百一回目のサヨナラ

586

#01 はじまりの記憶

 ヘンな夢を見ていた。

 言葉ではうまく説明できないけれど、いい夢じゃないことだけは確かな、奇妙な夢。不可思議な夢を、わたしは見ていた。

(……うぅん……なんか、もやっとする……)

 身体を起こして、ぐーっと伸びをしてみる。それでも、心なしか気持ちが晴れない。風景は少しも記憶に残ってないのに、ただ、好くない夢を見たって感触だけが、いつまでも残ってる。どこか具合が悪いわけじゃないけれど、いい気持ちでもなかった。それでもしばらくぼんやりしてると、だんだん意識がハッキリしてきて。

 そういえば、今日は何かあったはず。ええっと、何だったっけと、働き始めた頭に問いかけてみる。

(……はっ)

 その途端、わたしはとっても大切なことを思い出す。

(今日……透くんとデートする日だった!)

 九月二十日。この日は、透くんとの初めてのデートの日だった。

 あわわわ……と慌てて起き上がる。マンガとかアニメとかだと、こういうときは決まってとんでもなく寝坊してて、遅刻寸前になってるのがお決まりのパターンだ。どうしよう急がなきゃ、とりあえず今の時間を確認しよう――そう思って、枕元へ置いている目覚まし時計を手に取る。

「……あれ?」

 時計を見た途端、思わず声が出る。昨日の夜に余裕を持ってセットしておいた時間より三十分も早く目が覚めていて、寝坊なんて全然してなかった。むしろ、早すぎるくらい。どきどきしていた心臓が落ち着いてきて、ほう、と小さく息をつく。すっかり安心して、ついでに頭も冴えてきた。よぅし、いい感じ。

 二時間プラス三十分。軽く朝ごはんを食べて、持っていくものの準備をして、目いっぱいおめかしをしても、たっぷり余るくらい時間がある。今日は透くんとの大切な初めてのデートの日。あんまりそんな柄じゃないけど、しっかり気合いを入れて行かなきゃ。ぐっ、と両手で小さな握りこぶしを作って、気持ちを新たにする。

 今日という日が、どうか、素敵な一日でありますように。

 

 わたしは神戸ゆり。みんなからは「神戸さん」「ゆりちゃん」と呼ばれることが多い。仲のいい友達からは、ちょっと懐かしい匂いのする「ゆりっぺ」なんて呼び方をされることもある。ほとんどの人が名字の「神戸」を「こうべ」と読むから、初めて顔を合わせる人からは、必ず一度は名前を間違えられちゃう。だからもうすっかり慣れっこになって、読み間違えられるのが当たり前だと思ってた。

 だから、初対面で「神戸さん」と呼びかけられた時は、わたしの方がびっくりしちゃって。

「透くん、お待たせっ」

「おはよう、神戸さん。僕も今来たばっかりだよ」

「よかったぁ。待たせちゃってたらどうしようって、来る途中ずっと心配だったから……」

「この時間に待ち合わせしようって言ったのは僕だから、待ったとしても、それは僕の望んだことだよ」

 透くんは、その、わたしをビックリさせた人、その人で。

 今、こうしていっしょにいるようになるまでの、ほんの少し前のこと。

「……好きです」

「わたし……成田くんのこと、好きです、好きなんです」

 夕陽の差しこむ放課後の教室で、わたしはなけなしの勇気を振りしぼって、透くんに「好きです」と告白した。彼の瞳がまぶしい陽の光に照らされて、宝石のようにきらきら輝いていたことを、今でもすごく鮮明に覚えている。

 前々から、好きだった。クラスでもそんなに目立ってるわけじゃなくて、どちらかというと物静かなタイプの男の子。けれども、真面目で誠実な人で、いつも穏やかな笑みを崩さない。時折、図書室で本を読んでいるすがたを目にする。だから、もしかすると本を読むのが好きなのかな、と思った。

 わたしが透くんを意識するようになったのは、一学期の初めのこと。廊下を歩いている途中、気づかないうちにハンカチを落としてしまった。落し物をしたことさえ知らずに歩いていたわたしの背中から、声が飛んできた。

