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五月十四日
俺は走る事が好きだ。
ランナーズハイ・ジャンキーって訳ではなく、走る爽快感よりも単純に自分の手足を思い切り動かしていると感じられるのが堪らない。スポーツウェアを着込んで
腕を振って風を受け、足で地面を踏み締める振動。前へ前へと進んでいき、景色が自分を中心に後ろに下がっていく。どんどんと変わっていく風景と、筋肉を動かして溜まったものを吐き出す感覚。これが楽しくなくて何の為の身体だって言うのか。
ただ問題なのは、俺は夜にしか思う存分走れないって事だ。
街の音の殆どが寝てしまった時間、誰にも見られない間だけ、俺は本気で、心行くまで街の端から端まで疾走出来る。
電柱の上に登って、それを飛石代りにして遊ぶなんて事も、この時間帯にしか出来ない。剰え、家の屋根に飛び乗って、体操選手の真似事をしながら飛び降りるなんて、真っ昼間からやらかしたら大騒ぎになる。
その時の俺は、ニュートンの林檎よりも、はっきりと万有引力を表現しているだろうに。
やっぱり楽しいが、行き過ぎた力も考えものだ。〝
限界を知らないから、何処までも動きたくなる。
ストレスの様に、毎日少しずつ溜まっていき、何処かで発散しないと爆発する。余分な生気は身体を疼かせる。『生命の躍動』だなんて、よく言ったものだ。我ながら、この名前程、自分の
電柱に飛び乗って、その上から夜空を見上げてみると、月は雲に隠れて太陽の光も届かない。俺は立ち止まって思わず笑ってしまった。
「――もうちょっとだけ、遊んでいこうかな」
誰にも水を差されずに楽しめそうだ。明日は学校もあるし、街が起き出す前には帰ればいいだろう。それに、日が昇るまで時間はたっぷりある。
俺は少しずれたヘッドホンの位置を直して、あと三曲分だけ走っていこうと駆け出した。
*
「――何か、夢……嫌なのを見た、様な……?」
自分の部屋のカーテンの隙間を縫って這入ってきた光で、ぼうっとしながら目を醒ました。
毎度の事だが、顔に直接当たる日光は好きになれない。子供の頃、俺は太陽光には細心の注意を払って生活しなければならなかったから、その影響だろうか。まぁ、そんな事も事故の後は必要無くなってしまったのだが。
「どうでもいいか……。顔洗いに行こ」
昨日――と言うよりも今日の深夜――存分に夜のランニングを楽しんでベッドに入ったのに、寝起きをわざわざ最悪にする必要も無い。
日の光を避ける為にさっさと身体を起こし、部屋を出て洗面所に向かった。
太陽で子供の頃を思い出したからか、廊下に出て改めて慣れ親しんだ家を見回すと、それなりに月日の流れを感じさせる。
考えてみれば、もう、あの事故から十二年。
あれを何と呼ぶのかとすれば〝死〟だろう。取り残された俺の周りにあるのは死。恐怖と孤独からにじり寄って来るものも死。周りの物は全て死んでいて、周りの者は死んでいく。全てが死んだ、例外無く。
ぼうっとした頭でそんな事を考えながら、ふらふらしつつ階段を降りて、洗面台に辿り着いた。余計な事は思い出さなくていい、今はどうでもいい事だ。
蛇口から水を出して、それを手で掬って思い切り顔に掛けると、爽快なんだか不快なんだかよく判らない感覚で、気分と意識がはっきりする。
ぼたぼたと水を垂らしっ放しになっている顔をタオルで拭いていると、鏡に映った自分の顔が目に入った。
「…………」
白い髪に淡紅色の眼。肌も異様に白く、日本人離れしている。両親共に日本人だが、俺の容姿は鏡に映った通り。
メラニン色素が生成されず髪から色が無くなって、同様に肌も白くなり、眼は色が無いので血液の色が透けるから紅く見えるとかいう遺伝子疾患。メラニンが無い為に紫外線が吸収されず、太陽光が体に毒らしいが、俺の体は紫外線を物ともしない。それどころか、病気らしい病気にもなった事が無い。
この体質には、医者も首を捻るばかりで答えを出せない始末だ。アルビノじゃない奇病なんじゃないか、なんて思われているかも知れない。幾ら検査をしてもメラニン色素が無いから、アルビノとしか判断出来ないのだが。これも、あの事故以来、何故か持っていた〝
劣性遺伝でそれを無視。我ながら
「まぁ、普通に生活出来るのに不満は無いが……」
アルビノとしての特徴は、髪や眼にありありと出ているのだが、子供の頃にだけあった生活に不自由な特徴――弱視だとか、紫外線に対する抵抗力の無さ――は今はもう無い。
昔は他人と違っていて、碌に外で遊ぶのも難しかったアルビノの症状を恨んでいた。髪を黒く染めたりしても、サングラスを掛けなければならなかったし、白過ぎる肌は好奇の対象にされる。子供ながらに周りの大人が、口には出さないけれども俺に対して当惑していたのも判った。
気を遣ってくれての事だったのだろうが、逆に自分が普通じゃない事が余計に際立った気がして、遠い隔たりを感じた。常に自分だけ独りで居る様な、まるで死んでいる様な感覚。
