい声に反して偉そうな口調で、サメのキャンペーンガールのような姿のキャラクターが話し始めた。
全体は水兵に似たセーラー服とセーラー帽。帽子は前に突き出て青く、鍔に三角のフリルが並んでいる。薄いピンク色の襟にも、もっと細く尖った形のフリル。顔の両脇に垂れた白い髪が鍔と襟をつなげ、サメの口に見える。横にはねた髪は鰓穴か。
後ろ髪は大きく背中に跳ね上がって背鰭をかたどっている。セーラー服の袖にも振り袖状の飾りがあって、こちらは胸鰭だ。そう思って見ていると、ハーフパンツも腹鰭のように見える。
そして、腰から尻尾が生え、その先には立派な尾鰭がある。
「哺乳類共は知らないかもしれないけど、世界にはすごく色んなサメがいるんだぞー!」
そのセリフとともに、背景にたくさんのサメの写真や動画が映し出される。水族館や博物館で撮ったもののようだ。とすると自前か。
こんなのや、こんなの、こんなのまでいる、と言いながら、「キバさん」は特に変わったサメの写真を前面に出していく。シュモクザメのひょうきん顔、ノコギリザメの鋸。ヒゲ面のオオセには意表を突かれた。
「これからキバさんがどんどんサメの話するから、見てくれよなー!」
そう言われたら期待して見ずにいられない。
まずは第一回から順に。
「おっす、哺乳類共ー」
自己紹介動画と同じく、画面左側にキバさんが立って画面中央の画像や動画を解説する構成のようだ。
「シュモクザメが斜めになって泳ぐって聞いてさー」
第一回からなんて専門的な話題を。それはシュモクザメそのものに計測装置を取り付けることで判明したという、最新の研究成果だ。
「ホントに斜めになって泳いでるところが見たくなるじゃん?なるべくデカい水槽でシュモクザメ飼ってる水族館探したんだけどさー……」
しかもこの積極性である。新しく得た情報を確かめるために水族館を利用するなんて、並の生き物好きではない。
結局、数ヶ所の水族館をまわったところほんの短い時間だけシュモクザメが斜めになって泳いでいるところが見られたとのことだった。
第二回。キバさんは最初から何か悪どい笑みをたたえている。後ろの画像には、ノコギリ状の物体が写っている。
「グェヘヘヘ……歯の化石でキリバス諸島に伝わる武器テブテジュを作ったズェ……銃刀法上の扱いは分かんないズェ……」
画像の物体をよく見ると、木の棒の両側にサメの歯を並べて紐で縛り付けたものだ。
歯はうっすらと茶色がかっている。まとまった数のサメの歯を手に入れようと思ったらモロッコ産の化石の詰め合わせが手っ取り早いというわけだ。
「刺し身くらいなら切れるズェ……」
真っ二つに引きちぎられたサーモンと赤く汚れたテブテジュの写真。これは実験考古学や民俗学につながる領域だ。サメに関してなら文化系の話題にも手を広げるのか。
第三回、第四回と続けて見ていく。
「前回ノコギリエイ誉めたらー、ノコギリザメはーってコメント付いたからさー……」
「フジクジラ……フジクジラ……風流でいい名前だけどなー……」
「クラドセラケとラブカは全然似てないぞ!未だにラブカを古生代の生き残りって言ってる人いるけどさー!……」
「見ろこれ!人魚の財布型の財布!こんなの作ってる人がいる!」
こんなにサメのことを熱心にやっている人がいるのに、今まで気付かなかったとは。
SNS上で見られるショート版の動画だけでなく、ユースクリーンにあるロング版も見てみたくなった。
動画一覧に進むと、あるタイトルが一際目を引いた。
「【サメの聖地】気仙沼に行ってみた【バーチャルサメ】」
真っ先にそれを再生する。
冒頭から山積みになって水揚げされた大量のサメが映った。ヨシキリザメだ。
「ははっ!いきなり死屍累々でごめんなー!これが日本一のサメ漁港だぞー!」
キバさんは目を輝かせながら……CGだから本当に目に星が描き込まれているのだが……気仙沼漁港を紹介している。
漁港の大きさ、レトロな雰囲気。作業場の賑わい。サメの食べられ方。
そして、海の生き物を愛する者にとってなにより重要なこと。
「こんなにサメが獲れるってどういうことか分かるか哺乳類共ー?獲ってる分以上にたくさんサメがいて、それ全部養えるくらい三陸の海が豊かってことだぞー!大事にしろよー!」
漁港のことはそれで締めて、さめのれきし館へ。
途端にキバさんの身振りが大きくなる。
「ここ!絶対見たほうが!いいから!なんで!お前ら!ここに!来ない!」
ほとんど取り乱している。他ならぬうちのことで。
「小さい水族館だけどすごい少数精鋭だからなー、名前どおりサメっていうか軟骨魚類全体の歴史がだいたい分かるんだぞー!まずクラドセラケだな!哺乳類共にはサメにしか見えないと思うけどなー……」
時代順に、うちの魚達をやたら詳しく紹介してくれる。
それを聞きながら、この動画が投稿される少し前にものすごく熱心なお客さんがうちに来たのを思い出していた。