「神戸さんっ、ハンカチ落としたよ」

 はっとして振り向いた先には、わたしの方へ走ってくる、透くんのすがたがあった。

 その時に声を掛けられるまで、透くんと話をしたことは一度もなかった。面と向かって話したのも、これが初めてだった。同じクラスだったから、顔と名前だけはかろうじて知ってるくらいで、初対面と言っても全然間違いじゃなかった。初対面の人には「神戸さん」と呼ばれるのが当たり前だったわたしには、名字を間違えずに呼んでくれた、ただそれだけで、透くんが強く印象に残って。

 だから――わたしは。

「もし、よかったら……わたしと、付き合ってください」

「神戸さん……」

「あ、あの……ごめんなさい。急に、こんな、わたしなんかから、こんなこと……」

 前の晩、ベッドの中にいても寝付けなくて、いろいろな言葉を考えて、ほんの少しでもお洒落に思いを告げようとして、たくさんの準備をしてきたつもりだった。けれど、本番を迎えたわたしの口から出てきた言葉は、ただ「好きです」の四文字だけで。それ以上の言葉は、どんなにがんばっても、どれだけ考えても、ちっとも、ちっとも出てきてくれなくて。

 つたなく、ぎこちなく、たどたどしい。だけど思いだけは、好きだって思いだけは、前のめりになるくらいにこもった、わたしの言葉を。

「神戸さんが、僕といっしょにいることを望んでくれるなら、喜んで」

「僕の方こそよろしく、神戸さん」

 透くんは――快く、すごく快く、受け入れてくれた。

 バス停まで走ってきたわたしを、透くんは穏やかでやさしい笑顔を浮かべて、あたたかく出迎える。はずんだ呼吸をきちんと整えてから、わたしは改めて、透くんの前に立つ。

 ああ、わたし、透くんといっしょにいるんだ。

 目の前にいるのは、まぎれもなく本物の透くん。ここにいるのは、確かにわたし。透くんとわたしが同じ空間にいて、同じ空気を吸っていて、そして、同じところへ行こうとしている。透くんの、名前どおり透き通るようなきれいな瞳を見ていると、わたしはただそれだけで、たくさんの幸せを感じられて。

「来た来た、あのバスだね。神戸さん、乗ろうか」

「うんっ」

 やってきたバスに、ふたり、手をつないで乗車する。他のお客さんの姿はまばらで、透くんとわたしは、ふたりがけの座席に身を寄せ合って座る。バスが発車して、目的地に向けて走っている間も、わたしと透くんは、ずっと手をつないだまま、片時も離さない。つないだ手を通して、わたしの鼓動と透くんの鼓動がひとつになって、ふたりの体へ伝わってゆく。そうしていると、また、幸せな気持ちが満ちてきて。

 なんだか、夢を見ているみたい。

 そんな思いが、ふっと、胸に去来した。

 

 バスに乗った先でたどり着いた場所、それは。

「透くん透くんっ、早く早くっ!」

「こんなにはしゃいでる神戸さんを見るの、初めてだよ。遊園地、好きなんだね」

「うんっ。小さい頃からね、よく遊びに行かせてもらってたんだ」

 街外れの海辺にある、その名も「ミッドナイトファンタジーパーク」という、大きな遊園地だった。透くんとわたしの初デートの舞台は、わたしの希望で、この遊園地にしてもらった。幼稚園に通っていた頃ぐらいから、初めてのデートの場所は、できればここにしたいって、ずっと思っていた。ここをモデルにした遊園地が舞台のお話があって、大きな観覧車に乗ったカップルが、きれいな夕焼けをバックにして、それで……なんてシーンをマンガのを見たのが、一番の理由だった。

 特別すごいアトラクションがあるわけじゃないけど、遊園地、って言われたときに思い浮かべるものは、本当になんでもあった。そのひとつひとつが楽しくて、しかも透くんとふたりで遊べるんだから、わくわくしないはずがなかった。いつもはそっと引いてもらっている手を、今はわたしが引っ張っている。透くんは穏やかに微笑んで、走らなくても遊園地は逃げないよ、なんて、お父さんやお母さんが言うようなことを口にする。

「今日はたくさん遊んで、素敵な一日にしようねっ」

「そうだね。ずっと記憶に残る、大切な一日にしたいよ」

 ふたり、手をつないで、夢の世界へのゲートをくぐる。

 今日はまだ、始まったばかり。

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