だから、俺は髪を染めるのを止めた。気を遣われたくなかったし、周りを気にしたくもなかった。他の人と同じ様に振舞って、自分の事を『普通じゃない』と考えるのを止めて『個性』だと割り切った。
それを実行してみた時には、症状が無くなっていたのは幸運だったと思う。お陰で生活自体は何の支障無く出来たから、今は、この容姿の利点と言えば、大抵の人には一目で憶えてもらえる事だろうか。逆にそれが鬱陶しかったりもする時もあるが。
赤と白は未だに嫌いな色だが、今では昔の様に自己嫌悪と繋げてはいない。
「よし」
頬を軽く自分で叩く。頭の方もしゃっきりとしてきた……早く弁当でも作ってしまおう。
俺は台所に行って、あるもので適当に朝食と弁当の準備を始めた。
朝食にはトーストを三枚焼きつつ、弁当には食パン四枚分のタマゴサンド。朝はいつも時間が無いからちょっと量が少なめになってしまうが、放課後に食べ歩きする事を考えれば、まぁ我慢出来る。
手早くトーストをやっつけて、台所を片付けてから俺は身支度を整え始めた。
歯を磨き、学校指定のブラウスを着る。左側に付いたボタンを上から下まできっちりと閉じ、ネクタイを締めて上着のブレザーを着る。あぁ、そう言えばもうすぐに六月だ。夏服を用意しておかないと。肌が露出する半袖は嫌いだから、長袖を。
着替えた後、寝癖の付いている髪を梳かし整える。友達は白い髪が綺麗で羨ましいと言ってくれるが、俺と同じ様に色を抜きたいっていうのは今一つ理解出来ない。髪が傷むだけだと思うんだが。っていうか、そもそも校則でそんな派手なのは無理だし。
鏡で寝癖が無い事を確認して、制服も整えてから家を出た。
外は直射日光と違って、暖かい陽光が気持ちいい。朝の散歩気分で登校出来る事を考えると、やっぱり地元に高校があるっていうのはいい、
「イッエーイ! 珍しく朝からヌエを発見したぜー!」
――唯一つ、馬鹿が居る事を除けば。
振り返り様に、もうすぐ後まで来ている奴に向かって拳を放つ。向こうも何か仕掛けてきているだろうが、パターンは決まっているので、考える必要も避ける必要も無い。
「ふぐぁっ!?」
予想通り極まった。左手に確かにある感触は、硬い顎への一撃。
俺に殴られた男――同級生の
完璧。有馬はもう立てないだろう。こちらに飛び掛ろうとしている所へのカウンターだ。
「っぁあ……、気持ち悪ぃよぉ」
学習能力皆無の猿が呻いた。
「当たり前だ馬鹿。軽い脳震盪ぐらい起きてても不思議じゃない」
毎回人を見つけると攻撃を仕掛けてくる罰だ。何を考えて町の往来で大声出して恥ずかしい事をしてくるのかは解らない。思考回路が著しく人格と共に破綻した奴の考えなんて解る訳も無いのだが。
「ヤベェ、吐きそう……介抱、優しい介抱を求むヌエ……」
地面に這いつくばりながら、有馬は俺に助けを求める様に手を伸ばしてくる。うざかったから、その手は蹴り飛ばして弾いた。
「知るか。勝手にくたばれ」
「この、外道……」
辛うじて、動いていた手がぱたりと地面に落ちた。
何とでも言え。先に仕掛けてきたのは有馬だ。正当防衛だ。あそこで反撃しなければ、俺が被害を受けていたんだし、どうせ気が付けば漫画みたいな速さで回復しているんだから、更にどうでもいい。
「ん?」
ふと、馬鹿を放置して道の前を見遣ると、一部分だけ人が避けて通っているのが見えた。何だろうかと気になり、少し足早になる。
遠目に、ガードレールが歪んでいるのが見えた。だが、避けて道を通っている人達は、ガードレールを気にした訳ではない様だ。縁石の近くに視線を落としている。
「…………」
三毛猫の死体だった。
小さな身体は血で赤くなっている。ただの赤い液体なのに、それが血だと判ってしまうだけで途端に生々しい。流石に鉄の臭いはしてこないが、それでもそれは血で、流れ出ていて、死を想起させる――意識が、十二年前の記憶に繋がる。
孤独と恐怖――生きる意味と理由、その強制と消失。
裡にざわめく様な、何とも言えない不安感が湧き上がる。しかもそれは、俺自身とは乖離していて、悪夢に似ている。上手く思い出せないのに、とても厭な感覚だけがある。過去の肯定と現在の否定が重なり合っているとでも言えばいいのか――矛盾だ。
頭を振って、意識を現実に戻した。
この猫は、車に轢かれてしまったのだろうか。まだ死体が回収されていないって事は、つい最近轢かれたばかりの様だ。血もまだ、黒く乾いていない。
不自然に大きなタイヤの跡が歩道側に弧を描いて残っているので、きっと、深夜辺りに轢かれてしまったのだろう。
これで皆、ここを避けていたのか。
明確な死。命は無い。つまりこの『三毛猫の存在』は終わった。
酷く簡単で、戯れているとしか思えない程に、終わればそれまで。この猫の意味はここで終わる事になった。この猫の存在理由はその命と一緒に消えた。矛盾の表出としか言えないが、それは――顕れた方がいいのか、否か。
そんな事、俺が決める事でもないし、知るべき事でもないが、
「……霊になっても、碌な事、無いからな」
俺は動かない猫に目を落として、そんな事を呟いていた。
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