第2話「セイレーン -陽子と水槽の住人達-」

「すいません先ぱぁい、お邪魔しますぅ」

「気にしない気にしない、上がって上がって」

 二次会、三次会と続いたプロジェクトの打ち上げ。みんなこの日を迎えるまで本当によく頑張った。

 さらに私は、終電を逃した真田君、一番のイケメンでお気に入りの後輩を、ついに部屋に上げることにまで成功した。

 彼のほうが酔いが深いのは多少痛手だけど、これは親から受け継いだ優秀なアルコール分解酵素を恨むしかない。年上の包容力と母性でカバーだ。

 今夜こそ彼氏いない歴X年の輪廻から解脱するときなのだ。ふふふ。

 彼をソファに座らせ、冷蔵庫と食器棚の扉を開ける。

「麦茶しかないけど、いい?」

「助かりますぅ」

 注いであげた麦茶を一気に飲み干す。その飲みっぷりで思い出した。

 そもそも私が酔い潰れたらまずいじゃないか、同じくらい食いっぷりのいい子達がうじゃうじゃいるのに。

「ごめんね、ちょっと待ってて?」

「はぁい」

 二部屋あるうちのもう一方に素早く移る。薄暗い部屋の片側に、青白く照らされるいくつもの水槽が並んでいる。エアレーションとフィルターの音が低く重なる。

 今日はたまたまこの子達の食事のサイクルがみんな一致して、飲み会も重なったものだからどうしようかと思っていたのだ。急いで餌やりを済ませないと。

 一番手前の水槽から始める。細長く弾力のある合成飼料を密閉パックからピンセットで一本取り出し、中に落とす。

 殻のない蟲のような飼料が水槽の中央に陣取る橙色のカイメンの頂上に向かって降りていき、

 飛び出した牙に捕らえられた。

 カイメンの谷間に潜んでいたのは、透明感のある小さな生き物だ。

 脇を鰭と鰓に縁取られた長い胴体を、いくつも並んだ短い肢で支える。三対の尾鰭の反対に、五つの目で覆われた頭。その下には、先端に仰々しい鋏のついた、一本の大きな触手がある。飼料を抱え込み、顎も何もない口ですすり上げる。

 オパビニア・レガリス。このカンブリア紀からの来訪者、目にも止まらぬ触手さばきはギンヤンマのヤゴにも劣らぬ水中スナイパーだ。その五つもの瞳が、敵や獲物が一度に視覚を身に付け出した激しい生存競争の時代を物語る。

 ひも状飼料のパックを置いて、ボトルとピペットを手に取る。種類が違えば餌も違うから大変な手間だ。素早く済ませていかないと。

 オパビニアの隣にある水槽の底では、五尾の魚が泳いでいる。しかしその魚には、鱗も背鰭も胸鰭も、顔や骨すらない。細長いリボンのような透明の体の先端には二本の触角。消化管と、脊椎とも呼べない単純な筋がかすかに透けている。ピペットから流れ出る細かな粉末を、やはりただの穴のような口で吸い込む。

 原始的な脊索動物、ピカイア・グラキレンス。同じカンブリア紀のもっと進化した魚が見つかった今でこそ人類の遠い祖先とは呼ばれなくなったけど、その体は私達脊索動物の始まりの姿を伝え続けている。

 さあ、急がないと。タッパーを開け小エビを取り出す。

 二種類の、花のような姿がいくつか水中に浮かんでいる。オレンジのガーベラと白い小さな蘭。これは誰でも知っている生き物、アンモナイトの殻だ。

 丸い大きなほうはドウビレイセラス・マミラートゥム、数字の9に似た形の「異常巻き」はスカフィテス・フンガルディアヌス。

 下の殻口からはイカそっくりの顔と腕が覗いている。眠たげな瞳。身の部分の斑点模様もなかなか味わい深いものだ。触手を巧みに繰り出してエビをからめ取り、内側に引き込む。

 スポイトで中の水を少し取り出し、検査器にかける。問題なし。混泳できる種類だから多少は楽なものの、水質といい水温といい、アンモナイトは気難しくて骨が折れる。

 中生代の象徴なだけに古生物アクアリウムをやる上ではステータスだけど、この上ダクティリオセラスやペリスフィンクテスにまでは残念ながら手が出せそうにない。ドウビレもスカフィテスも、化石は簡単に手に入ったのだが。

