1242(とうに死人)のヤコ(前)

 数年が過ぎた。

 アルベイン・レイテルとなった少年は、勇者の卵として鍛錬を積む日々を続けていた。

 剣を振る殺陣から、素手で相手と渡り合う方法、この世界に存在し、あまねく人間が多少の差は有れど持つと云う魔力を用いて放つ、『魔法』の実行。あらゆる戦い方を仕込まれた。

 物理的な戦いの師範は、皇帝に布越しの謁見をした時に右側に居た騎士長ガラハッド・ジェイクが自ら行った。アルベインが少年だからと容赦せず叩き込まれる剣や拳に、打ちのめされ、這いつくばらされ、悔しさのあまり口の中に入った訓練場の砂を噛み締めて、肌に跡が残る程爪を食い込ませて拳を握った。

 魔法の教鞭は、帝都で一番の実力者と謳われる、皺くちゃに老いた宮廷魔術師が執った。誰もが『一番の爺さん』と呼ぶので「名前なんぞ忘れちまったわい」と、ところどころ歯の抜けた口を笑みに象ってみせたその『爺さん』は、しかし評判通り実力は確かだった。魔法のまの字も知らなかったアルベインに、二日で指先から火花を出させたのである。

「魔法はな、ここで考えるんじゃねえんだわ」

 爺さんは喉の奥で笑って、緩慢な動作で指先で頭を小突き、それから、拳を作って胸に当てる。

「ここで、願うんだわ。何でもええ。敵に勝つ為でも、名声の為でも、金を得たいが為でも、惚れた女の為でも。とにかく、使いてえって願う気持ちが大事だわ」

 その他の勉学は、科目ごとに家庭教師を付けられて、言葉の読み書きから礼儀作法、数を使った計算。そして、帝国が勇者を必要とする歴史を教えられた。

 帝国には、否、人類には天敵が存在した。その名は、魔族。

 人と同じ姿をしながら人と同じ心を持たぬ残忍なる彼らは、東の果てに棲み、時折人間世界に降りて来ては戯れに街を滅ぼす。あるいは炎で焼き尽くし、あるいは洪水で押し流し、あるいは魔法で地揺れを起こし建物を崩して、壊滅させた都市の数は、歴史の中でも数えきれないと云う。

 その非道なる魔族の王を斃す為に勇者が選ばれるのだが、魔王は歴代の勇者が命を賭して倒しても倒してもしばらく経つと新しい王が立ち、再び人類を攻める。今度こそ、今度こそ、と帝都の民は勇者に期待をかける。望むと望まざるに関わらず、その期待に応えるように、アルベインは勇者としての素質を開花させていった。


 勇者の卵として優秀で、挨拶の仕方も買い物も知ったアルベインは、たまに皇城を出て城下街へ降り、下賜される金を使う事を覚えた。勇者を一人育成するのにどれだけの人と金が動いているか。少年には計り知れないが、様々な事を教えてくれる上に小遣いまでくれる今の生活は、ハカラの裏道で残飯を漁っていた頃が悪夢の彼方の出来事のように思えた。

 とは言え、部屋は皇城に用意されているし、服や日用品など生活に必要な諸々も事足りている。金の使い道は、道楽で買う本と、皇城の豪勢過ぎる食事に飽きた時に街の食堂へ入って腹を満たす事に費やされた。

 そんなある日。軒先に下げられ風に揺れる、謳う金色の小鳥の飾りに惹かれて入った食堂に於いてだった。

 何の変哲も無い、普通の食堂だった。テーブルや椅子は使い込まれて疵があり、内装も洒落たものではない。運ばれて来た食事も格別に美味いとは思わない。だが、その食事を運んで来た給仕の娘に、少年の目は吸い寄せられた。

 自分より二、三歳は上だろう。一際美しいと云う訳ではない。世の中の娘と比べれば、平凡に位置するに違い無い。黒い瞳を持つ目は一重で、眉は細く短い。鼻梁は綺麗だが、少し突き出た唇が横顔の線を惜しくしている。癖のあるくすんだ金髪をうなじの辺りでひとつにまとめて、古ぼけた麻の衣を纏い、いかにも街食堂の下っ端の娘、という印象をアルベインに与えた。

