9

 いつもの正装で、彼は喧騒の中をすり抜けるように歩いていた。ただしそこは初めて歩くような大通り。スーツ姿の大人や学生が何人も自分と無関係にすれ違っていく。

 少年は半笑いで自分の帰りを待つ者と、彼らの帰りを待つ者との差異を脳裏に数えていった。誰も彼が貧民街から出てきた男娼であるとは気付かない。同じようにここにいる人間の誰が幸福で誰が不幸か、少年にはわからない。

 俺たちの不幸の一端は間違いなく彼らが担っている。彼らが俺のような混血を差別しなければ、俺たちの境遇はもっとマシなものになっていただろう。だけどその罪を彼らは認識できないのだ。俺の顔を知らないままに彼らは俺たちを不幸にしているんだ。

 そういうことと無関係かつ無自覚に得た、彼ら自身の幸福や不幸を俺は何一つ認めたくない。

 そんなことを益体もなく考えながら、最後になるかもしれないその街の空気をゆっくりと吸い込んだ。わずかでも過去を振り返れば死にたくなってしまう絶望だけがこもった記憶の香りがした。

 目的のビルの裏にまわり、非常階段を登り始める。金属質な音が遠くの騒音と混ざって天高く反響する。そして四階。表通りを通ったけれど、結局は裏口から建物に入り込む。

 中華系の性風俗店。宿泊用の備品らしきものがダンボール単位で積まれた倉庫を抜けて、業務員用の通路を迷いなくひとつの扉に向かって歩んでいく。そこにはスーツを来た男が立っていて、簡単な身体検査のあと、扉の向こうへと通してくれる。

 少年の手には大きすぎる指輪には、特に注意を向けられることもなかった。

 幅の広い螺旋階段を登り、ひとつ上の階でもう一度男に扉を開けてもらう。その最上階のワンフロアは丸ごと、リウ専用の客室となっていた。窓際の座椅子に腰掛け、防弾ガラス越しに夜景を見下ろしていたリウが気だるげに振り返った。しかし来客が彼であることを確認すると、すぐに興味をなくしたように夜景に視線を戻す。

 その手には確かにひとつだけ指輪があった。

「例の件はまだ片付かないのか」

「……すいません、リウさん」

「謝罪の言葉などいらない。釣りには忍耐が必須だ。成果を出すまで黙って待ち続けろ」

 少年にとって、相手。つまりイセフ側からの接触がない限り、現状においてできることは何もない。だからリウとしても彼を責めたところで何の得もないとわかっていた。それは当然の道理であった。

 しかし。

「お言葉ですが、リウさん」

「……」

 それは産まれて初めての、少年からの反論であった。リウは彼が言葉を発する前からその顔を知っている。彼を育てたのはリウに返しきれないほどの借金があったろくでなしだったが、そいつが勝手に少年を売り払わないかと監視し、その幼い脳裏に絶対の服従を刻みつけたのは他でもない彼自身であった。

 だから、半ば期待さえするかように、視線で続きを促す。

「それでは、俺の気が済みません」

「……お前の気だと?」

 嘲笑混じりの声音。

「お前の気など知った事ではない、が――聞いておいてやる。言ってみろ」

「はい、リウさん。つまり俺が言いたいのは、埋め合わせをさせて欲しいということです。俺は与えられた仕事も果たせずにリウさんの面を拝むのが、どうも耐え切れないらしいんです」