 逆に、化石は火が着くような値段なのにやたらと飼い易いのもいる。

 砂の上に沈んだ顆粒状の飼料めがけて、いかめしい虫達が我先に押し寄せてくる。こちらも有名な古生物、三葉虫だ。

 色も姿もベーシックでいかにも三葉虫らしいのが二種類、大きいのはフレキシカリメネ・タザリネンシス、小さいのはエルラシア・キンギ。棚から手に取った化石と、触角と肢以外ほとんど変わらない姿で動いている。私は、本当に太古の生物を飼っているんだ。この二つは、どちらの化石も高くはなかった。

 しかし脇腹や頭が極彩色の見事な棘で飾られたような連中は、当分化石が手に入りそうもない。フォークそっくりの三又の角が生えているのはワリセロプス・トリフルカトゥスで、細いスプーン状の角があるのはプシコピゲ・エレガンス。どちらも見た目の割りに小食だ。

 そして岩山羊のように大きく巻き上がった角は、三葉虫のトップアイドル、ディクラヌルス・モンストローススである。脇の棘も流れるようなラインを描き、白と紫の縞模様と相まってまばゆいばかりの姿だ。

 ただこのアイドル達、人間のと違って本当に全くわがままを言わない。餌は一番安いし、水質も水温も大雑把。しかもまた……、ディクラヌルスの水槽に細かい卵が漂っている。またすくってショップに引き取ってもらわないと。化石の値段はほとんど、繊細なパーツを岩から掘り出す手間賃らしい。

 粗食と悪環境に耐えて多産な、わらわら這う虫。これだとまるで……、いや、これ以上考えるのはよそう。まあ、アレも立派な「生きた化石」だから嫌いじゃないけど。

 手の平サイズの生き物が多い我がアクアリウムだけど、もっと大きいのもいる。

 一際大きな水槽――さすがにもらい物だ――の中には、平べったい甲羅で覆われた流線型のシルエットがある。後端は剣のような尾で終わり、兜の下からブラシ状の手と、長いパドルが突き出す。

 三十センチのウミサソリ、ユーリプテルス・レミペスは、私の気配を感じて滑るように泳ぎ回る。滑らかなパドルの動きが絶え間なく推進力を与える。水中を飛ぶペンギンの翼と同じ、精巧な流体のメカニズムが働いているのだ。

 ウミサソリといってもカブトガニが素早くなったようなものだ。もっと大きくて武装も強力な仲間と違って餌は三葉虫と大差なく、猛々しい捕食シーンは見せない。

 しかしこの素早い身のこなし、流麗なフォルム、怜悧な目つき。文句無しにこの部屋のヒーローだ。

 そして、ほとんど動かなくてもユーリプテルスに勝るとも劣らないヒーローが、この部屋にはもう一種類いる。

 筆石(ふでいし)、ディプログラプトゥス・プリスティス。

 円盤形の胴体とたくさんの腕は一見クラゲそっくりだが、胴体はただの浮き袋に過ぎず、水面から半分出ている。腕にはおびただしい数の細長い袋があり、袋一つ一つの中に本体が収まっている。サンゴと同じ群体生物というわけだ。

 筆石に餌らしい餌は必要ない。水質管理のついでに多少の有機物を溶け込ませ、充分な光を当てていれば、あとは勝手に発生した微生物を吸収する。

 腕をくねらすことすらなく、黙って浮かんでいる姿は人工物のようですらある。しかし彼、いや彼らを、生き物のように感じられないのは、余分な思考と栄養を費やして活動し続けなければ自らが保てない哺乳類たる私達の狭い視野に立つからだ。

 膨大な歴史、広大な世界。この地球上には一体どれだけ多様な生き方が現れてきたのだろうか。

 時間を飛び越えて今私と空間を共有する筆石の滑らかな浮き袋が、私のちっぽけな生き方を写す鏡のように思えてくる。

 段々色んな悩みが遠ざかっていって――

「せ、先輩?」

 人類の声が私の心を現世に引き戻した。

「さ、真田君……、その、酔いは、大丈夫?」

 部屋の入り口に立つ彼の表情は逆光でよく分からないが、どう見てもすっかり素面に戻っている。

 どの辺りから見ていたのか分からないが、暗がりに並ぶ水槽を見つめる姿は酔い覚ましにはてきめんに効いただろう。しかも水槽の中身は、可愛い熱帯魚どころではない。

 生き物の世話には成功したが、人間関係の世話には大失敗したことを私は知った。

「その、やっぱりお邪魔みたいなんで、マン喫ででも夜明かしします」

「そう。送って、いかなくて……、よさそうだね」

「し、失礼しました」

「あっ、ちょっと待って!」

「はいっ?」

 どうせ望みがないのならせめて、

「うちのペット見ていかない?」

「遠慮しておきます」

 逃げるように玄関を出て行く音を聞きながら、私はもはやすっかり諦める体制を固めていた。

 所詮はちっぽけな人間の人生。長い年月を越えてきたこの部屋の住人達の前では、何が上手く行かなかろうと気にするほどのことではない。筆石の浮き袋を見つめながらそんな風に考えていないと、この夜を乗り切れそうになかった。