 赤魚の煮込みを口に運びながら娘を目で追っていると、客の男が娘にぶつかり、「きゃっ」と小さな悲鳴をあげて娘がよろける。手にした盆から料理が引っくり返って、客にかかる事は無かったが、豚肉料理は床に落ちて皿が砕け散った。

「気をつけろ、この馬鹿たれが!」

 明らかにそちらの方が悪いのに、客は慌てて床にぶちまけられた破片を集めようと身を屈めた娘の顔に蹴りを入れて店を出て行く。それに追い打ちをかけるがごとく、

「てめえ、ヤコ! またやりやがったな!」

 店の主人と思しき小柄な男がカウンターの奥から飛び出して来たかと思うと、高い音を立てて娘の頬を容赦無く叩いた。

「すみません」

 それでも娘は反論する事も無く、頭を下げる。

「全く、この役立たずが! 常連さんに迷惑かけるんじゃねえよ! この穀潰し!」

 よくもそんなに出て来るものだと呆れてしまう罵倒の言葉を並べ立てながら、主人は皿の破片を集める娘の頭を何度も何度も拳で強く叩く。罪の無い弱者を横柄にいたぶる主人と、縮こまってただ「すみません」を繰り返す娘。双方への苛立ちは、アルベインに行動を起こさせるに充分な理由だった。

 平手でテーブルを叩いて椅子を蹴るように立ち上がる。店中の視線が自分に集中するのを自覚しながらも、身の内に宿った激昂の猛獣は治まる所を知らなかった。

 大股で主人と娘の元へ歩み寄って行くと、食事代を上回るヤシュク銀貨数枚を取り出し、主人に突きつける。いきなりの収入に思わず正直ににやけるその顔に一発、拳を叩き込んだかと思うと、アルベインは娘の手を取り立ち上がらせ、「あ、あの」と戸惑う彼女を強引に引っ張りながら店を出て行った。

「あの、あたし、お店に戻らないと。片付けないと、旦那様に叱られます」

「知るか」

 狼狽える娘を一声で黙らせ、出来るだけ食堂から離れようと距離を歩く。

「すみません、離して」

 娘が身を捩り手首を捻ってアルベインの手を振り切った所で、立ち止まる。振り返れば、娘の頬は赤く腫れ上がり、痛々しい様相を呈している。何故甘んじる。虐げられる人生に。そう思った所で、ハカラの裏道でぼろ雑巾のようになっていた過去の自分も同じだった事を思い出させられて、一層の苛立ちが募った。

 馬鹿かお前は、の一言を浴びせかけようとした時、腹の虫が鳴る音がした。食事を摂ったアルベインのものではない。娘が真っ赤になって自分の腹を押さえた事で、彼女のものだと判る。

 どうやら食事も満足に摂らせてもらっていないらしい。少年は辺りを見回し、甘味屋を見つけると再度娘の手を引いてそこに入って行った。二人掛け用の席に差しに向かい合いって座り、注文は「何でも良い」と給仕に任せる。やがて、良く煮込んだ小豆の中に大きな白玉が惜しみ無く投入された汁粉と、濃い茶が、二人分、運ばれて来た。

「食えよ」

 匙を手にして促すと、「で、でも」と獰猛な獣を前に怯える獲物のような細い声が返る。

「食え」

 再度短く告げて、少年は汁粉を匙ですくう。黒糖の糖分が染み込んだ小豆は舌の上でとろけるように消え、白玉も柔らかく、それでいて食べごたえがある。

 娘は手元の汁粉と向かいの少年を、様子を窺うように交互に見ていたが、やがて匙を手に取ると、白玉を一つ、口に放り込んだ。

 充分に咀嚼した後、

「美味しい!」

 素直な感想が零れ落ちて、笑み崩れる。その瞬間、平凡だと思った顔が天の御使いのように輝いて、少年の心の臓は我知らず高鳴って、それを誤魔化すかのように次の白玉を口に放り込んだ。