特に、ヘリコプリオンのリオンが餌のイカを横ざまにくわえ、真っ二つに噛み切る様子をじっくりと見ていたのが印象に残っている。
キバさんはちょうどリオンが餌を食べるところを映していた。
「ほら、もう噛み切れたぞ!見えたか?歯がしっかり固定されてるから、古い歯が抜けない代わりに噛み切る力が強くなったんだろうなー。そんで、大型化して寿命が長くなると古い歯を巻いてしまっとくしかないんだなー」
あのときのお客さんは二十代後半の男性だったが……、
いや、バーチャルスクリーナーの中の人のことを考えるのは失礼だ。キバさんはあくまでキバさんとして動画を発信したいのだ。
リオンについての解説が続いていた。
「こういうサメっぽい変な魚が二億年以上前に栄えてー、その化石が残ったところに今度はサメがいっぱいいるんだよなー……そういうのって面白いよなー……!」
しみじみとキバさんが語る。私も本当にそのとおりだと思う。
すっかりサメらしくなったヒボドゥス、「ジェネリックミツクリザメ」と称されるスカパノリンクス。解説は楽しく続いていく。
展示室を一巡して、画像は再びクララとリオンに。
「このクラドセラケなー、震災を生き延びた奇跡のサメって言われててなー」
ああ、そのことをちゃんと話してくれるのか。
「ここの前にあった施設で、他の生き物がみんなダメになっちゃったんだけどクラドセラケだけ生き残ってて、職員さん達、自分も大変なのにすげー頑張って別の水族館に避難させたんだって」
キバさんの口調がしんみりとしている。
「で、なんとか新しい水族館ができてクラドセラケも気仙沼に帰ってこれるってなったとき、気仙沼っていったら化石が見付かってるんだからヘリコプリオンもいなきゃだろって、また別の水族館がこのヘリコプリオンを譲ってくれてなー。他の魚もそんな感じで色んなところから集まったんだけどなー」
キバさんはそのことをありがたがってくれている。
それだけで私は、気仙沼で頑張っていてよかったと思えた。
「だからやっぱ、サメ好きなら絶対、行ったほうがいいぞー……!」
これだけサメを愛し、うちを楽しみ尽くしてくれる。
この人と、そして頑張ってくれているぺくてんさんと一緒に、サメに関することを何かしたい。
キバさんはバーチャルの存在だが、だからこそ、VRチャット空間なら。
何日かかけてメールでやり取りをした後、キバさんの新しい動画が上がった。
これからの活動についての報告だ。
「キバさん、そのー、バーチャルサメだからなー?オフィシャルな水族館と一緒に何かできるとか全然夢にも思ってなかったから、すっげー嬉しいなー!」
私のほうこそ、そこまで喜んでくれるのがすごく嬉しい。
それから数ヶ月経ったある日の夜。
準備をすっかり整えて、ぺくてんさんから貸してもらったVRゴーグルを装着した。
目の前に、さめのれきし館が現れる。もちろんVRチャット上のモデルだ。
周りには工事中の更地、振り返れば背景には山。
入口前の広場には、もう見慣れたキバさんの姿がある。
「こんばんは」
「やー、どうも」
さらに、周囲には十人ほど……、人で数えるのがふさわしいのか分からない姿のアバターも混ざっているが、お客さんが集まっていた。
巫女さんのように見えるがリボンの目立つ華やかな少女、アメコミのヒーローらしきマッチョマン、丸い頭と手足しかないピンク色の生き物……、VRチャットでは皆思い思いの格好をしている。
頭がホタテで首から下がTシャツとジーンズという人物が、シンプルな分かえって一番異様に見える。Tシャツにぺくてんと書いてあるとおり、ぺくてんさんである。
私はといえば、普段作業をするときと変わらないツナギとひっつめ髪だ。ぺくてんさんに作ってもらったアバターだが、これでも顔がアニメ調で照れくさい。これでなければホヤを模したご当地キャラの格好をさせられるところだったが。
「よーし、みんな集まったなー!今日は本物の飼育員の小野寺さんも来てるからなー、みんな小野寺さんの言うことをちゃんと聞くんだぞー!」
「はーい!」
「よろしくお願いしまーす!」
「それじゃあ、バーチャル遠足に出発だー!」
入場口から館内へぞろぞろと入っていく。本当に遠足みたいだ。
確認のために何度か見てはいるが、エントランスホールまで含めて館内はとても正確にできている。お客さんも感心して声を上げる。
「うわー、本当に水族館だ!」
「動画で見たとおりだ」
「あっ、でもこれ」
掲示板にキバさんの宣伝が張り出されている。元は地域の行事に関する掲示物があるところだ。
キバさんはホールにみんなを集め、今回の予定を確認した。
「キバさんとぺくてんと、小野寺さんも解説するから、せっかくの機会だからどんどん質問するんだぞー」
「はーい」