 それにしても、酒で酔わず生き物で酔う自分が恨めしい。




[オパビニア・レガリス]

 いわゆるカンブリアンモンスターの一つ。全長5cm前後。5つの複眼と1本の柔軟な触手を持った頭部が特徴。胴体両脇に並ぶ鰭と鰓や3対の尾鰭などからアノマロカリス類に分類されるものの、そのアノマロカリス類自体、他の生物との類縁関係がはっきりしない。化石のレプリカは2000円程度。

[ピカイア・グラキレンス]

 同じくカンブリアンモンスター。全長4cm前後。柳の葉に似た形の、ごく原始的な脊索動物(脊椎動物全体に加えホヤなどを含む)。脊索(脊椎の原型)や魚類的な鰓列、筋肉が認められる。現代にもナメクジウオというよく似たものが生き残っている。化石のレプリカは2000円程度。

[ドウビレイセラス・マミラートゥム]

 白亜紀の、主にヨーロッパ近海に生息したアンモナイト。殻の直径は10cm前後。殻の表面に放射状のうねと、その上に並ぶいぼ状の出っ張りを持ち、かなり装飾的。化石は多く出回っており、1000円から。

[スカフィテス・フンガルディアヌス]

 白亜紀のヨーロッパ近海に生息した「異常巻きアンモナイト」。長さ数cm。異常巻きというのはあくまで特殊な適応の結果であり、病的、あるいは過剰なものではない。スカフィテスの場合は途中まで普通に巻いた殻が一旦直線になり、またフック状に曲がるというパターンだった。異常巻きの中では化石の価格は手ごろで、2000円から。

[フレキシカリメネ・タザリネンシス]

 オルドビス紀のモロッコ近海に生息した三葉虫。全長10cmあまり。比較的細長い体形をしていた。カリメネの仲間は非常に繁栄したようで、化石の数や種類が多い。価格は保存状態にもよるが、3000円程度。

[エルラシア・キンギ]

 カンブリア紀の主に北米近海に生息した三葉虫。全長3cm程度と小型で、偏平な体形。化石は非常に普及しており、300円から手に入る。

[ワリセロプス・トリフルカトゥス]

 デボン紀の三葉虫。角を除いた全長5cm程度。三又に分かれた長い角が頭部先端から生え、頭部両脇や胴部・尾部側端からも体節ごとに棘が生えていた。化石は10万円は下らない。

[プシコピゲ・エレガンス]

 デボン紀の三葉虫。角を除いた全長10cm程度。こちらも体側から長い棘が伸びていた。頭部先端のへら状の角、頭部両脇から後方に真っ直ぐ伸びる棘が目立つ。やはり化石は10万円以上はする。

[ディクラヌルス・モンストロースス]

 デボン紀のモロッコ近海に生息した、最も装飾の発達した三葉虫の一つ。棘を除く全長は5cm程。体の縁から伸びる棘に加え、頭部中央から二又の角が後方に向かってカールしながら伸び、その先端は前方を向いていた。化石は小型三葉虫の中では特に高価で、数十万円。

 三葉虫の角や棘にはこのように単なる防御のため以上の複雑な形態を示すものがあり、使途はカブトムシ同様の闘争、餌を砂から掘り返すなどが考えられるが、詳しくは不明。

[ユーリプテルス・レミペス]

 オルドビス紀からデボン紀の欧州・北米近海に生息した、最も繁栄したウミサソリの一種。全長は最大で30cm。鋏や毒針といった武器がないため、捕食性は低かったと考えられる。化石の価格は数万円以上。

[ディプログラプトゥス・プリスティス]

 オルドビス紀に生息した、筆石と呼ばれる生き物の一種(半索動物)。円盤形の胴体の周りに球形の生殖胞があり、その下から群体のメンバーである個虫を収納した腕が伸びていた。個虫は羽毛状の触手を伸ばして水中のプランクトンを捕らえる。化石は断片的なものが3000円から。

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