「……それで?」

 少年は何ら感触のない相手の表情に恐れを覚えながら、その言葉を口にした。

「どうか、俺を抱いてくれませんか?」

 長い沈黙が置かれた。更に言い訳がましい言葉を連ねようとして口を開きかけて、しかしそれさえも躊躇われて何も語らずに待ち続ける。

 静かで小さなため息。

「おこがましい」

「……」

「金を置いて出て行け」

 そう言って、また夜景に顔を向ける。

「なら、どうして――」

 しかし彼は出て行かずに言葉を続けた。

「どうして俺に会いたがるんですか」

「…………何だと?」

 老父は立ち上がった。正面に立ち、目を逸らそうともしない子どもを見下ろす。

「金の受け渡しだけなら、人を使えばいい。直接俺と会う必要なんてないですよね」

「お前はお前自身の価値をわかっていない。大事な品物の状態を確認するのは、商人として当然のことだ」

「俺はプロなんですよ、リウさん。そういう視線の意味なら知っています。品物の価値を確かめるというなら、俺の一番深いところまで確かめてくださいよ」

「馬鹿を言うな!誰がお前風情を犯すか、身の程を知れ」

 とうとう怒鳴られる。しかし少年は震える声で食い下がった。

「お願いです。不安で仕方ないんですよ。言いつけられた役目も果たせずに生かされていることが。俺はこのやり方しか知らないんです。リウさんの好きなようにで良いですから、俺を安心させてください。俺に価値をください」

「気でも狂ったか。断る。帰れ」

「なら、殺してください」

 その場にひざまずいた。

「こんなに怖い自分の無意味さに耐えるくらいなら、俺に死ぬことを許して下さい」

「……巫山戯るな」

「本気です」

「…………」

 その目は何も見ていないようであった。懐から短刀を取り出し、鞘を払い落とす。少年の傍らに立ち、手元の刃物と少年の白い首筋を何度も見比べた。

 その間、少年は微動だにしなかった。ここまでの言動すべてが演技であったとは到底考えられないほどにその覚悟は固く、最悪の想定さえ微塵も恐れる様子を見せなかった。

 予備動作なく男は短刀を振り上げ、その刃先を振り下ろした。

 ざくりと音がして、老人の脇にあったベッドがえぐられ、短刀は深々と突き刺さった。

「良いだろう、お前の望む通りにしてやる」

「……ありがとうございます、リウさん」

 それから立ち上がろうとして、頭を踏みつけられ床に頬をつける。

「ただし今日ではない。日を改めろ。そうだな、三日後にここで、だ。それからあの小僧も連れて来い」

「……はい、リウさん」

 くぐもった声で返事をしながら、あのヤクの売人はどこまで知っていたのだろうかという疑念が頭を過ぎった。本当は一人の命を懸けるつもりで今日ここに来ていた。しかしどうしてか彼の言ったとおり、結局は二人でリウの相手をすることになっている。されど、彼を疑うような考えを無理に押し退ける。

 もう今更、後にはひけないのだから。


   ※


 住処で彼の帰りを待っていた少年は想定より早すぎるそれに驚いた。

「この前お前の目の前で殺されたやつといい、リウといい、あの一族は揃ってそうなのか」

「馬鹿言え」

 合流した後、夕飯を買いに屋台へ向かう。いつも通りヤクの売人と顔を合わせる。

「まさか俺らが来るまで、いつもここで見張ってるのか」

「まさかネ」

 ははっと笑いながら、

「その程度の労力、惜しむほど馬鹿じゃないネ」

「……そうか」

 急にトーンを変える。

「すり替えたか?」

「まだだ」

 眉を潜めた。それに応えるように言葉を続ける。

「三日後にあいつと一緒に、顔を出すことになった」

「……三日後か。確かか?」

「あぁ」

 足元の砂にしずくがぽたぽたと吸い込まれた。

「……マズいネ」

「え」

 見上げた視線は脂汗を顎から垂らす彼の顔を捉えた。普段から緩みきった表情にしては珍しく、一層の不気味さを覚えさせる。

「何がマズいんだ」

「……いや、俺の考えすぎネ」

「おい、言えよ」

「言ったって仕方ない。そうデショ?」

「……」

 それは確かにその通りであった。たとえ何らかの悪い情報が与えられたとしても、彼はその役割をただひたすらに果たすしかない。

「――それでも」

「用事がある、行くネ」

 しばしの逡巡の間に、逃げられた。よほど都合が悪かったのか。それとも二つの椀を抱えてきた彼と顔を合わせたくなかったのか。

「今の売人?」

「あぁ」

「残念だ。会ったらこれを頭からぶっかけてやろうと思ってたのに」

 そう言って片方を少年に手渡した。ぶちまけられ損ねた汁物を啜りながら、少年は今見た男の挙動を伝えるべきかと悩んだが、結局やめた。本当にどうしようもないほど、彼らには行動を起こすだけの力がなかったのだから。

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