「あ、間違った説明してると思ったら小野寺さんはどんどん突っ込んできていいんで」
「はい」
「二十分くらいしたら仕掛けを動かすから、そのときになったらまた知らせるぞー」
仕掛け。実物のさめのれきし館にないアトラクションだ。
簡単な相談を受けはしたが、私もまだ見たことがない。一体どんなふうに出来上がったのだろうか。正直、少しだけ不安なのだが……。
「それじゃあ、見学開始ー!」
お客さんが早足で展示室に進んでいく。私もクララの水槽の前へ。キバさんはリオンの水槽、ぺくてんさんは部屋の中央に並ぶ標本ケースのそばにいる。
お客さんは水槽を覗き込み、魚達の精巧な動きに釘付けになっている。
「ホントに生きてるみたいだ」
「すごく自然に見える」
目を引くのはやはり大きなクララとリオンだ。
筋肉に満ちた尾を打ち振るい、立派な鰭で水を切って進む。CGであっても力が生じて伝わるのが分かるような動きだった。
活発なものは特にだが、細部を省略して動きを忠実にするというぺくてんさんの手法はおおむね大正解だったようだ。
それを分かって、あまり動かないスカパノリンクスは特別細かく作ってあったはずだが……、
ちょっと気になってスカパノリンクスを見てみると、鰓穴の大きな動きと小さな揺れが実に忠実に再現され、まるで内側に鰓や喉や心臓があるかのようだ。鰭の縁も水流に震えている。
もちろん動いていない部分も驚きの出来栄えだ。
ぺくてんさんは趣味で作っているだけで、うちも気仙沼市もお金を出したりしていないはずだが、到底そんなレベルには思えない。
「飼育員さん」
「あっ、はい」
慌てて振り返ってちょっとびっくりした。有名なアニメに出てくるロボットがいたからだ。Zが付くほうの。
このロボットと対面して話すことがあろうとは。
「飼育員さんは今のミツクリザメもご覧になったことはありますか?」
「そうですね、ギリギリ生きてる状態のなら」
「やっぱりスカパノリンクスとミツクリザメでは違いますか」
今回集まったお客さんは皆キバさんの動画で予習をしてきているに違いない。より突っ込んだ内容を知りたがっているはずだ。
「形態はミツクリザメがスカパノリンクス属に含まれそうになったくらい似てるんですけどね。ミツクリザメはふわふわして繊細な感じなんですけど、スカパノリンクスはどっしりしてて丈夫なので、ミツクリザメみたいな不安はないですね」
「リアルの水族館でも長く生きてますか?」
「二年前に来たとき、もう大きかったですからねー。移動にも耐えられましたし」
「ああ、飼育員さんに直接聞いてこそのお話でしたね。ありがとうございます」
「うち以外でもぜひ飼育員に色々聞いてみてくださいね」
お互いCGで表情も乏しいけれど、手応えのあるひとときだった。
そんなふうにお客さんと話しているうちに、なにやらぺくてんさんがボイスチェンジャーの効いた年齢性別不詳の声でキバさんを煽っているのが聞こえた。
「宿題決定~」
「ぺくてんが趣味の範囲超えてんだって!なんでCG作れてドマイナー古生物にも異様に詳しいんだよ!」
「どうしたんですか?」
二人がいるのは中央の標本ケースのところだった。周囲にも面白がってお客さんが集まっている。
「小野寺さん、この軟骨魚類が腕足動物のこと貝だと思ってたんだって」
「キバさん、そのー、サメだからサメ専門なもんでー……」
腕足動物、つまり二枚貝と似て非なる生き物の殻が標本ケースに並んでいるのだが、キバさんにさえ標本に関しては誤解があったわけだ。
「うーん、でもじっくり見ても大事なところが伝わらない展示になってしまっているわけですからね。今反省点が分かってよかったです」
「そう真面目に言われるとー……、分かった!やっぱり腕足動物のことちゃんと調べて解説動画作るぞー!たまたまキバさんが知らなかっただけでつまんないもんじゃないだろうからなー!」
集まっていた皆から拍手とどよめきが起こった。やはりこの人の生き物に対する姿勢は立派だ。
「あっ、時間もちょうどいいかな。キバ、あれを」
「そうだな。みんなー、仕掛けを動かすぞー!」
皆の注目を集めたままキバさんが早足で移動していく。
向かった先には、ヘリコプリオンの化石が収まったケースがある。
「よっと!」
かけ声とともに、なんとキバさんの右手がケースのガラスを突き抜けてしまったではないか。というより、そう思った直後にはガラスはもうなかった。
キバさんは人差し指でヘリコプリオンの化石に触れる。
そして、楕円模様を外側から順になぞり、再び内側から順になぞった。
すると、キバさんの頭上から波紋が広がった。
一瞬にして、館内は全て水に満たされた。
単に照明が青くなり、揺れる光が床や壁に走り、視界がわずかにぼやけるようになっただけではある。しかし、ここがもはやいつもの館内ではなく水の中であると認識するには充分だった。