 すっかり汁粉を食べ尽くした二人は、あがりの茶も飲み干す。

「すみません、ご馳走様です。見ず知らずの方に」

 そこで初めて、娘が深々と頭を下げた。

「あの、お名前を伺っても宜しいでしょうか」

 碧い瞳をした勇者の卵の話は、帝都ではかなり有名になっているかと思ったが、知らない人間も居るのか。少年は腕組みし、その名を口にした。

「アルベイン・レイテル」

 流石にその名前は聞き及んでいたらしい。瞬く間に娘の顔色が青ざめ、少し突き出た唇が小刻みに震える。落ち着きを失くした瞳が揺蕩うように揺れて、それから彼女は、テーブルに頭をぶつけるのではないかという勢いで頭を下げた。

「す、すみません! まさか噂の勇者アルベイン様に物をご馳走になるなど!」

 すみません、すみません、と何度も頭を下げる娘に、「もういい」と手で頭を押さえて顔を上げさせ、少年は眉を顰めた。

「この名前で呼ばれるのは、正直あんまり好きじゃない。ただのアルと呼べ」

「で、でも」それでも娘の狼狽えっぷりは治まらない。「勇者様を愛称で呼ぶなど」

「『すみません』と『でも』しか言えないのかよ、お前は」

 流石に苛立ちが昂揚して来て、投げつけるように言うと、娘は目を瞠り、再度視線を彷徨わせて、今度は静かに一度、頭を深く下げた。

「ありがとうございました、アル様。あたしは『とうに死人』のヤコと申します」

 少年の眉間の皺が深くなる。娘の名前がヤコだと云うのは判った。さっき店の主人もそう呼んでいた。だがその前についた肩書きは何だ。彼女は生きてここに居る。なのに『とうに死人』などと云う不吉な渾名は何だ。

「あたしの番号です」

 少年の不審を気取ったのだろう。ヤコは儚げに微笑み、左腕の翡翠腕輪を掲げてみせる。そこに刻まれた番号は、向かい合わせの距離でも読み取る事が出来た。

「1242?」

 呟いて、首を傾げる。頭の中で咀嚼し、そして家庭教師から教えられた『忌み番』について思い出した。

 帝都に住まう人間に与えられた4000までの番号。そこには『忌み番』と云う、言い換えると不吉になる語呂合わせが存在する。0001番から0100番までの皇家にも、0042番は『死人』と読める事から忌み番とされ使われず、実質皇帝の一族には九十九人までしか列せられる事が無い。だが、一般市民が使う番号には忌み番が当たり前のように発行され、それに当たった人間は忌み人として、影に日向に蔑まされるのだと。

 1242番は確かに『とうに死人』と読める。あまりにも忌まわしき語呂合わせだ。だからこの娘は、酷い仕打ちを受けていたのか。しかも彼女は、それを甘んじて受け入れ生きる道を選んでいる。

「この番号は、母から受け継いだんです」

 しかしヤコは、忌み番の腕輪を大事に大事に撫でさすりながら、静かに目を閉じて、噛み締めるように語るのだ。

「裏通りであたしを産んで死んでた母の、唯一の持ち物でした。これを遺してもらえたから、あたしみたいな人間でも、帝都で暮らす事を許されたんです」

 通例、番号を持つ人間が死ねば、翡翠腕輪は回収される。だが、母親が子を産んですぐにはかなくなった場合のみ、腕輪はそのまま子供に引き継がれる。ヤコを産んだ母親も、忌み人ゆえに裏通りで子を産み誰にも看取られず果てるしか出来なかったのだろう。

「本当にありがとうございました。あたし、本当にそろそろ戻らないと」

 再度頭を下げ、慌ただしく娘が立ち上がる。少年も咄嗟に席を立ち、その手を掴むと、ヤシュク金貨を一枚、彼女の掌に握らせた。ヤコが驚いて目を瞠る。その瞳に自分の姿が映り込んでいるのを見つめながら、少年は言葉を紡いだ。

「それで少しは良い服買えよ」

 ヤコは一際目を真ん丸くし、それから頬を朱に染め、花がほころぶように控えめに微笑む。その顔がやはり輝かしくて、少年は直視出来ずに顔を背けた。

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