波間からこぼれる光はやさしく揺れている。この海は、私達を静かに穏やかに、包み込んでいた。
そして、展示室と水槽の中を隔てるガラスももはや必要はなく、とっくに消え去っていた。
リオンが尖った鼻先と縦長の顎をこちらに向ける。
お客さん達の頭上に身を乗り出して、皆をざわめかせる。
その隙にクララが左から飛び出してきた。
お客さん達は驚いてのけぞり、リオンは胸鰭でブレーキをかける。
そして、リオンは展示室内に我が物顔で進み出る。
お客さん達の立っているところを認識してかわしてはいるが、驚いて逃げたりはしない。堂々と泳ぐ姿を見せつけている。
ヒボドゥスも、ネコザメやドチザメも、すでに展示室内を軽やかに泳ぎ回っている。
淡水生のクセナカントゥスは残念ながら水槽で留守番だ。
バーチャル空間なら水も空気も関係ない。人間が魚と同じ空間を共有し、魚の泳ぎを間近に見つめることができる。これこそ、ぺくてんさんの実現したかったバーチャル水族館ならではの演出だ。
ぺくてんさんの最初の提案では、床から水が徐々にせり上がってくることになっていた。嫌な予感がして館内が出来上がった段階で試してみたら案の定、途中で気分が悪くなって止めざるを得なかったのだ。
結局、優しい海が表現できるようになっていて、本当に安心した。
キバさんの手元には、いつの間にかイカがあった。
リオンがそれに気付いて、ぐんと近付いていく。
キバさんは高く掲げたイカをリオンに向かって離してやる。
直後、イカはリオンの下顎の歯によって真っ二つに噛み裂かれていた。
豪快な狩りの様子に皆から大きな歓声が上がった。リオンは悠然と獲物を吸い込んで呑んだ。
広い展示室の中では小さなエキノキマエラ達の居所はよく分からない。しかしすでにどこかにいるだろう。
狭いところを好みがちだから、案外、標本ケースの中とか……、
ケースに目を向けて、私は本当に大事なものがそこに展示されていることにようやく気付いた。
標本ケースの天板は、白い砂に変わっている。
その上に並んでいるのはもはや死んだ標本ではない。
蛇体石こと床板サンゴのミケリニアは、蜂の巣状の骨格から花に似た個虫を覗かせている。ウミユリは立ち上がり何本も咲き誇っている。
腕足動物達は、キバさんに間違えられたとおり二枚貝のようにペアになった殻の隙間から、微細な餌が流れ込むのを待っている。
一人がけのソファのようなワーゲノコンカ、イチョウの葉に似たネオスピリファー、シダの葉を思わせるレプトドゥス……。
その合間を、やはりエキノキマエラやベラントセアがすり抜けていく。ハルパゴフトゥトルはちょうどいい巣穴を定めたようだ。
さらに小さいものまで。爪ほどしかない三葉虫のシュードフィリップシアがそこら中を歩き回っているし、よく見れば砂の中にはいわゆる「星の砂」の仲間、フズリナの一種モノディエクソディナの細長い姿が目立つ。
そして、少しだけ顔を上げると。
標本ケースのまわりを、私が本当に見たかった生き物が取り囲んでいた。
丸くつるりとした紅色の殻の、小さな小さなアンモナイト。スタケオセラス。
そのふわふわと群れ泳ぐ様を、私はついにここで再び目にすることができた。
いや、他の水族館にならあの震災の後でも飼われていた。しかしそれでも、スタケオセラスもようやく帰ってこられたのだと思うと。
こんなに可愛らしかっただろうか。春を告げる、梅の花のように。
視界が水中エフェクト以上ににじんだ。涙をぬぐおうとした手がゴーグルに当たり、私は一瞬ゴーグルを外さざるを得なくなった。
その間ただの私の部屋が見えてしまう。そのおかげで、私は冷静さを取り戻すことができた。
標本ケースの向こうでキバさんが呼んでいる。
「小野寺さーん、腕足動物の解説してくれたらなって思ってー」
「お?宿題動画のカンニングか~?」
展示のことで質問があるなら、私はすぐにお客さんに応えないといけない。
「はーい、すぐ行きます!」
それからひと月ほど経った朝。私は開館前の作業が済んで、入場門前の掃き掃除をしていた。
キバさんはきちんと腕足動物の宿題動画を完成させ、バーチャルさめのれきし館で何回か企画を行っている。
私はというと、二、三度ほどバーチャルさめのれきし館に足を踏み入れはしたものの、かえって本物のほうでやりたいことが増えてしまってそれほどVRチャットに顔を出せていなかった。
標本ケースには腕足動物の解説パネルを増やし、スカパノリンクスの水槽には比較用にミツクリザメの写真を張り出した。
あのバーチャル遠足の記録動画を見直せば、ヒントになることがまだ見付かりそうだ。
無脊椎動物の導入も目途が付きつつある。
腕足動物は個人で飼っている人もいるくらいだからいくつかはなんとかなりそうだ。ミケリニアは成長が遅いからだいぶ先のことだろう。シュードフィリップシアは全く同一の種では難しいがなんとかなる。
アンモナイトも種類にこだわると厳しいが、いくつか揃えられるかもしれない。しかしいつかは……。
そんなことを考えていると、ちょうど開館の時刻を少し過ぎたあたりで、こちらに歩み寄ってくる人達が現れた。
三十歳前後の男性が三人。組み合わせはともかく、どうやら観光客らしかった。
歩きながら会話するのが聞こえてくる。
「おおー、ホントにあったよ」
「VRのまんまだ」
あっ、これは明らかにバーチャルのほうで見てくれたお客さんだ。
「いらっしゃいませ」
「もう開館してますか?」
「はい。どうぞごゆっくり」
三人は私に会釈をしてくれながら入っていく。私も掃除は済ませて早く館内に戻ろう。
ここのところ、わずかながらお客さんの数が増えてきている。それも二、三十台の、気仙沼まで観光に来るのが少し珍しいようなかたも来てくださるようになっている。
うちを誉めてくれる人がこの日本に確実にいる。私はますます、この気仙沼で頑張っていけそうだ。
[ヘリコプリオン・ベッソノウィ Helicoprion bessonowi]
ヘリコプリオンは、ペルム紀に生息した螺旋状に並んだ歯を持つ軟骨魚類である。
軟骨魚類の骨格は軟骨でできているため、歯や棘などごく一部しか化石に残らない場合がほとんどである。ヘリコプリオンも同様に、ほぼ歯の化石のみから知られている。
ヘリコプリオンの歯は平面螺旋上に並んでいて、歯冠が外側を向いている。螺旋の中心に小さく古い歯、外側に大きく新しい歯があるため、螺旋の外側に向かうほど幅が広く、一見アンモナイトに似たシルエットをしている。一つひとつの歯は縁がわずかにカーブを描く三角形で、鋭いダガーナイフ状をしている。この歯冠の形状はホホジロザメのように獲物を切り裂くタイプのサメの歯に似ているが、歯根は螺旋に沿って内側に伸び、他の歯の歯根と組み合わさっている。この歯はサメと違って古くなっても抜けることはなく、螺旋の外側に新しい歯が追加されていった。このような歯の生え方を輪状歯(tooth whorl)という。
1899年にヘリコプリオンが命名されて以来、ヘリコプリオンがこの輪状歯をどのように備えていたかは長年不明であった。一般的な推測は、顎の奥の左右から歯が生え吻部先端に向かって移動し、やがて顎の先端で巻いて一対の輪状歯を形成するというものであったが、輪状歯が上下どちらの顎にあったかも定まらず、軟骨魚類に特有の歯と同じ構造を持つ鱗(循麟)が発達して背鰭や尾鰭の先で巻いたものであるという説もあった。
しかし、同様に輪状歯を持つエウゲネオドゥス類の魚類に関する情報が集まるにつれ、それらと共通点の多いヘリコプリオンも、サルコプリオンSarcoprionや後述のオルニトプリオンのように、下顎の中央に単一の輪状歯を持つのではないかと考えられるようになった。
そして2013年、保存状態の良いヘリコプリオンの輪状歯をCTスキャンすることで、上下の顎を構成する軟骨の痕跡からその形状を把握することができたと発表された。
それによると、輪状歯は短い下顎のほぼ全体を占め、歯のない上顎にある溝との間に獲物を挟んで、切り裂くように働いていたことが分かった。歯冠がむき出しになっていたのは上顎と向き合っている特に新しい歯のみで、使われなくなった歯は軟組織の中に埋没したようだ。
この研究では、主に頭足類の軟体部をくわえて切り裂くようにして捕食していたのではないかとしている。タコを多く捕食する現生の硬骨魚類であるハモも、切り裂くことに適した歯が下顎の中央に真っ直ぐ並んでいる点が類似する。
ヘリコプリオン自身に関しては依然として輪状歯と顎の情報しか直接得られていないが、分類上の位置が定まったことで、近縁とされるものから他の部分の姿をある程度類推することができる。
顎の形状から、ヘリコプリオンの含まれるエウゲネオドゥス類は軟骨魚類の中でもサメの含まれる板鰓類ではなくギンザメの含まれる全頭類であることがはっきりした。これにより、現生魚類の中で最もヘリコプリオンの参考になるのはギンザメであることになる。
しかし、現生のギンザメは鰓穴を一つしか持たないが、後述のオルニトプリオンから、エウゲネオドゥス類は板鰓類のように複数の鰓穴を持っていたと考えられる。
また、エウゲネオドゥス類の中でもカセオドゥスCaseodusやファデニアFadeniaなどは鰭の化石が知られている。これらの場合、胸鰭、尾鰭、第1背鰭はあるが、腹鰭、尻鰭、第2背鰭はなかった。また尾鰭は発達していて、ほぼ上下対称のV字型をしていた。尾鰭の上葉は複数の軟骨のプレート、下葉は多数の軟骨の条で支えられていた。これはサメのような上下非対称で上葉にのみ脊椎がつながっているものより、回遊性の硬骨魚類のものに似ている。ヘリコプリオンもこのような遊泳し続けることに適した鰭を持っていたのかもしれない。
現生の軟骨魚類のオスは腹鰭の一部が変化したクラスパーという交尾器を持つが、腹鰭がないとするとエウゲネオドゥス類がどのように繁殖したかは不明である。
それほど確実とはいえないが、ヘリコプリオンの大型の輪状歯の大きさに合わせて全身を復元すると全長4m前後になるとされている。
ヘリコプリオンの輪状歯の化石は、世界各地の浅い海で堆積した地層から発見されている。国内でも宮城県気仙沼市の上八瀬や栃木県などから発見されていて、上八瀬のものはベッソノウィ種に類似した特徴があるとされる。
[クラドセラケ・クラルキ Cladoselache clarki]
クラドセラケは、軟骨魚類の中でも特に早くデボン紀に生息していた魚類である。
特に早く全身の輪郭が知られるようになった化石軟骨魚類でもある。大型のもので2mほどの長い流線形をした体で、発達した尾鰭、胸鰭、背鰭を持ち、現生の活発なサメとよく似た姿をしていた。特に尾鰭は上下対称に近く、高い遊泳性を持っていたことを示す。
ただし、口は頭部の最も前に開き、吻部は突き出ていなかった。
歯は1本が根元から3つに分かれた形をしていた。循麟は目の周りに丸く並んだ大きなものだけが目立っていた。背鰭の前には発達した棘があった。この棘は背鰭と一体化していた可能性もある。
口が最も前にあり吻部が突き出ておらず、歯が三つ又になっていることが現生の最も原始的なサメとされるラブカに似ていることから、クラドセラケは特に原始的なサメでありラブカはその特徴を残したものだと考えられていた。
しかし分類の見直しにより、クラドセラケはヘリコプリオンと同じく全頭類に含まれ、ラブカは中生代になって現れた新しいサメの系統に含まれるとされるようになった。
また、以前はクラドセラケの胸鰭は根元全体が胴体につながっていたと考えられていて、これも胸鰭がそれほど自由に動かせず機動性が低かったという原始的な特徴とされていたが、保存状態の良い化石により胸鰭は胴体から離れていて自由に動かせたことが分かった。
胃の内容物が残った化石も知られていて、それによると内容物の内訳は小型硬骨魚類が65%、甲殻類の中の嚢頭類というグループに属するコンカヴィカリスConcavicarisが28%、コノドントという微細な化石が9%、別の軟骨魚類が1尾であった(獲物の胃内容物も数えているため合計が100%を超える)。硬骨魚類が尾から先に飲み込まれていたことから、クラドセラケは活発に獲物を追いかけては丸呑みにしていたようだ。
[クセナカントゥス・デケニ Xenacanthus decheni]
クセナカントゥスは古生代に繁栄したクセナカントゥス類(側棘類)に属する淡水生の板鰓類である。クセナカントゥス属はデボン紀から三畳紀まで生息していて、デケニ種はデボン紀のドイツに生息していた。全長は1mほどだった。
板鰓類、つまりサメの系統に属しているものの、かえってクラドセラケ以上にサメと異なる姿をしていた。
全体のシルエットはナマズに似ていて、背鰭は低く背中全体に延びて、同様に低く前後に長い尾鰭とつながっていた。胸鰭は軸軟骨の両側に放射軟骨が並ぶ造りをしていて末広がりの形をしていた。オスの腹鰭には発達した交尾器があった。尻鰭は小さく2つ前後に並んでいた。
鼻先はわずかに尖って突き出ていた。後頭部には長い棘があった。
遊泳よりも狭いところをすり抜けたり突然穴から飛び出したりすることに適した体型をしていたことと、淡水生であることから、体型のとおりナマズのように障害物の多い川や湖で生活していたのではないかと思われる。
[オルニトプリオン・ヘルトウィギ Ornithoprion hertwigi]
前述のとおりオルニトプリオンはヘリコプリオンと同じくエウゲネオドゥス類に属する、インディアナ州のメッカ・アンド・ローガン・クオリー頁岩という石炭紀の地層から発見された魚類である。
頭部とそれに続く肩までの部分しか発見されていないが、残った部分の保存状態はかなり良く、1966年の時点でX線による撮影が行われていた。
頭部全体の長さは10cmほどで、顎は「鳥の鋸」を意味する属名のとおりクチバシ状になっていた。特に下顎は上顎より細長く伸びていて、下顎のクチバシ部分だけで頭部の長さの半分を占めた。
さらに下顎のクチバシの根元には、ヘリコプリオンと同じく輪状歯があった。といってもヘリコプリオンとは異なり渦を巻くには至らず、楕円盤状の歯が円弧を描いて並んでいた。他にも様々な形をした歯を持っていたようだ。
眼窩は大きく、視覚が発達していたと考えられる。頭の後ろには鰓を支える骨格があり、板鰓類のようにスリット状の鰓穴が並んでいたことが分かる。また鰓の背の低さから、胴体は頭と同じ高さしかなかったようだ。胸鰭を支える骨は発達していた。
正確に体型を推定することは難しいが、鰓の高さから細長い体を持っていたと思われる。長いクチバシで泥の中の餌をかき出すか、獲物を叩いて弱らせたのかもしれない。
[ヒボドゥス・フラアシ Hybodus fraasi]
ヒボドゥスは、主に石炭紀に栄えたヒボドゥス類に属する板鰓類である。ヒボドゥス属はペルム紀に現れ白亜紀まで生存したとされ、フラアシ種はドイツのジュラ紀末の地層であるゾルンホーフェンから発見された全長1m弱ほどの種である。
吻部はそれほど突き出ておらず、全体的に丸みを帯びた体型だったが、現生の小型のサメによく似ていた。顎を突き出すことはできなかった。第1・第2背鰭の両方とも前に長い棘を備えていた。歯はあまり鋭くなかった。
[スカパノリンクス・レウィシイ Scapanorynchus lewisii]
スカパノリンクスは現生のミツクリザメに非常に近縁な白亜紀のサメである。レウィシイ種はレバノンのサヘル・アルマという約八億六千万年の地層から発見された全長1mほどの種である。
全身の輪郭が非常によく保存された化石が発見されていて、長く突き出た平たい吻部、長い胴体、やや小さい胸鰭や背鰭、胴体からほぼ真っ直ぐ続く尾鰭など、現生のミツクリザメと非常によく似た特徴を備えていた。このことから先に発見されたスカパノリンクス属にミツクリザメを含める意見さえあった。このように白亜紀には現生のサメにごく近縁なサメが現れていた。
サヘル・アルマの堆積した水深は150mほどとミツクリザメの生息深度ほど深くはなかったようだが、スカパノリンクスも深くて餌に乏しい海底で長い吻部の感覚器官を活用して餌を探していたと思われる。
[オトドゥス・メガロドン Otodus megalodon]
メガロドンという種小名のみの通称で知られる本種は、主に中新世の世界各地の海に生息していた、非常に大型のネズミザメ類である。日本国内でも各地から発掘されている。
ホホジロザメに近縁としてホホジロザメ属Charcharodonに含める意見、オトドゥス科に属するとしてカルカロクレス属Carcharoclesに含める意見、さらにカルカロクレス属は独立属ではないとしてオトドゥス属に含める意見がある。
ホホジロザメのものを3倍ほどに大型化して幅と厚さを増したような、巨大な歯のみで知られている。体型はネズミザメ類そのものであったと考えられるが、推定全長は10mから20mの間とほとんど定まっていない。埼玉県深谷市の荒川河床にある土塩層からほぼ1個体分の歯が発見され、その個体からの推定では12mとなっている。
中新世当時はまだ数mほどの全長しかなかったクジラ類も捕食していたようだが、絶滅の原因については諸説入り乱れているものの、海水温の変化、植物プランクトン相の変化、それに伴うクジラ類の進化などが密接に関わって、現在の海洋の大型動物相が形成されたようだ。
[エキノキマエラ・メルトニ Echinochimaera meltoni]
エキノキマエラは、モンタナ州のベア・ガルチ石灰岩という石炭紀の石灰岩から発見された、全長20cm程度の小さな全頭類である。オスのほうが大型だった。
すでに現生のギンザメと同じギンザメ目に属していて、発達した胸鰭、大きな頭、真っ直ぐな尾など現生のギンザメによく似ていた。
吻部は丸みを帯び、背鰭とその前にある棘は高く伸びていた。棘と背鰭は一体になっていたようだ。目の上には4つの枝分かれした棘があった。
[ハルパゴフトゥトル・ヴォルセロリヌス Harpagofututor volsellorhinus]
ハルパゴフトゥトルもエキノキマエラと同様ベア・ガルチ石灰岩から発見された全長20cmほどの全頭類である。コンドレンケリス類というグループに属していた。
細長い体型をしていて、背鰭は低く背中全体に延びて、同様に低く前後に長い尾鰭とつながっていた。胸鰭と腹鰭は小さかった。
頭部はペンチのように丈夫で先細りだった。オスにはFの字を斜めに長く引き伸ばしたような形の後ろ向きの角が1対あり、交尾の際に役立てたと思われる。
[ベラントセア・モンタナ Belantsea montana]
ベラントセアもベア・ガルチ石灰岩から発見された小型の全頭類である。全長30cmほどで、ペタロドゥス類というグループに属する。
クマノミを思わせる丸みを帯びた体付きで、胴体は縦に平たかった。2つの背鰭、胸鰭、尻鰭は全て丸く大きく、根元から半分が筋肉に覆われていた。尾と尾鰭は小さかった。
丈夫な顎に丸い歯があり、これによって固い殻を持つ獲物を噛み割って食べたと考えられる。
[ミケリニア・ムルティタブラータ Michelinia multitabulata]
ミケリニアは、床板サンゴ類に属するオルドビス紀からペルム紀のサンゴである。床板サンゴ類の骨格は筒状の体壁と、体壁を仕切る床板からなり、群体を形成して丸みを帯びた塊状になっていた。
前述のヘリコプリオンが発見された気仙沼市上八瀬からはペルム紀のミケリニアの化石も発掘される。現在の気仙沼を形成する地質はペルム紀に赤道近くの浅い海底で堆積したもので、その海にはサンゴ礁があったようだ。
上八瀬のミケリニアは風化により骨格部分が溶けて中に詰まった鉱物が取り残されているため、わずかに膨らんだ小さな塊が蛇の鱗のように集まったものになっていて、地元の人達に蛇体石と呼ばれている。
[岩井崎のウミユリ(学名なし) class Crinoidea]
気仙沼市には山間部の上八瀬だけでなく海辺の岩井崎という化石産地もある。
岩井崎はペルム紀の石灰岩でできた岩礁で、石灰岩が侵食されることで独特の地形が形作られているが、この石灰岩にはウミユリの茎などの化石が顕著に見られる。主にウミユリの骨格が堆積することで岩井崎の石灰岩が形成された。
このウミユリの茎は直径数mmから1cm程度の小型のもので、ほとんど茎のみであるため分類に重要な形質は見いだせない。
[ワーゲノコンカ・インペルフェクタ Waagenoconcha imperfecta]
ワーゲノコンカは、二枚貝のように2枚の殻が合わさった姿をしているが二枚貝とは異なる腕足動物に属する。殻の隙間に流れ込んだ海水から、触手冠という器官で餌となる物質を濾過する。
腕足動物の殻の形態は様々だが、ワーゲノコンカの殻は背もたれと座面が一体化した椅子のように、2つの殻がともに同じ方向に曲がった形をしている。
新潟大学の椎野勇太氏は、ワーゲノコンカを含めた腕足動物の殻に関する流体力学的な実験と解析を行っている。
これによると、ワーゲノコンカの周囲の水流により殻の周囲に圧力差が生まれ、効率的に殻の中に水流を生み出し餌を濾過することができたという。この研究に上八瀬から発掘されたワーゲノコンカが用いられた。
[ネオスピリファー・ファスキゲル Neospirifer fasciger]
ワーゲノコンカと同じく上八瀬で発見される腕足動物だが、イチョウの葉に似た形態のスピリファー類に属する。スピリファー類については第四十二話のキルトスピリファーを参照。
[レプトドゥス・ノビリス Leptodus nobilis]
特に変わった形態をした腕足動物である。
殻はおおむね楕円状の輪郭をしているが、片方の殻には左右の縁から中央に向かうスリットが多数平行に並んでいた。このため全体がシダの葉のように見える。これもワーゲノコンカやスピリファー類の場合と同じく、なんらかの形で水流を利用して内部に水を導入することのできる形態であると思われる。
レプトドゥスの化石は上八瀬やその周辺、岐阜県の金生山など各地のペルム紀の地層で発掘されている。また上八瀬からは他にも様々な腕足動物が発見されている。
[シュードフィリップシア・スパトゥリフェラ Pseudophillipsia spatulifera]
シュードフィリップシアはペルム紀に生存した数少ない三葉虫の一つで、2cm程度と小型で三葉虫の基本的な姿をしていた。
スパトゥリフェラ種は主に上八瀬から発見されている。他にも日本各地のペルム紀の地層からシュードフィリップシアが発見されていて、サンゴ礁に生息していたようだ。
[モノディエクソディナ・マツバイシ Monodiexodina matsubaishi]
モノディエクソディナは大雑把にいえば殻のあるアメーバである有孔虫の中の、フズリナ類というグループに属する。現生の有孔虫であるホシズナのように、石灰質の砂地の上に生息していたようだ。
フズリナ類は数mmから数cmほどの紡錘形の殻を持っていて、多くは密集した状態で見付かる。モノディエクソディナ・マツバイシの特に細長い殻の化石が多数集まったものが岩井崎から知られていて、マツバイシという種小名はこの化石を松葉に見立てた松葉石という呼び名にちなむ。
[スタケオセラス・イワイザキエンセ Stacheoceras iwaizakiense]
スタケオセラス・イワイザキエンセは岩井崎から発見されたペルム紀の頭足類で、広義のアンモナイト(アンモノイド類)に含まれるゴニアタイト類に属する。
ゴニアタイト類は古生代に特有のアンモノイド類で、隔壁の形状は後のセラタイト類や狭義のアンモナイト類と比べごく単純であった。
スタケオセラス・イワイザキエンセはペルム紀のアンモノイド類として国内で初めて記録されたもので、直径2cm程度と小型で、やや厚みがあり、へそと呼ばれる中央のくぼんだ部分が小さかった。
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